第57話
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レオゲルド・ディラン伯爵が、多忙を極めていた。
有能な人間の宿命である、とシェルミーネ・グラークは思う事にした。
国王エリオール・シオン・ヴィスケーノが、襲撃を受けたのである。
それも白昼の王宮内、玉座の間で。
国王の無事は、確認された。
だが護衛に当たっていた近衛騎士たちは、一人も生き残っていない。
中には、叩き潰された屍もあるという。
「……国王陛下は、何とおっしゃっておられますの?」
「何も」
シェルミーネの問いに、宰相ログレム・ゴルディアックは、溜め息混じりに答えた。
「飾り物の国王の命など、どうでも良かろう……と。私に対しては一度だけ、仰せであった」
あの無気力な王であれば、そのように言うであろう、とシェルミーネは思う。
王宮の、とある一室。
ログレム宰相が、非公式に人と会う際、用いている部屋だ。
シェルミーネの現在の立場は、宰相の秘書官……に扮した護衛である。
「数名の侍従が、現場を目撃している。その全員が言うのだよ……恐ろしい怪物が突然、玉座の間に現れたと」
ログレムは語る。
「恐怖心は、人に正確な記憶を失わせる。恐ろしい目に遭った時の事など、克明に覚えていられるものではあるまい。ただ……近衛騎士を殺し尽くすほどの何者かが、あの場に現れたのは間違いなかろうな」
「その何者かが、国王陛下のお命を狙い……近衛騎士の方々が、捨て身の戦いで退けた。と、そのような事ですの?」
「レオゲルド卿の見解は、やや違うようだ」
現場となった玉座の間を、近衛騎士たちの屍を、レオゲルド伯爵は徹底的に調べ上げたはずである。
リアンナ・ラウディース殺害の現場を調べ尽くし、シェルミーネの稚拙な嘘を容易く粉砕してくれたようにだ。
「……国王陛下のお命を狙ったのは、近衛騎士団の方であると。その恐ろしい怪物は、むしろ陛下の御身を守り奉ったのではないか、と。レオゲルド伯爵は言っていた」
「近衛騎士団が……国王陛下を……」
「近衛騎士団にも、旧帝国系貴族は大勢いる。ゴルディアック家に何か言われて拒める者は、そうおらぬ」
ゴルディアック家の当主であるはずの宰相が、そんな事を言っている。
「大魔導師ギルファラル・ゴルディアックは、建国の英雄アルス・レイドックの友にして謀臣……裏表のない豪傑であったアルス王を、知略・謀略・政略の面から支え、このヴィスガルド王国を共に築き上げたという」
ログレムの口調は重く、苦々しい。
憎悪に近いもの、すら感じられる。
「今日のゴルディアック家は……中興の祖ギルファラルの、陰謀家としての暗い一面のみを受け継いでしまった。この私を含めて、の話ではあるが。な」
帝国の時代。
大貴族ゴルディアック家出身の魔法使いギルファラルは、兵卒階級の勇者アルス・レイドックをよく助け、暴君ヴェノーラ・ゲントリウス打倒そしてヴィスガルド建国の大いなる力となった。
ギルファラル・ゴルディアックとアルス・レイドック、個人同士は良き盟友であったのだ。
だが、およそ五百年後の現在。
かつての帝国大貴族ゴルディアック家にとって、兵卒の血筋であるヴィスガルド王家は、忌々しい成り上がり者でしかなくなっていた。排除すべきものと、なっていた。
「この身を流れる、旧帝国の血が……私は、この上なく厭わしい」
ログレムは言った。
「……シェルミーネ嬢。そなたらグラーク家は元々、帝国とは縁もゆかりもない地方騎士団であったのだな?」
「騎士団と言うより、武装した農民に等しきものであった、と聞き及んでおりますわ」
ふっ、とシェルミーネは微笑んだ。
「……成り上がり者、ですわね」
「羨ましい。心の底から、私はそう思う。旧帝国の穢らわしき血筋とは無縁……それが、何よりも素晴らしい」
この宰相は今、本当に、グラーク家との同盟を望んでいる、とシェルミーネは思った。
グラーク家を、己の陣営に引き入れようとしている。
だから、こうしてグラーク家の令嬢を傍らに置いている。
便宜を図ってもくれる。
