第53話
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「よっ、お疲れさん」
声をかけられた。
フェアリエ・ゴルディアックは顔を上げ、息を呑んだ。
巨体が1つ、そこにあった。
これほど身体が大きいのに、男性と見間違う事はない。
魅惑的な女性の凹凸が、隆々たる筋肉で支えられ保たれている。
そんな肉体に、瀟洒なドレスが似合っているのだ。
力強く隆起した肩や二の腕を、美しく露出させる。
この大柄な令嬢は、その術を身に付けている。
比べて自分のドレス姿は、ただ細くて貧相なだけだ、とフェアリエは思う。
思いつつ、挨拶を返す。
「あ……ええと、べ……ベルクリス・ゴルマーさん? ご機嫌、麗しゅう」
「お互い、気取るのはもうやめよう。何しろ2人とも落っこっちまったんだしな。あーあ、楽になった」
花嫁選びの祭典。
舞踏の審査会場である、某貴族の邸宅。
先程まで、この大広間では出場者全員が各々、審査員をダンスパートナーとして大いに踊っていた。
フェアリエを担当した審査員は、威風堂々たる壮年の男性貴族だった。
笑顔も言葉遣いも優しく、立ち居振る舞いが紳士そのもので、それだけでフェアリエは萎縮してしまった。
萎縮したまま、フェアリエは踊った。拙い踊りを、厳正に審査された。
すまないが、不合格とさせていただく。ここから先、貴女では無理だ。
フェアリエの手を取り、踊りながら、紳士は囁いた。
何故か、救われた気分になったものだ。
その近くではベルクリス・ゴルマーが、曲に合わせて審査員を振り回し、まるで暴風のようなダンスを披露していた。
そして2人とも、脱落が決まった。
アラム・ヴィスケーノ王子に嫁ぐ事は、出来なくなった。
祭典の優勝賞品である王子の姿を、フェアリエは遠目に見た事があるだけである。
どんな顔であったのか、もう覚えていない。美男子では、あったのだろう。
会話の機会も、恐らくは永遠に失われてしまった。
「参っちゃうよ。あの審査員の野郎、泣き出しやがってさあ」
「……生きた心地、しなかったのだと思うわ。あの人」
フェアリエは言った。
「ぶんぶん振り回されて……私の方まで、風が来ていたもの」
「えーっ、そうかあ?」
ベルクリスは頭を掻いた。フェアリエは笑った。
久しぶりに……あるいは生まれて初めて、誰かと会話をした。そんな気分だった。
「ま、後はさ。このお祭り騒ぎ、気楽に楽しもうじゃないか。あたしら当事者じゃなくなったわけだし」
言いつつベルクリスが、ちらりと視線を動かす。
会場の一角が、華やいでいた。
舞踏の審査を上位で通過した令嬢たちが、花を咲かせるかのように談笑している。
談笑の様を見せるだけで、この度の祭典を勝ち抜けてしまうのではないか、と思えるほどに美麗な花々。
フェアリエの目には、あまりにも眩しかった。
ゴルディアック家の名前だけで、ここまで辛うじて生き残っただけの自分とは、あまりにも違う。根本的に違う。
家名を必要としない、本物の美と気品を備えた令嬢たちである。
中心にいるのは、祭典の優勝候補と目される2人であった。
ラウディース家のリアンナ嬢と、グラーク家のシェルミーネ嬢。
「……あいつがさ、すげえ無様で笑える負け方するまで、あたし見てたいよ」
ベルクリスがそう言うのは、シェルミーネ・グラークの事である。
数日前に行われた、武の競い合い審査を、フェアリエは思い出していた。
「ベルクリスさんは……あの方に、勝っていたのではないの?」
「どうかなあ。あいつも、遊び半分だったからな」
この度の舞踏のような、雅やかな技芸・教養とは違う。
何しろ、武の競い合いである。敗北が脱落に直結するような、重要部門ではない。
