第6話
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母アルテミラ・グラークは、48歳になる。
若い頃は……否。今なお、19歳の自分より美しいのではないか、とシェルミーネ・グラークは思った。
優しく赤ん坊を抱く、その姿は、慈愛のみならず威厳に近いものすら感じさせる。
仮に自分が母親になったとしても、こうはゆくまい、とシェルミーネは思ってしまう。
「……よくぞ生き延びて下さいました。何よりの孝行でございますよ、殿下」
母が、腕の中の赤ん坊に微笑みかけている。
フェルナー・カナン・ヴィスケーノ王子は、アルテミラに抱かれて、ようやく泣きやんでくれた。
今は、すやすやと眠っている。
愛らしい寝顔に、アイリの面影があるのかどうかは、わからない。
「シェルミーネ……私には、貴女にかける言葉が見つからないけれど」
アルテミラが言った。
「まず認めなさい。この子の母君は貴女にとって、大切なお友達なのでしょう?」
「…………」
何故、この母は過去形を使わないのか。
アイリ・カナンは、貴女の心の中で生きている。
そんな事を、言いたいのか。
「誰も信じていないわよ、あんなお話は」
「……同じ事ですわ、お母様」
ドルムト地方、領主の城館。
グラーク家が代々君臨し続ける、ジルバレスト城の一角。
アルテミラ・グラーク侯爵夫人の、私室である。
露台に出て、夜空を見つめながら、シェルミーネは言った。
「リアンナを……死なせてしまったのは、私」
「それはね、思い上がりというものよ」
「思い上がりますわ。私、悪役令嬢ですもの」
傲慢冷酷な、悪役令嬢。それが、ヴィスガルド国民にとってのシェルミーネ・グラークである。
悪役令嬢の嫌がらせに負けず、幸せを掴んだ。
その姿を国民に見せ続けるのが、王太子妃アイリ・カナン・ヴィスケーノの使命である。
王都では今頃、偽物が仕立て上げられている事であろう。
愛妻の偽物を隣に置いて、王太子アラム・ヴィスケーノは国民に向かって微笑み続けるのか。
本物のアイリは、ドルムトの地に埋葬された。
かつて華やかな祭典が催された王都からは遠く離れ、誰にも知られず辺境の土となった。
それを、アラムに伝えなければならない。
「お母様……アラム王子は本当に、飾り物のような方でしたわ」
シェルミーネは言った。
「私はあの方を、グラークの家名を輝かせるための豪華な装飾品としか思っておりませんでした。飾り物の景品としては、まあ立派な方でしたわね」
「その景品を巡って、貴女たち御令嬢方が一体どれほど美しく醜い争いを繰り広げたものやら」
「御令嬢方は皆、そうでしたわね。アラム王子は単なる豪奢な装身具……けれど、アイリさんだけは」
彼女は、彼女1人だけは、アラム・ヴィスケーノという人間を見つめていた。
王子の花嫁、ではなくアラムの花嫁になるために、あの過酷な祭典を勝ち抜いたのだ。
そんなアイリを、アラムは守らなかった。
(それは……おわかりですの? アラム王子。貴方は、綺麗な飾り物のお役目すら……放棄、なさいましたのよ……)
「シェルミーネ。貴女、何かに決着を付けなければと思っているのね」
アルテミラが言った。
「その前に……貴女自身が、早急に判断しなければならない問題があるわよ。忘れたふりを、しているのかも知れないけれど」
「……いいえ、お母様。今の今まで、本当に忘れておりましたわ」
苦笑、に近いものをシェルミーネは浮かべていた。
「それは……私自身の判断が、許される事ですの?」
「許されずとも。貴女はいずれ、王都へ行ってしまうのでしょう?」
母は、全てを見抜いていた。
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ドルムト地方領主オズワード・グラーク侯爵は、48歳。恰幅の良い、男盛りの人物である。
息子である自分の目から見ても、実に有能な統治者である、とネリオ・グラークは思う。
だが、後世の評価は散々なものとなるだろう。
オズワードの代で、グラーク家は始まって以来、最も広大な領地を有するに至った。
それら領地が、同じオズワードの代で、ことごとく失われたのだ。
グラーク家の最盛期を、築いて即、台無しにした当主。
貴族として、希有な人物ではある。
「おかげ様で父上。私としては、やりやすくなったと思っておりますよ」
ネリオは言った。
「私が次の当主になったとして、何かしら失政をやらかしても『先代様よりはまし』と大目に見てもらえます。大失敗の前例を作っていただき、ありがとうございました」