ならば今のうちに、宰相の権力を利用しておくべきであった。
「ねえ宰相閣下。この子もね、貴方のお嫌いな旧帝国貴族……なのですけれど」
後方に控えていた少女を、シェルミーネは宰相の眼前へと導いた。
「とっても優しい子、ですのよ?」
「……お初に、お目にかかります宰相閣下。ミリエラ・コルベムと申します」
少女が、ぺこりと頭を下げた。
ログレムも立ち上がり、一礼した。
「ログレム・ゴルディアックです。宰相をしておりますが、まあそれほど偉いわけではない……貴女は、よもや税務官クルバート・コルベム伯爵の?」
「娘です。父が……その……」
お世話になっております、とでもミリエラは言おうとしているのか。
ログレムは、重く息をついた。
「……確かに、世話になっている。我らゴルディアック家は、ミリエラ嬢のお父上に。大いに、な」
「父は」
上背があり、背筋もまっすぐに伸びた老人を、ミリエラは見上げた。いくらか背伸びをする感じに、見つめた。
「宰相閣下の御命令で、父は……悪い事を、していたのですか?」
「私の、あずかり知らぬところ……などという言い訳は通るまいな。ゴルディアック家の当主として」
ゴルディアック家が行っている税収の横領に、クルバート伯爵は加担していたのだ。
「父は……捕まって、処罰されてしまうのですか?」
「難しい」
少女の揺れる瞳を、ログレムはまっすぐに見つめ返す。
「貴女のお父上が、やむを得ずとは言え、悪事を働いていたのは事実……宰相の権限をもってしても、それを無かった事には出来ぬ。クルバート卿には正当な裁きを受けてもらうが無論、それはゴルディアック家の者どもとて同様だ」
「正当な裁きの場で……クルバート卿に、ゴルディアック家の悪事を全て明らかにしていただく」
シェルミーネは言った。
「……そうはさせまいと、ゴルディアック家の方々はこれからも、クルバート卿のお命を狙うでしょうね。横領の罪を全て、コルベム家に押し被せた上で」
「それをゴルディアック家の者どもにさせるな、と私に言うのだな。シェルミーネ嬢」
ログレムは、苦笑したようだ。
「私に、長老ゼビエル・ゴルディアックの方針に逆らえと」
「元より、そうしていらっしゃるのでしょう? 宰相閣下は」
ミリエラの可憐な両肩に、シェルミーネは手を置いた。
「まずは、ミリエラさんの安全な暮らしを守って下さいませ宰相閣下。アイリ・カナン妃殿下の件を、私が落ち着いて調べ回るのは……その後ですわ」
わかった事は、一つある。
あの本物ではないアラム王子の存在が、それをシェルミーネに教えてくれた。
シェルミーネが見抜いたものを、アイリが見抜けないはずはない。
戦場から帰って来た夫が、よく似た別人であったのだ。
気付かぬ、わけがない。
アイリ・カナンは、気付いてしまった。
知ってはならぬ事を、知ってしまった。
だから、命を狙われたのだ。
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杖が必要とは言え、今のところ、辛うじて自力で歩く事は出来る。
「我々ゴルディアック家は、魔法使いの家系……」
杖をつく音と、足音。
それらを暗闇に響かせながら、長老ゼビエル・ゴルディアックは呟いている。
「帝国の大魔導師ギルファラル・ゴルディアックの、偉大なる力を……ああ、しかし今の世代の者たちは誰も受け継いでいない。力が、今こそ力が、必要であると言うのに」
王宮よりも豪壮と言われる、ゴルディアック家の大邸宅。
その最奥部、と現時点では思われる区画である。
この場所を知る者は、ゴルディアック家にも、そう多くはいない。
倉庫。あるいは、展示場。
様々な物品が、厳かなほどに整然と、並べられている。
淡く光を発する、指輪や首飾りなどの装身具。
揺らめく何かを閉じ込めた、水晶球。
宝石をはめ込まれた杖。
人皮装丁の書物。
「全てが……これら、全てが……力ある品々である、と言うのに」
痩せ衰えた両手を掲げ、ゼビエル老は祈りを捧げている、ようでもある。
唯一神ではない、禍々しい何かに対してだ。
「我々では、使う……どころか、触れる事も出来ないのですね、ジュラードよ」