まるで死にかけた小動物を世話するかのように、フェアリエを優しく注意深く負かしてくれたのが、このベルクリス・ゴルマーであった。
それが、初対面である。
その後、彼女はシェルミーネ・グラークを相手に、令嬢同士の催し物とは思えぬ激戦死闘を繰り広げたのだ。
「さ、行こう」
ベルクリスが、フェアリエを優しく促した。
「あたしの友達が、さっき超ギリギリで審査通ったところ。平民なんだけど面白い奴でさ、フェアリエとも仲良くしてくれるよ」
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平民の娘アイリ・カナンは、確かに心優しい少女であった。
フェアリエとも、明るく友好的に接してくれた。
だが。本当に親しくなる前に、別離の時は訪れた。
祭典の最中。父カルネード・ゴルディアックより、フェアリエに帰宅命令が下されたのだ。
一族の期待を背負っておきながら敗退したのは、事実である。
ゴルディアック家の主だった大人たちから、罵詈雑言に等しい叱責を受ける事となるだろうが、その程度の罰は受けて当然であるとフェアリエは思い定めた。
あたしも一緒に行ってやろうか? とベルクリス・ゴルマーは言った。
フェアリエにひどい事を言う奴、あたしがぶちのめしてやる、と。
自分が頷けば、彼女は本当に来てくれただろう、とフェアリエは思う。
頷いておけば良かった……かも知れない、とも。
叱責、では済まなかった。
父カルネードは、フェアリエに罵詈雑言を浴びせ、暴力を振るった。
その暴力を、母ラウラが代わりに受けた。激昂した夫に、棒で殴られ続けた。
フェアリエは怯えるばかりで、母を庇う事も出来なかった。
ベルクリスがいれば、母を助けてくれただろう。
そして、父は殺されていただろう。
「親ってのは、選べませんからね」
ヒューゼル・ネイオンが言った。やはり、無気力な口調である。
ロルカ地方、執政府ケルティア城。
城内の一室で、母ラウラ・ゲラールがくつろいでいる、と言うより死にかけている。
控え目に、フェアリエは言った。
「お母様……あまり、ご無理をなさっては……」
「大丈夫、大丈夫よフェアリエ」
杖がなければ歩行どころか直立もままならぬ身体を、椅子に沈めたまま、ラウラは辛うじて聞き取れる声を発した。
無理にでも歩かなければ一生、歩けなくなる。
この母は、今日もそう言って、弱々しく庭園を歩き回った。
いずれ街にも出てみたい、と母は言うが、現時点では夢のような話である。
庭を歩くだけで、こうして力を使い果たしてしまうのだ。
「……ねえフェアリエ。私がこうなってしまった事に、負い目を感じるのは、もうおやめなさい」
ラウラは言った。
フェアリエは、俯いた。
「……お母様は……私の、せいで……」
「誰のせい、誰が悪い、なんてお話を始めたら、私も悪者になってしまうわ。あの恐ろしい祭典に、貴女が参加する……そんな無茶を、親として止められなかったのだから」
花嫁選びの祭典への、フェアリエの参加は、ゴルディアック家の総意によるものである。
フェアリエ本人も、嫁いできた母親も、拒絶など出来るはずがなかった。
早い段階で自分を脱落させてくれた、あの威風堂々たる壮年の紳士が、祭典運営の最高責任者シグルム・ライアット侯爵であったとフェアリエが知ったのは後の事である。
「ヒューゼル殿は、あの祭典をご存じ?」
「どう、ですかね」
ラウラの問いに、ヒューゼルは首を傾げた。
「花嫁選びの祭典、なんてもの開かれてたのは……何となく、知ってます。直接、見てはないんじゃないかなあ」
「貴方……記憶を、なくされているのよね」
この記憶喪失中の青年は、ケルティア城の新兵として雇われた数日後の今、こうして城主の家族を間近で警護する役目を与えられるに至った。
城主ペギル・ゲラール侯爵の、信任を得たのだ。
