第55話
●
隕石が、際限なく降り注いで来る。
かわす、と言うより逃げるしかなかった。
ひたすら、ヒューゼル・ネイオンは逃げ続けた。
周囲では、兵士たちが次々と、隕石に潰されてゆく。
様々なものを飛び散らせ、原形なき屍に変わってゆく。
皆、自分を守ってくれているのではないか。
ぼんやりと、ヒューゼルは思い出した。
この兵士たちは、自分の盾となってくれている、のではないのか。
自分は彼らを死なせ、生き延びるのか。
彼らを守るため、戦うべきなのか。
隕石を降らせ続ける、この怪物と。
大男だった。
暴力そのものが、巨大な筋肉と化している。そう見えた。
凶暴に高らかに笑いながら暴風をまとい、歩み迫って来る。
その剛腕が鎖を振るい、暴風を巻き起こしているのだ。
隕石に、見えたもの。
それは鎖を引きずって飛翔・旋回する、鉄球であった。
大男の哄笑に合わせて、兵士たちが3人、5人と砕け散ってゆく。
やめろ。
自分を狙え、相手になってやる。
そう言い放つ事が、ヒューゼルには出来なかった。
口から出るものは、悲鳴だけだ。
「ヒューゼルさん……」
微かな声で、ヒューゼルは気付いた。我に返った。
隕石を振るう怪物など、いない。
いるのは、儚げな母娘である。
杖を必要とする身体を、ぐったりと椅子に沈めた母親。
じっとヒューゼルを見つめている娘。
ロルカ地方領主ペギル・ゲラール侯爵の、家族である。
地方執政府ケルティア城の一室。
領主の娘ラウラと孫娘フェアリエの身辺警護が、ヒューゼルの任務であった。
ぐったりと座ったラウラの眼前で今、ヒューゼルは跪いている。
跪いたまま、夢を見せられていた。
フェアリエが、声をかけてくる。
「…………大丈夫? ヒューゼルさん……」
「ああ……平気です。お気遣い、どうも」
軽く頭を押さえ、ヒューゼルは言った。
「……それより、ラウラ様が」
「私も大丈夫よ……」
椅子の上で弱々しく、ラウラは片手を上げた。
「……私、魔法を使えると言っても大したものではないから。人の心に少しだけ触れて……何かを思い出す、お手伝いが出来るかどうか。その程度よ……気力や体力を消耗するものでもなし」
「すいません……本当に。俺のために」
「やると言ったのは、私の方からよ」
ラウラは微笑む。
「……それでヒューゼル殿。何か、思い出したものはあった?」
「俺……どうも、バケモノに殺されかけてたみたいですね」
あれは、幻覚ではない。
確かな記憶である、とヒューゼルは何となく確信していた。
「鎖と鉄球、振り回してる大男……ありえない強さでした。アレはもう人間じゃないです。俺の仲間たちが、まるで隕石でも当たったみたいに殺されて」
「ボーゼル・ゴルマーだな」
ペギル・ゲラール侯爵が、いつの間にか、そこにいた。
「そなた、やはりあの戦に出ていたのだな。そして、あの男と戦い、生き延びた。まさに悪運よ」
「はあ……あれが、ボーゼル・ゴルマー侯爵ですか」
「あの男はな、鎖鉄球を己の手足のように振るう。その戦いぶりは、戦場に隕石を降らせるが如し……技は、息女ベルクリスに受け継がれている」
祖父が口にした名を聞いて、フェアリエが俯いた。
ペギルが、なおも語る。
「あの戦。アラム・ヴィスケーノ王子の率いる王国正規軍が、確かに勝利を収めはした。が……王都に凱旋した兵士たちは皆、さながら敗残兵のようであったという」
「ボロボロだった、って事ですか?」
「肉体よりも、心の方がな」
剛腕で鎖を振るい、暴風を起こし、隕石を降らせ続ける怪物。
あの戦場にいたのであれば、恐怖のあまり心を病んでもおかしくはない、とヒューゼルは思う。
自分とて、完全に記憶を取り戻したら、恐ろしさで発狂するかも知れない。
「あの……お祖父様……」
おずおずと、フェアリエが訊いた。
「……ベルクリスの、行方を……ご存じ、ありませんか?」
「あの娘は、父親とは別の戦場にいた。ボーゼルの死が伝わった、その時点では存命であったようだ。生きて逃げ延びた、と信じる事だ」
自分も逃げ延びたのか、とヒューゼルは思う。
ボーゼル・ゴルマーは、死亡した。ならば、もう逃げる必要はないのか。
(…………いや。俺は今、何かから逃げてる最中……って気がする……)
●
娘フェアリエ・ゲラールは、15歳。
ヒューゼル・ネイオンは、20歳そこそこ、といった辺りであろう。
少なくとも、年齢は釣り合う。
庭園を歩く若い2人を見ていると、ラウラ・ゲラールは、そんな事を思ってしまう。
「お似合いと思いません? ねえ、お父様」
同じく、露台の上から庭園を見下ろしている父ペギル・ゲラールに、ラウラは語りかけた。