「残念ながら」
ジュラードは言った。
「これらは全て、大魔導師ギルファラル・ゴルディアックが作り上げ遺した魔法の品々。普通の人間は、手を触れただけで狂死を遂げます」
あと何年かで百歳となる老人の、弱々しい足取りに、ジュラードは合わせた。
「ゼビエル老は……これら大魔導師の遺産に、助力を求めんとされておられますか」
「……力を……我ら、ゴルディアック家に……」
呪詛の如く、ゼビエルは呻く。
「ゴルディアック家の力である、と私が思い込んでいたものは……力では、なかった。ことごとく失敗し、何事も為せず……」
クルバート・コルベムの暗殺。
カルネード・ゴルディアックの護衛。
ログレム宰相の暗殺。
国王エリオールの暗殺。
全て、ことごとく、失敗している。妨害されている。
とてつもない暴力を持つ者たちが、ゴルディアック家を先回りするが如く動き回り、妨害そして粉砕を行っているのだ。
「力が、必要なのですよジュラード……あらゆる暴力に負けぬ、力。この世に再び、帝国の威光をもたらすための……力が」
お前は、その力になってくれないのか。
クルバートも、息子ログレムも国王エリオールも、お前が殺しに行ってくれていれば。
ゼビエル老人は今、口には出さず、そう言っている。
「ジュラード……貴方が何時からゴルディアック家に仕えているのか、もはや覚えている者はおりません。私が四十代、五十代の頃には……日常的に、貴方の姿を見ていたような気がします」
百年、は経っていないはずである。
百年前ジュラードは、ヴェルジア地方で、領主エンドルム家に仕えていた。
「貴方が私を助けてくれたのは……二十年ほど前、でしたか」
「私は何もしておりませんよ。ゼビエル老の御長寿は、唯一神の思し召しによるもの」
二十年ほど前。七十代の時に、この老人は病に罹ったのだ。
「私は……ジュラードよ、貴方にゴルディアック家の力となってもらいたい」
あの時のように、熱に浮かされた口調で、ゼビエルは言った。
「今この場にいるのは、私と貴方のみ……だから言うのです。ゴルディアック家には、もはや……ジュラードよ、貴方しかいない」
「いいえ、ゼビエル老よ。ゴルディアック家には、私など問題にならぬほどの力があります。そう……大魔導師ギルファラルの、偉大なる遺産が」
ジュラードは、足を止めた。
魔法の品々が陳列されている区画の、もうひとつ奥。
広大な闇の中で、物言わぬ存在が群れを成している。
「これは……」
「数年前より、私が研究を進めて参りました」
無数の、石像であった。
奇怪な姿をしている。
大きさは人間と同等、基本的には人型をしているが、角や翼を備えていたり、腕が四本であったり、首から上が獣や怪魚の頭部であったりと、異形の度合いは様々だ。
唯一神教に駆逐されて魔物と化した、異教の神々の像。
考古学的知識のある者は、そう見るだろう。
「ギルファラルの大いなる魔力によって生み出されたる、怪物たちでございます」
ジュラードは言った。
「かの大魔導師は、この者たちを石化の魔法で長期保存し……必要な時のみ石化を解き、使役していたようです」
「……動かす事が、出来るのですか……この者たちを……」
ゼビエルの声が、震える。
ジュラードは、枯れ枝にも似た片手を掲げ、唱えた。
すでに失われてしまった言語。現在の公用語では、表記すら不可能な単語。
ゆっくりと翼が羽ばたき、角が振り立てられる。
四本の腕が、二本の長槍を構える。
石像の群れは、石像ではなくなっていた。
石化を解かれた、異形の軍勢。
生身の柔軟な動きで膝を曲げ、ジュラードに対し跪いている。
見渡し、ゼビエル老は震えた。
今にも死にそう、ではある。
「素晴らしい……これが、これこそが……ゴルディアック家の偉大なる力……」
(こんなものでは、あるまい……)
ジュラードは、口には出さなかった。
(貴様が作り上げ、遺したもの……この程度のもので、あるはずがなかろうギルファラル・ゴルディアック! どこへ隠した? 私はな、それを探し出すためだけに! 貴様の愚かな子孫どもに仕えているのだぞ……!)




