第52話
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このヴィスガルド王国という国に、国王など要らないのではないか、と私は思う。
王国である必要が、あるのか。
現在、王宮の会議室に、国政の中枢にある人々が集まっている。
内政、外交、軍事、経済、他。各分野の高官たち。
彼らを取りまとめているのが、王国宰相ログレム・ゴルディアック侯爵である。
全員が巨大な円卓を囲み、大量の書類を広げ、時には声を荒げ、意見を叩き付け合っている。
それら意見の扱われ方ひとつで、この国の政治が動く。民の暮らしが変わる。大勢の人間が、死んだり生き残ったりする。
ヴィスガルドという国そのものの在り方が、この会議によって大きく左右されるのだ。
出席している高官たちは、全員が貴族階級である。
うち旧帝国系は、半数にやや満たず。
9割近くが旧帝国系貴族で占められていた時代も、あったらしい。
ログレム・ゴルディアックの宰相就任後、その割合は急激に減った。
いずれ平民出身者が、この会議に参加する時代が訪れる。そんな事を声高に語る者もいる。
何にせよ。
この会議に、王家の人間は1人も出席していない。
国政を動かす場に、王族は不要という事だ。
王族がいなくとも動く。運営に支障はない。
それが、ヴィスガルドという王国なのである。
もはや王国の体を成していない国の在りようを決する、円卓会議。
円卓であるから、序列は明確ではない。
全員が平等。それが建前ではある。
だが。この場の支配者が宰相ログレムであるのは、誰の目にも明らかであった。
彼がひとつ何かを言うだけで、声を荒げていた者たちも黙ってしまう。
国王の要らぬ王国に、今や無くてはならない人物。
それが、このログレム・ゴルディアックという68歳の老人なのだ。
国王エリオール・ヴィスケーノが気力を失っている間に、この宰相は、国王不在でも国が動く体制を作り上げてしまった。
ログレム宰相の身に万一の事態があれば、この国そのものが立ちゆかなくなる。
護衛しなければ、ならない。
広大な会議室のあちこちに我々は今、身を潜めている。柱の陰に、調度品の陰に。
長らくゴルディアック家に仕え、要人警護を勤めてきたのが我々である。
時には、汚れた仕事も遂行した。
豪奢な彫刻の施された柱の陰で、私は護衛対象たるログレム宰相の様子を確認した。
現時点では、まだ護衛対象だ。
宰相は時折この会議に、秘書官を伴って出席する。それ自体は、珍しい事ではない。
本日の秘書官は、女であった。
男物の正装を身にまとった、若い娘である。
顔は、まあ美しいとは言える。
だが秘書官としては全く役に立っていない。宰相の後方で、ただ置物の如く佇んでいるだけだ。
膨大な書類の扱いは、全てログレムが1人でこなしている。
国王と同じく役に立っていない秘書官。見るからに無能そうな、若い娘。
愛人の類か、と私は思った。
ログレム宰相は、孫娘のような愛人を秘書官として連れ歩いているのだ。
傑物として名高い宰相ではあるが、まあ、その程度の事はするだろう。何しろゴルディアック家の人間である。
それにしても、と思いつつ私は、その秘書官の唯一の取り柄であろう美貌を、柱の陰から密かに観察した。
どこかで見た事のある顔だ、という気がした。
会議は終了した。
高官たちが、退出して行く。
会議室には、置物のような人形のような秘書官1人を従えた、ログレム宰相だけが残されている。
護衛対象が、そうではなくなった瞬間である。
私は剣を抜き、柱の陰から飛び出した。
私の部下たちも各々、隠れていた場所から影の如く走り出し、抜刀し、ログレム宰相に斬りかかった。あるいは突きかかった。
秘書官か愛人かわからぬ娘にも、気の毒だが死んでもらう事になる。両名もろともに、この場で切り刻む。
ログレム宰相は、不慮の死を遂げる。