「ヒューゼル殿は立派な方。フェアリエを……きっと、幸せにしてくれます」
「気が早いな。2人とも、出会ったばかりなのだぞ」
そんな事を言うペギルの視線の先では、フェアリエが俯き加減に何かを言い、ヒューゼルが穏やかに受け応えている。
フェアリエが微笑んでいる、ようにも見える。
ゴルディアック家の令嬢として過ごしていた頃は、暗い顔ばかりしていた娘がだ。
「……ねえ、お父様。私はね、出会った事もなかった殿方のもとへ、お嫁に行かされたんですよ?」
「ふん。恨み言なら、いくらでも聞いてやる」
「今更、聞いていただく事などありません。ただ……フェアリエに、私のような思いはして欲しくありませんから」
「……心配するな。あの子に政略婚をさせてゲラール家を立て直そう、などとは考えておらぬ」
ペギルは言った。
「私の代で、ゲラール家は終わりだ。それで良い。あの戦に敗れ、生き長らえただけで儲けものよ」
盟友ボーゼル・ゴルマーと共に、死んでやれなかった。
この父には、その思いがあるはずだった。
「……なあラウラよ。ヒューゼルの記憶、そなたの力で取り戻そうとしたのか?」
「せっかくの力ですもの。何かに、役立てたいわ」
他人の心に、少しだけ触れる。
ラウラの使える魔法は、それだけである。
もう少し上手く役立てれば、夫カルネードの暴力から身を守る事が出来たかも知れない。
「……大皇妃ヴェノーラ・ゲントリウスの用いていた魔法、か」
みだりに口走るべきではない人名を、ペギルは口にした。
「かの大魔女の秘術を、受け継ぐ者たちに……師事していたのだったな、そなた」
「ほんの一時期、イルベリオ先生の私塾に入り浸っていただけです。お父様は、良い顔をして下さいませんでしたね」
筋が良い、とイルベリオ・テッドは褒めてくれた。
彼のもとで、本格的に魔法を学ぶ事は、しかし出来なかった。
ゴルディアック家への輿入れが、決まったからだ。
「あのイルベリオ・テッドという男、そこそこは信頼の出来る人間ではあった」
ペギルは言った。
「ボーゼルの戦に、力を貸してくれていれば……な。まあ、それは良い。ともかくラウラよ、ヒューゼルの記憶が戻る、きっかけ程度の事は出来たようだな」
「どうでしょうね……」
引っ込み思案な一人娘が、記憶喪失中の青年と、控え目ながら楽しげに語らっている。
その様を、ラウラは見つめた。
「何やら、随分と恐い目に遭った御様子でしたから……記憶が戻らない方が、あるいは幸せかも知れません」
「…………」
腕組みをしたまま、ペギルは何も言わなくなった。
知っているのか、とラウラは思った。
ヒューゼル・ネイオンの、失われた記憶。正体。
それに関する、何らかの心当たりが、この父にはあるのか。
「……ひとつ、恐ろしい話があるのだ」
沈黙の後、ペギルは言った。
「知っての通り、私はボーゼルの戦に協力をしていたと言っても兵站の面からだ。戦場に出ていたわけではない。戦場で何が起こっていたのかを、実際に見たわけではないのだ。これは、だから噂話に過ぎぬ」
「噂話に過ぎないものを、お父様は胸の内に秘めておけなくなってしまわれた。相手が自分の娘とは言え、軽々しく話して良いものか、まだ迷っておられる。だから……それほどまでに前置きが長い、と」
父の目を、ラウラは見据えた。
「他言無用であるのは承知しております。どうか、お聞かせ下さいな」
「……アラム王子が、ボーゼルと一騎打ちをしたという。目撃した兵士が、大勢いる」
ペギルが、声を潜めた。
「その者たちが言うのだよ。壮絶な……相討ちであった、と」
「…………ボーゼル侯は、お亡くなりになったのでしょう? 間違いなく」
「屍が発見された。私も見た。ボーゼル・ゴルマーは、間違いなく死んでいる。本当に相討ちであったとしても、アラム王子の屍は見つかっていない。戦後処理を行い、王国正規軍を取りまとめて王都へ帰還させたのは、あらかじめ用意された王子の偽物である。と……そのような話だ」
「興味深い、お話です。ちょっと……興味深すぎるわ」
人付き合いが得意ではない娘の、話し相手になってくれている青年を、ラウラは思わず見つめ観察した。
秀麗な顔立ち、細身だが立派な体格。さり気なくフェアリエを気遣う、紳士的で気品ある物腰と笑顔。
本当に何者なのだ、と思えてしまう。
だが今のところ、この記憶なき青年と、父の語る根も葉もない噂話とを、結び付ける要素は何もなかった。
「アラム王子は、武芸百般……およそ武術に分類されるもの、全てに秀でているそうな」
ヒューゼルの背負う、刃ある長弓を、ペギルは見つめた。
「中でも……弓の腕前は、神技と呼ぶべき領域に達しているという」




