第65話
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温もりが、失せてゆく。
あの時シェルミーネ・グラークは、はっきりと、それを両腕で感じ取った。
アイリ・カナンの温かく柔らかな肉体が、冷たく硬い屍に変わってゆく。
目の前で、腕の中で、起こっていた事を、シェルミーネはしかし止められなかったのだ。
あの時。
あの場に、ジュラードが現れていたら。
アイリの屍に、魔力を注入してくれていたら。
アイリは、蘇る。
そして数日、あるいは数年、シェルミーネと共に過ごした後、崩れ落ちる。
先程の、マグレル・ゴルディアック伯爵のように。
現実に今、それが起こっているかの如く、シェルミーネは呆然としていた。
「崩れ落ちは、せぬ。永遠にだ」
ジュラードが言った。
その周囲で、様々な異形が揺らめき、暴れ出さんとしている。
触手、角、鉤爪。剣や斧、長槍を振り立てる四本腕や六本腕。
大魔導師ギルファラル・ゴルディアックが作り上げ遺した、怪物の群れ。
半壊したディラン邸の庭園に、そんなものが出現していた。
呆然とするシェルミーネの背後では、元税務官クルバート・コルベム伯爵と息女ミリエラが身を寄せ合い、怯えている。
自分がこの場で、何よりも優先させなければならない事。
それは、この父娘の身の安全の確保である。
己にそう言い聞かせようとするシェルミーネに、ジュラードは語りかけてくる。
「崩れ落ちはしない、朽ち果てる事のないアイリ・カナンがな、帰って来るのだぞ。ギルファラル・ゴルディアックの秘法、その完全なるものが手に入れば……だからシェルミーネ・グラークよ、私に力を貸せ」
「ジュラード殿、貴方は……」
シェルミーネは、どうにか声を発した。
「誰が、アイリ・カナンを……殺したのか……ご存じ、ですの……?」
「知っている。暗殺業者ザーベック・ガルファを雇った者が……誰であるのか、私は知っているが無意味であろう? 悪役令嬢よ。その暗殺も、無かった事になるのだからな」
「……生き返る、から? アイリさんが……」
シェルミーネは呻く。
「お墓の下で……アイリさんの屍は今頃もう、朽ち果てておりますわ……」
「屍は朽ち果てるもの、であるからな。今しがたのマグレル・ゴルディアックを見ても、明らかであるように」
ジュラードの両眼が、黒いフードの内側で燃え上がる。
「屍に魔法を施し、蘇らせる……その手法には限界がある、という事だ。屍の方に働きかけたのでは、真の復活には辿り着けぬ。だから……別のものに働きかけ、死者をこの世へと帰還させる……その手法を、ギルファラル・ゴルディアックは編み出し、構築し、そして遺したはずなのだ!」
「……それで、どなたか……生き返った、のですか……?」
ミリエラが、小さな、それでいてよく通る声を発した。
「建国王アルス・レイドック陛下を……ギルファラル様は、蘇らせようとなさって……だけど結局それは出来なかった、のでは……ないのですか? だから……死んだ人を生き返らせる魔法なんて、結局は遺っていない」
「やめろ」
ジュラードの口調が、危険な響きを帯びた。
「命とは、その程度のものか。ひとたび失われたら、二度と取り戻せない……それほど脆弱なものなのか、人の命とは! そんなはずはない!」
「……それほど脆く、弱く、儚いもの……では、ないのでしょうか。人の命は」
ミリエラは言った。
呆然と無様な棒立ちを晒すシェルミーネを挟んで、ジュラードという恐るべき相手と会話をしている。
「失われたら、取り戻せない……それが、人の命ではないのですか。死んだ人は、もう二度と……生き返らないんです」
死んだ人間は、生き返らない。
そうだ、とシェルミーネは思い出した。
それは自分が、この少女に向かって、偉そうに語った事ではないのか。
「ジュラード殿。貴方は……帝国時代の方、なのですよね」
ミリエラの言葉に合わせるかのように、周囲で、気配が立ち上がってくる。
失われかけていた、気配。
それらが、蘇りつつある。
「……ヴェノーラ・ゲントリウス陛下は、貴方にとって……とても大切な方、だったのですね」
ミリエラが先程から拡散させていた、癒しの力の波紋。
その中から、ディラン家の兵士たちが立ち上がっていた。
傷が、癒えている。
「それでも……失われてしまったら取り戻せない、命のひとつだと思います。取り戻そうとして、より多くの命を奪う……それは、してはいけない事です」
「…………見事だ、幼き令嬢よ」
ジュラードが言った。
「唯一神の加護による、癒しの白魔法……負傷した者を、ほぼ無限に治療してしまう。失われてしまえば取り戻せない命を、まず失わせまいとする力……ふ、ふふふ。すでに命を失ってしまった者にしてみれば、許せぬ力であろうなあ。何故、自分の命は救ってくれなかったのか……と」
