第60話
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人の怨念とは、非力なものである。
憎い相手を、ただ憎むだけでは、傷ひとつ負わせる事も出来ない。
相手に、多少なりとも傷を負わせる。
それには、肉体を用いての行動が必要となるのだ。
大皇妃ヴェノーラ・ゲントリウスの肉体は、すでにこの世からは失われている、はずであった。
石棺の中にあるのは、もはや肉体とも呼べぬ、朽ち果てた白骨の残骸。
そのはずであった。
石棺の蓋に手を触れた瞬間、しかしイルベリオ・テッドは確かに見た。
白骨の残骸でしかない、はずのものが、石棺の中で叫んでいる様を。
その叫び声を、イルベリオは確かに聞いた。
視覚・聴覚を介することなく、それらは脳髄に直接、突き刺さって来たのだ。
憎悪が、怨念が、直接。
頭蓋骨の内部に、押し入って来たのである。
(こ……これが……)
脳髄を食い荒らされる、にも等しい感覚の中。
イルベリオは懸命に、己の思考を保ち続けた。
(これが……五百年もの長きに渡って残留し続ける……死者の、想念……?)
その思考が、押し寄せる怨念の嵐に粉砕される……寸前。
声が、聞こえた。
「……お気を強く持ちましょう、イルベリオ先生。貴方の傍には、唯一神がおられます」
クリスト・ラウディース元司祭。
その穏やかな口調に合わせ、優しい、そして強固な力が、イルベリオの脳髄を包み守る。心を、防護する。
聖なる防護に、凄まじい怨念の嵐が激突する様を、その防護の内側からイルベリオは見た。観察した。
そして思った。違う、と。
死せる大皇妃の、これは怨念ではない。
(憎しみ、ではなく……これは……渇望……? 生きる事への……)
唯一神の加護、聖なる防護。
その内側から、イルベリオはようやく、石棺の内側で荒れ狂うものを、落ち着いて見つめる事が出来た。
怨念・憎悪と見紛うほどの、渇望の念。
それを、この石棺に封じ込めたのは、ギルファラル・ゴルディアックであろう。
帝国の大魔導師による封印の奥で、ひたすら渇望の念を燃やす古の大皇妃に、イルベリオは語りかけていた。
「……生きたかったのですね、ヴェノーラ・ゲントリウス陛下。生き返りたいので、ございますね」
石棺の奥から、叫び声が返って来た。
聞き取れない。
死せる者の想いは、そうそう生者に伝わるものではない。
ましてや、封印を施されているのだ。
かつて南方で私塾を開いていた頃。
イルベリオには一人、有望な弟子がいた。
領主ゲラール家の令嬢。
魔力そのものは、さほどではなかった。
だが。人の心に入り込む魔法に関しては、天性のものを持っていた。
(ラウラお嬢様……貴女であれば……)
封印の上からでも、死者の心と触れ合える魔法使いに、あのままであれば育っていたかも知れない。
ゴルディアック家への輿入れが、なければ。
石棺の中、封印の奥で、またしても絶叫が起こった。
聖なる防護もろとも、イルベリオの頭蓋を粉砕してしまいかねない絶叫。
「我らは……何をすれば、よろしいのですか」
封印の中から響き届く絶叫に、イルベリオは問いを返した。
単なる絶叫ではない。明らかに、言葉を成している。
石棺の外にいる者へ、何かしらを伝えようとしている。
聞き取れぬそれを、聞き取らねばならない。
今ここにラウラ・ゲラールがいない以上、イルベリオがやらなければならないのだ。
「教えていただきますよ、ヴェノーラ陛下。貴女様の復活のために……我々が一体、何をするべきであるのか」
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人の怨念とは非力なものである、と聞く。
それはそうだろう、と国王エリオール・シオン・ヴィスケーノは思う。
憎い相手を、ただ憎むだけで殺傷する事が出来るのであれば苦労はない。
