第66話
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ひときわ巨大な瓦礫が突然、真っ二つに割れた。裂けた。
叩き斬られていた。内側から、である。
「聞き捨てならぬ……国王陛下が、どうなされたと?」
血まみれの剣士が一人、真っ二つの瓦礫を押しのけ、立ち上がって来る。
がっしりと力強い肉体は、負傷してはいるものの、戦闘者としての身体能力が損なわれてはいない。
右手では、抜き身の長剣が、燃え上がるような気力の揺らめきを帯びている。
その刃で瓦礫を切断し、立ち上がってきた壮年の剣士に、シェルミーネ・グラークが声を投げた。
「レオゲルド卿……御無事、ではありませんわね」
「見ての通り、危ういところであった」
言いつつレオゲルド・ディラン伯爵が、こちらを見る。
「……ミリエラ嬢、貴女のおかげで助かった。癒しの波紋が、私を救ってくれたのだ。礼を言う、ありがとう」
「私の力ではありません。唯一神の、御加護です」
ミリエラ・コルベムは言った。
魔像が、ぎろりと振り向いてくる。
『へえ……貴女、癒しの術を使えるのね。小さなお嬢様』
勇壮なる男性の石像が、若い女性の声を発した。
『……その聖なる魔力、なかなかのものよ。ボルグロッケンの向こうからでも、こうやって感じられるわ』
ボルグロッケン。
この魔像は、そう名付けられているようであった。
『魔力そのものは、そこの悪役令嬢よりも上……なるほど、ね。貴女でも、いいかもね』
動く石像を通じて、得体の知れぬ女性が、じっとミリエラに視線を注いでくる。
その悪しき眼差しを、シェルミーネが遮ってくれた。
ミリエラを背後に庇い、魔像ボルグロッケンと対峙する。
「ルチア・バルファドール……貴女が何を企んでいるのかは、まあ後程。洗いざらい、ね。まずは、こちらからお願いしたわけでもない加勢、助力。感謝して差し上げますわ」
『みんな色々企んでるものよ。私も、あんたも。それに……この人も、ね』
無表情な凹凸でしかない石像の顔面が、この場における最大の敵に、向けられる。
人型の陰影を内包した、黒いローブ。
暗黒そのものと言うべき姿が、激しく歪んでいた。
光そのもの、と言うべき一閃が、闇色のローブを叩き斬ったところである。
レオゲルドの、踏み込みと斬撃。
ミリエラでは、視認すら出来ない動きであった。
ただ、電光の飛沫が蹴散らされ消えてゆく様が見えた。
白い、気の光を帯びた刃で、レオゲルドは電撃を斬り砕いて踏み込み、ジュラードに一撃を浴びせたのだ。
「ふむ……さすが」
切り裂かれたローブから、鮮血……ではなく霧状の闇を放出し漂わせながら、ジュラードは言った。
枯れ枝のような五指が、パリパリと電光を帯びている。
電撃の第二射をレオゲルドに放つ事は、断念したようである。
「……さすがは、近衛騎士団屈指の剛勇。レオゲルド・ディラン伯爵、貴殿を敵に回す事となったのは失策である」
「世迷い言は、休み休み言うものだ」
言いつつレオゲルドも、さらなる斬撃を繰り出そうとはしない。
「これだけの行いをしておきながら……私を、ディラン家を、敵に回すつもりは無かったなどと。よもや言うまいな?」
異形の怪物たちが、ジュラードを護衛する形に進み出ていた。
牙と鉤爪。四本腕や六本腕が構える武器、棘のある触手。
それらを油断なく見据え、レオゲルドは言い放つ。
「我が邸宅に、人外のものどもを送りつけての無法狼藉……答えろ、ジュラードよ。これはゴルディアック家の総意であるのか? であれば我らディラン家、小なりと言えど……旧帝国貴族最大の名家たる方々に、全力で刃向かわねばならなくなる」
「その必要はない。ゴルディアック家は、もはや終わる」
ジュラードの口調は、平然としたものである。
レオゲルドの斬撃が、どれほどの痛手となったものか。見ただけでは、わからない。
「腐り果てた巨木が、自重に耐えかね倒れゆくだけの事。朽ち果てて、ここヴィスガルドの大地を……まあ、いくらかでも肥やすのであろうかな。ともかく、そんなものに関わっている暇は無くなる。この先、貴殿は今までにも増して多忙となるぞレオゲルド卿」
現時点で、すでにレオゲルドは多忙を極めていた。
怪物たちが本格的に、ジュラードの護衛を始めている。
牙を剥く口吻が毒蛇のように伸び、あるいは六本の腕で操られる槌矛や斧が唸りを発し、レオゲルドを強襲していた。
ディラン家の兵士たちが一斉に動き、その強襲を食い止める。
レオゲルドが、指揮を執りながら率先して剣を振るい、反撃の先頭に立つ。
集団戦が、始まっていた。
そこから何体かの怪物が離脱し、こちらに向かって来る。
屈強なディラン家の軍勢ではなく、非力なコルベム父子に狙いを定めている。
悲鳴を漏らす父クルバートを、ミリエラは小さな身体で庇った。
そこへ、怪物たちが襲いかかる。
鉤爪の生えた豪腕が、毒々しい触手の群れが、押し寄せて来る。
それら襲撃そのものが、一閃で切り刻まれていた。