「……お前に家督を継がせる、などと決めてはおらぬぞ。まだ」
あまり豪奢ではない領主の椅子に巨体を収めたまま、オズワード侯爵はネリオを睨んだ。
ジルバレスト城。謁見の間である。
「長男だから全てが手に入る、とは思うなよ。次期領主が、アルゴやシェルミーネであってはならぬ理由もないのだからな」
「アルゴはともかく、シェルミーネは傑物だと思いますよ。あいつが当主ならば、私は頭を垂れて従います。捨て扶持をもらって安穏と暮らしましょう」
言いつつネリオは、領主の眼前で跪く1人の兵士に視線を向けた。
「その時は、ガロム君が一緒に来て欲しいな。君1人がいてくれれば、他の護衛は要らない」
「は…………」
ガロム・ザグが、困ったように曖昧な返事をする。まあ、困惑するしかないだろう。
「ガロムはグラーク家の大切な人材であるぞ。貴様の私物ではないのだ」
オズワードが言った。
「……御苦労であったな、ガロム。王太子妃殿下の仇討ち、よくぞ仕遂げた」
「いえ、領主様……私は、あの男を捕縛する事が出来ませんでした」
ガロムが平伏をした。
「あやつの背後にいる者に関して……何も、わからなくなってしまいました」
「その通り。生かして捕縛などしたら、その後は尋問あるいは拷問をせねばならなくなる」
オズワードの言葉に、ガロムは平伏したまま固まった。
「手加減の出来ぬ相手であったのだろう? 逃がしてしまうより遥かにましと思え」
「はっ……」
「あのブレック・ディランという騎士は、どうしておるかな」
「命に別状はありません。医師曰く、傷さえ癒えれば腕も脚も元通り動くだろう、との事です」
「……彼には、ちょっと監視をつけておいた方がいいと思うな」
ネリオは言った。
オズワードが一瞬、沈思した。
「自ら命を絶つ……と?」
「護衛対象の貴人に、目の前で死なれていますからね」
しかも、その貴人はアイリ・カナンである。
民の、希望。
王国民が総力を挙げて守らなければならない、と言われている女性だ。
「希望を、守る事が出来なかった……そんな思いに、苛まれているでしょう」
「民の希望、か……」
オズワードは腕組みをした。
「平民に、希望を与えてはならない……ガロムよ。お前の討ち果たした刺客は、そのような事を言っていたのだな?」
「自分の雇い主が、そのように言っていた……との事でありました」
刺客が、雇い主の情報を吐いてしまう。
腕は立つが口の軽い男であったのか、とネリオは思う。
あるいは。民の希望たる王太子妃を殺害する仕事に、やはり忸怩たるものを感じていたのか。
「民が希望を持つ事は、許されない……そのような思想が、王都の貴族社会に根付いているのは事実でな」
オズワードが語る。
「平民でも、努力と運があれば王侯貴族と肩を並べる事が出来る……そのような希望を民に与えてしまう事は、国を乱す原因となる。民衆は、余計な向上心を抱かず下層から国を支える事に専心すべし。それを王族貴族が上から管理する。その体制を維持する事こそが国の安定であり、結局のところ民の幸福に繋がる。以上、このような考え方だ。私の頭にも、全く無いとは言えんがな」
「……それは父上。花嫁選びの祭典の結果を即、否定するような」
「まさにそれよ」
父の口調が、重くなった。
「アイリ・カナン・ヴィスケーノ殿下はな、民衆の希望になりすぎた。先だっての、ボーゼル・ゴルマー侯爵の叛乱……妃殿下を拉致して旗頭に、などという企ても進行していたと聞く。その真偽はともかく」
「一部の……王国の治安を過度に重んずる方々にとって、アイリ・カナン妃殿下は大いに警戒すべき存在であったと」
言いつつネリオも、気分が重く沈んでゆくのを止められなかった。
「……このような話、シェルミーネが聞いたら暴れ出しかねません」
「あやつをなあ……この度の縁談で、大人しくさせる事は出来まいな」
(その話……ガロム君のいる所で、しちゃいますか父上)
ちらりと、ネリオはガロムの方を見た。
シェルミーネの縁談。
話が持ち上がっているのは、ネリオも知っている。相手の詳細は知らない。
ガロムの、姿勢も表情も微動だにしなかった。
固まっているのかも知れない、とネリオは思った。
「……まあ、ガロム君もいずれは知る事。よく聞いておくのもいいかな。どちら様、でしたかね父上。うちの悪役令嬢を娶りたい、などとおっしゃる奇特な」
「ライアット家の若当主だ。先日、本人がこの城を訪れてな。シェルミーネは不在であったので、私が話を聞いた」
オズワードは言った。
「花嫁選びの祭典で、あやつを見かけ……一目惚れをしてしまった、のだそうだ」