そんな非力な怨念も、魔法使いによって形を与えられれば、物理的に何かをする事が可能となる。
「はっきり言って雑魚ですが……普通に人を殺す、くらいの事は出来ますよ。この連中」
ルチア・バルファドールがそう紹介したのは、兵士の一団である。
材質のわからぬ甲冑の中で、陰影そのものが、人の形に凝り集まっている。
そんな兵士たちが長槍を携え、トーランド伯爵邸の庭園に整列し、部隊を成していた。
「ほう……ふむ、これは……見事である」
エリオールは見渡し、感嘆の声を漏らした。
「雑魚とは言うが、容易く数の揃う使い捨ての戦力……重要であろう?」
「食糧も寝床も要りません。用がない時は、この中にしまっておく事も出来ます」
光の塊を、ルチアは片手で軽く掲げている。
暗い、光だった。
闇よりも暗い光。そんな事を、エリオールは思った。
光か闇か判然としないものが、ルチアの片手で、人の頭ほどの球形を成している。
この陰影の兵士たちは、その中から生まれたのだ。
「ルチア・バルファドール……そなた、戦を起こすつもりか?」
エリオールは、問いかけてみた。
「それが、出来るのではないか?」
「……国王陛下が、私に何を教えて下さるか。まあ、それ次第ですね」
ルチアの声から、感情は読み取れない。
「私が今、この連中を使って大規模な人殺しを……やらずにいる理由はね。私からアイリを奪った奴が誰なのか、を知らなきゃいけないからです。それをまず国王陛下、貴方から教えてもらわないと」
本当に大切な友であったのだ、とエリオールは思った。
王太子妃アイリ・カナンは、このルチア・バルファドールにとって、本当に。
「教えてやる、代わりに……帝国の魔王ヴェノーラ・ゲントリウスを復活させろ、と国王陛下はおっしゃる。面白い、と思いますよ。あの大皇妃様には、私も憧れてますから」
自分にも友がいた、とエリオールは思う。
(かけがえのない友、と私は思っていた。さぞかし……迷惑であったろうな? シグルム・ライアットよ)
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「役立たずの国王がぁああああッ!」
絶叫が響き渡り、陰影の兵士が二体、三体と砕け散った。
消えゆく破片を蹴散らして、電光がバチバチッ! と荒れ狂う。
帯電する肉塊、としか表現し得ぬものが、そこに出現していた。
牛ほどの大きさ、であろうか。
ずるりと庭園を這いずる、巨大な肉塊。
その体表面全域で、無数の醜悪な人面が、腫れ物の如く隆起しながら歪み、眼球を血走らせ、口から電光を吐き出している。罵詈雑言と一緒にだ。
「お前が、何もしてくれなかったせいで! 私は、ミリエラを取り戻す事が出来なかった!」
「男は、男は! 男は所詮! 何の役にも立たない!」
「女! やはり女、女が! 世の頂点に、立たなければ」
「ヴェノーラ・ゲントリウス陛下のようにぃいいいいい!」
吐き出された電光の嵐が、陰影の兵士たちをことごとく打ち砕きながら庭園を駆け、国王エリオールを強襲する。
にゃーん、と獣の声が聞こえた。
ふっさりとした獣毛の塊が、国王を背後に庇って着地しながら手刀を振るい、襲い来る電撃光を打ち払う。
クルルグだった。
気の光を帯びた手刀の一閃が、荒れ狂う電撃を片っ端から粉砕している間。
「…………っっったく、なぁに晒しちゃってンのかなあぁこォの生ゴミはあああああッ!」
マローヌ・レネクが叫んだ。
綺麗な唇が上下に押し広げられ、臓物が吐き出されていた。
全体に牙を生やした、凶暴・醜悪な器官。
それがマローヌの体内から暴れ出し、海蛇のように宙を泳いで電光を蹴散らし、人面肉塊をグシャリと叩き潰す。
肉片が、眼球が、びちゃびちゃと大量に飛び散った。
クルルグの後ろでエリオールが、呆然と呟く。
「よもや、とは思うが……バレリア・コルベム夫人であるか? 何とも、はや」
「……動きを封じておいたはず、なんだけど」