「…………偉大なる唯一神は、アイリさんを守っては下さいませんでしたわ」
兵士たちと共に、シェルミーネは武器を構えた。
全員でミリエラを護衛する陣形である。
「それは仕方のない事……神は、全能の存在ではありませんもの。全能の存在など……あり得ませんもの」
「その通り、神とは非力にして無能なるものよ。神になど頼れはせぬ。失われた命は……だから我らが、己の力で取り戻さなければ」
ジュラードの、右手が電光を帯び、左手で炎が渦巻いた。
その周囲で、怪物たちが巨体を前傾させて牙を剥く。
ジュラードの命令ひとつで、一斉に襲いかかって来るだろう。
その命令をまだ下さず、ジュラードは言った。
「己の力で……アイリ・カナンを取り戻したいとは思わんのか、シェルミーネ・グラーク。何も出来ぬ神になど、運命を委ねてはならぬ。私に力を貸せ」
「諦めなさい」
シェルミーネは告げた。
細身の長剣に、右手から魔力を流し入れる。
光の刃を、ヒュンッと構え直す。
「失われた命を……私は、諦めますわ。だから貴方も諦めなさい」
「諦めはせぬ。さあ、どうする」
「……ミリエラさん、クルバート卿。それに、ディラン家の方々」
油断なく怪物たちを見据えたまま、シェルミーネは前に出た。
「どうか……お逃げ下さいませ。この敵は、私一人に狙いを定めておりますから。皆様に、巻き添えとなって戦う理由など」
「……アイリ殿下がな、実は偽物じゃないかって噂。あるには、あったんだよ少し前から」
兵士たちが、口々に言った。
「あんたは……あの方の、仇討ちをしようとしてるんだな。悪役令嬢殿」
「二年前、俺たちは貴女が大嫌いだった」
「今だって別に好きになったわけじゃないが、それはそれとして。逃げろと言われて逃げられるものかどうか、少しは考えてみてくれ」
「俺たちはディラン家の兵士……このお屋敷はな、防衛線なんだ。ここに出現した敵は、ここで殲滅する」
怪物たちに槍先を向け、ディラン家の兵団は陣形を組んでいる。
「……この連中が、王都の民を襲う前にだ」
「シェルミーネ嬢、あんたも手伝え!」
怪物たちが、押し寄せて来た。
兵士たちが、迎え撃つ。ぶつかって行く。
「戦う方々を……止めるのは無理、ですわね」
シェルミーネは呟き、地面を蹴った。
狙いを、ジュラードに定める。
暗黒色のローブから現れた、枯れ枝の如き両手から、電光と炎が迸ったところである。
かわさず踏み込みながら、シェルミーネは長剣を一閃させた。
魔力を帯びた細身の刃が、光の弧を描き出す。
空を大きく切り裂いて伸び広がった、斬撃の弧。
それが、ジュラードの電光と炎にぶつかって行く。
ぶつかり合ったものが、全て砕け散った。
炎が、電光が、斬撃の弧が、煌めく破片となって飛散する。
それらを蹴散らして、さらなる炎の渦が、電光の嵐が、ジュラードの両手から放たれてシェルミーネを襲った。
そして、止まった。
何者かが、シェルミーネの眼前に着地したのだ。
白色のマントとフードで正体を隠した、大柄な人影。
天空から壁が降って来た、とシェルミーネは思った。
その壁に、電光と炎が激突する。
マントとフードが、焦げてちぎれて跡形もなくなった。
無傷の正体が、露わになる。
シェルミーネは、半ば呆然と見入った。
まさしく、壁であった。
人の形をした石壁。そう見えた。
大柄でたくましい男、の石像である。
石像が、どこからか投げ入れられてシェルミーネの盾となった。
違う。
石像が、どこからか跳躍して着地し、シェルミーネを庇ったのだ。
そして今、滑らかに身構え、ジュラードと対峙している。
「……魔像、か」
興味深げに、ジュラードが呟く。
「陵墓内に配置されたものらと比べ……遥かに小型ではあるが、動きは良い。強度もある。なかなかの術者によるもの」
『誉めていただいて、どうもありがとう』
魔像が、言葉を発した。
『貴方とも、ちょっと色々お話したいところだけど……その前に。あー、あー。聞こえる? 音声ちゃんと届いてるかな、もしもーし。はい、こちらはアドラン地方の帝国陵墓。今ね、帝国で一番悪い人の玄室に来ております。凄いですねー、この棺桶。今にも開いて出て来そう』
「ルチア・バルファドール……!」
シェルミーネは、息を呑みながら叫んだ。
「何故……! 貴女、一体何を」
『今日はねえ、今からねえ。こちらのヴェノーラ・ゲントリウスっていう人を、ちょっと復活させてみようと思います。黒薔薇党の方々から全面的に御協力いただける事になりまして、はい。皆さん、御自身の意思で憑り代になって下さるそうで、いやあ泣けますねえ』
魔像が、振り向いた。
表情のない、石像の顔面。
そこに一瞬、魔法令嬢の不敵な笑顔が浮かび上がった、ようにシェルミーネには見えた。
『あと国王陛下も今こちらにいらっしゃいます。私ら今ね、ちょっとした叛乱とか起こせますよ? 退治なり討伐なり……しに来なさいよ、ねえド腐れ悪役令嬢ちゃん』