ペギル侯は現在、政務中である。
かつての所領ザウラン地方と比べ、格段に貧しいロルカ地方を、あの祖父はしっかりと治めている。
元々、逆賊ボーゼル・ゴルマーの同盟者として刑死を遂げていても不思議ではなかった身である。
それが、転封されたとは言え地方領主の地位を失わず、娘ラウラも孫娘フェアリエも、こうして普通に暮らしていられる。
全ては、宰相ログレム・ゴルディアック侯爵の計らいによるものである。
あの時、父に打擲されている母を助けてくれたのも、ログレム宰相であった。
彼は、自分の息子を手厳しく叱責し、母と孫娘をゴルディアック家から遠ざけてくれた。
自分は祖父には恵まれている、とフェアリエは思う。
父方の祖父ログレムも、母方の祖父ペギルも、恩人である。尊敬すべき人物である。
だが、曾祖父は。
ログレムの父ゼビエル・ゴルディアックが、フェアリエはただ恐ろしかった。
直接、何かをされた事はない。
花嫁選びの祭典で脱落し、帰って来たフェアリエに、あの曾祖父は労いの言葉をかけてはくれた。
だが、父カルネードの暴力を止めてはくれなかった。
ゴルディアック家の、あの豪壮な邸宅を支配していた、重く陰鬱な空気。
それを発生させていたのが、ゼビエル大老である。
父カルネードも、その他ゴルディアック家の主だった大人たちも皆、あの空気には逆らえなかった。
空気で、ゼビエル老はゴルディアック家を支配していたのだ。
ただ1人。ゼビエルの息子ログレムだけが、あの空気に逆らって、ラウラとフェアリエを助けてくれた。
「聞く限り……ろくな所じゃないですね、ゴルディアック家ってのは」
ヒューゼルが言った。
「まあ、逃げて来られて良かったと思いますよ。ラウラ様」
「そうね。それで、ひと安心……と思っていたら、すぐに戦争が始まってしまったわ」
ボーゼル・ゴルマー侯爵の叛乱。
ベルクリスの父親によって、王国南部の旧帝国系勢力は一掃された。
そこへ王国正規軍が派遣され、ボーゼルは叛乱者として討伐された。
ベルクリスは、行方知れずとなった。
ボーゼルが叛乱で奪い広げた領地は、ここロルカ地方以外、ことごとく王家の直轄地となった。
実質的には、王弟ベレオヌス・ヴィスケーノ公爵の私有地である。
元々ペギル侯が手掛けていた南海貿易をはじめ、王国南部各地の様々な産業や利権が、いつの間にかベレオヌス公の保有するものとなっていた。
現地では、ベレオヌス公による管理支配を受け入れる体制が、完全に出来上がっていたのだ。
ボーゼル侯の協力者を装っていた、あのゲーベル父子によるものであろう。
叛乱に紛れて、いくらか血生臭い工作を行っていたようである。
そして今。現地の民衆は、バラリス・ゴルディアック侯爵を筆頭とする旧帝国勢力の支配下にあった時代よりは、ましと言える生活をしている。
「あの戦争に」
ラウラが問いかける。
「ヒューゼル殿は……やはり、参加していらしたの? 兵士として」
「そう、ですね。戦があったのは、何となく覚えてますから」
背負っていた長弓を、ヒューゼルは手に取った。両端に刃を生やした弓。
「俺……ここから、そう遠くない場所に倒れてたんです。目が覚めたら記憶がなくて……所持品は、こいつだけでした」
「ご活躍をなさったのでしょうね。あの、お腕前で」
「どうですかね。結局、死にかけて倒れてたわけですから、勝ち負けで言ったら負けです」
秀麗だが無気力な顔に、笑み、らしきものが微かに浮かんだ。
「戦ですから。なくしたのが記憶だけで済んで、良かったねって話ですよ」
「記憶を、取り戻したい……とは、お思い?」
謎めいた事を言いながら、ラウラが片手をかざす。
か細く弱々しい五指と掌が、淡い光を発した。
「……その、お手伝い程度なら。私、して差し上げられるかも知れないわ」