ルチアは呻き、観察した。
マローヌに叩き潰された肉塊が、震え蠢きながら、パリパリと弱々しい電光を発している。
まだ、生きている。
全身の破裂した部分が、少しずつ隆起している、ようにも見える。
再生、しているのではないか。
「ったく……なぁにやってんスかねぇ、このゲテモノ女は」
言いつつリオネール・ガルファが、すらりと片刃の長剣を抜いた。
「ちゃあんと殺してあげないとぉ、かわいそーでしょうがあ? 殺すしか能のないバケモノになっちまったんならあ、そのくらいキッチリやれと」
「そうねー。アンタみたくチャラッついた馬鹿ガキは殺処分したげないと、確かにかわいそう。生きててもバカしか晒さないし」
「俺バカ晒してる? はらわた晒してるクソ女よりマシだと思うんスけどぉ」
「……アンタも。はらわた、出してみる?」
「よさぬか、そなたら」
クルルグの後ろで、エリオールが言った。
「いい加減にせよ。力を合わせて私を守ってくれねば、困るではないか」
「ふふん? ねえ国王陛下。私ら別に、貴方を守るのが役目ってわけじゃ……ってちょっとアンタ! 何、勝手にクルルグ君の尻尾触ってんのよおおおおッ!」
「職権濫用は大犯罪っスよ陛下! いくら王様だからって、やっていい事と悪い事が」
国王に詰め寄るマローヌとリオネールを、クルルグが殴って黙らせた。
「……どうやらクルルグよ。頼りになるのは、そなただけのようだなあ」
そんな事を言いながらエリオール王が、獣人の若者の太い尻尾に、うっとりと頬を寄せている。
愚かしい騒ぎを一瞥もせずにルチアは、闇よりも暗い光の塊……怨念の塊を掲げ、問いかけてみた。
おろおろと遠巻きにしている、黒薔薇党の党員たちに。
「私の魔法拘束から自力で脱出し、陰影の兵団を粉砕する。叩き潰されても再生する……どうですか? 黒薔薇党の皆様。貴方たちでもね、こちらのバレリア夫人と同じ程度には、強くなれるかも知れませんよ。偉大な御方の復活を口で叫ぶだけじゃなく、実行するための戦力になってみようって人いませんか?」
今この場で返事の出来る、事ではないだろう。
だが。何名かが息を呑み、目の色を変えたのを、ルチアは見逃さなかった。
その時。何者かが、語りかけてきた。
『…………ルチア……お嬢様……』
この場にいない、何者かの声。ルチアにしか聞こえない声。
「……イルベリオ先生!?」
念話、である。
イルベリオ・テッドが、アドラン地方の帝国陵墓から、声だけを届けてきているのだ。
「どうしたの? 随分お疲れの様子……まさか」
『はい、お嬢様……私も、クリスト司祭も、力尽きておりますよ。何しろ……直答を許されぬ身でありながら、ヴェノーラ・ゲントリウス陛下に』
「直接、訊いてみたって言うの!? 無茶するわね……まあ、復活の手段。何としても探し出して欲しいと言ったのは私だけど」
『……お聞き下さい、ルチアお嬢様』
イルベリオは言った。
『大皇妃ヴェノーラ・ゲントリウス陛下の……お身体は、魔封じの棺の中で朽ち果てております。が……五百年を経たる御魂は、その棺の中に、確かに、おわしました』
「……わかった、これと同じね」
暗く光る怨念の塊を、ルチアは見つめた。
「入れ物にするための、新しい身体が必要って事でしょ? それも多分、何でもいいってわけじゃないのよね」
『ヴェノーラ陛下、宣わく……魔力を有する乙女、でなければならぬと』
イルベリオは言い、言葉をたたみかけてきた。
『だからと言ってルチアお嬢様! ご自身を捧げる、などとはおっしゃいませんように』
「ふふん。最終的には、そうなっちゃうかも知れないけどね」
ルチアは、にやりと笑った。
「……一人、心当たりがあるのよね。中途半端だけど魔力があって、身体は私なんかよりずっと頑丈。しぶとさが取り柄の、悪役令嬢よ。大昔の悪役令嬢の憑り代に、ぴったりの人材だと思わない?」