鉤爪のある手首が、触手の切れ端が、大量に宙を舞った。
ミリエラが目視出来たのは、馬の尾の形に束ねられた金髪が、ふわりと揺らめく様だけである。
男装の細身が、しとやかに躍動を止めていた。
うっすらと魔力で発光する長剣を、シェルミーネは右手で休ませている。今の一瞬で、どれほど斬撃の乱舞が繰り出されたのか。
怪物たちは切り刻まれ、細切れの肉片に変わって飛散しながら、腐り砕けて消え失せる。
その間。
魔像ボルグロッケンが、雷に打たれていた。
ジュラードの片手から放たれた、電光の嵐。
それが、動く石像を直撃し、飛び散って失せる。
ボルグロッケンは、全くの無傷である。
「見事……」
ジュラードが呻く。
「これほどの魔像を造る術者が……帝国滅亡後、五百年を経た後も存在していたとは喜ばしき限り。ルチア・バルファドールと言ったか? よもやバルファドール家の魔法令嬢? 実に見事だ」
『私はね、ただ教わった通りに、この子を造っただけ』
魔像が言った。
否。この場にいないルチア・バルファドールという女性が、魔像を通じて言葉を届けているのだ。
『私に何もかも教えてくれた人が、貴方とお話をしたいそうよ。ちょっと代わるわね……』
『……我が師、ジュラード……貴方なのですか。そこにいるのは』
ボルグロッケンが、年配と思われる男性の声を発した。
『一体、何をしておられるのです……!』
「久しいな、イルベリオ・テッド。良き弟子を、育てているようではないか」
ジュラードが、微かに笑う。
「ヴェノーラ・ゲントリウスの後継者が……育ちつつ、あるのだな。今」
『……私に、そんなつもりはありませんよ』
暗い、声だった。
『貴方は、後継者を育てるのではなく……御本人を蘇らせんとしておられる』
「お前たちとて、そうであろう? だから、そこにいる」
アドランの帝国陵墓に、自分たちはいる。
ルチア・バルファドールは先程、そう言っていた。
「ヴェノーラ・ゲントリウスは、己の復活の手立てを帝国陵墓に遺した。良い、それを明らかにしてくれ。私はな、死せる者の復活を別方面から追究してみる……ギルファラル・ゴルディアックの秘法、私は必ず見つけ出す」
『我が師ジュラードよ。私は……貴方に師事した事、ヴェノーラ大皇妃の黒魔法をいくらかなりとも受け継いでしまった事、後悔しております。これは……災い、そのものです。この世に残しては、ならぬ力です』
「そんなものを、お前もまた誰かに受け継がせずにはいられなかった。そうであろう? イルベリオよ。ルチア・バルファドール……まさしく魔王の素材。花嫁選びの祭典を勝ち抜き、アラム王子と結ばれておれば、ヴェノーラ大皇妃と同じ道を歩んだかも知れぬな。それもまた復活の、ひとつの形」
切り裂かれたローブから、血飛沫の如く闇が溢れ出し、ジュラードの全身を包み込む。
逃げるつもりだ、とミリエラは直感した。
シェルミーネも、そうであろう。
「お待ちなさい……!」
斬りかかろうとする。
怪物の一体が、こちらへ向かって来る。全身から毒蛇を生やした、異形の巨体。
それら毒蛇が、一斉に毒液を吐いた。
シェルミーネが左手をかざす。
魔力の防護膜が広範囲に渡って発生し、シェルミーネを、コルベム父子を、包み込む。
そこへ毒液の豪雨がぶつかり、飛び散った。
シェルミーネが、かざした左手で印を切る。
美貌の眼前で、鋭利な人差し指と中指が直立する。
魔力の防護膜が縮んで固まり、大型の光球と化し、毒液の飛沫を蹴散らし蒸発させながら飛翔した。
そして、怪物を直撃する。
無数の毒蛇を生やした巨体が、砕け散って消滅している間。
魔像ボルグロッケンが、自身の周囲に、いくつもの太陽を浮かべていた。
小さな太陽のような、火球であった。
それらが一斉に発射され、退避中のジュラードを強襲する。
何体かの怪物が、進み出て盾となった。
異形の巨体が複数、火球の直撃を喰らい、灼け砕けて消滅した。
その向こうで、闇が薄れてゆく。
ジュラードの姿は、そこには無かった。
声だけが、残された。
「遠隔魔法攻撃の、中継……そのような機能まで備えているとは、敬服の極みである。直接の対面を楽しみにしておこう、魔法令嬢」
言葉は、シェルミーネにも向けられた。
「そして悪役令嬢よ。貴女は今後ルチア・バルファドールと戦わねばならぬ、この私にも狙われる。ゴルディアック家崩壊の余波にも、襲われるかも知れん。過酷な戦いを強いられる。力が欲しくなる時もあろうな」
「ふん……お伽話の悪魔の如く、何か力を授けて下さるとでも?」
シェルミーネの優雅な冷笑が、強張り、引きつり、硬直した。
彼女が硬直するほどの言葉を、ジュラードが残したのだ。
「どうにもならなくなったら……ヴェルジア地方、ゲンペスト城へお行きなさい。英雄ガイラムが、末裔たる貴女のために力を解放してくれる、かも知れぬ」
ジュラードの姿はすでに無く、その声も次第に薄れ、消えてゆく。
「かの封印は、ガイラム・グラークが己の血をもって施したもの……それを無効化するものは、グラークの血。ただ、それのみ……」