結果この国が立ちゆかなくなり、滅亡したとしても、ゴルディアック家は残る。我々が食いはぐれる事はない。
私は、ログレムの痩せた首筋に剣を打ち込んだ。
跳ね返された。
一瞬、光が散った。
私は後方に吹っ飛び、受け身を取り、剣を構え直した。
「馬鹿な……」
呻きが、漏れる。
他の方向からログレムに斬りかかり突きかかった者たちも、同じく刃を跳ね返され、構え直しながらも狼狽している。
そんな周囲の有り様を一瞥もせずにログレム宰相は、必要な書類だけをてきぱきと整理し続けた。
跳ね返された手応えを、私は握り締めた。
間違いない。
ログレムは今、目に見えぬ防壁によって包まれ護られている。
「魔法……」
私は呻いた。
ジュラードか。ここにいるのか。
いや。あの男は、ゼビエル・ゴルディアック大老が間違いなく手懐けてあるはずだ。
「秘書だか愛人だかわからぬ小娘を、宰相閣下が引き連れていらっしゃる……なぁんて、お考えでしたのね?」
その小娘が、私の部下の1人を、一見たおやかな両手で捻り上げていた。
右腕を捻り上げられ、剣を落とし、その部下は悲鳴を漏らしている。
無能な秘書官、にしか見えない小娘に、素手で制圧されている。
他、何人かの部下たちが、小娘の周囲に倒れ伏していた。
1人の頭を、小娘は片足で踏み付けている。
ほっそりと鋭利な足に、黒覆面の横面をぐりぐりと圧迫され、その1人は痙攣している。
殺人技術を修得した男たち複数名を、徒手空拳で無力化してのけた小娘が、ニヤリと不敵に微笑んだ。
この上なく、邪悪な美貌。
確かに見覚えがある。誰であったか。
私を含む数名に取り囲まれたままログレム宰相が、円卓の下から細長いものを取り出し、掲げた。
鞘を被った、細身の長剣だった。
「お使いに、なるかね?」
「いえ、それほどの方々でもなし……大切な議事の場を、血で汚すわけにも参りませんわ」
言いつつ小娘が、何かを念じたようである。
ログレム宰相の全身が、光を発した。
いや違う。宰相の身を包む防護の魔力が、防壁という状態を解かれたのだ。
不可視の防壁は、目に見える電光に変わって周囲に迸り、我らを直撃していた。
「ま……まさか……」
骨から肉が剥離するような衝撃の中。
私は、思い出しながら意識を失っていった。
「……悪役令嬢……シェルミーネ・グラーク…………」
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意識を失った男たちが、王宮の近衛兵団によって会議室から運び出されて行く。
黒衣と覆面で正体を隠した男たち。
これから尋問あるいは拷問を受け、正体を暴かれる事になるのか。
意味はない、とシェルミーネ・グラークは思った。
「どなたの差し金であるのかは、もはや明らかですのにね」
「誰でも構わぬさ。宰相などという身分にある以上、命を狙われるのは当然の事」
ログレム・ゴルディアック侯爵が、淡々と言った。
「それよりも……鮮やかな手並みであったな、シェルミーネ・グラーク嬢」
「我ながら、なかなかに上手く出来たものと思っておりますわ」
攻防一体の魔力防壁で、シェルミーネはログレム宰相の身を護り包んだのだ。
「まるで……ふふっ。宰相閣下御自らが、刺客の方々を攻撃魔法で撃破なさったかのようでしたわ」
「私に、魔法は使えぬ」
ログレムは言った。
「我らゴルディアック家は一応……魔法使いの家系では、あるのだがな」
「聞き及んでおりますわ。ギルファラル・ゴルディアック様……建国王アルス・レイドック・ヴィスケーノ陛下の同志であられたという、偉大なる魔法使い」
「魔法使いとしては、かのヴェノーラ・ゲントリウスには劣る人物であったのだろうな。だから……アルス・レイドックと手を組まざるを得なかった」
大魔導師ギルファラル・ゴルディアック。
英雄アルス・レイドックは、彼の協力を得てようやく、魔女ヴェノーラ・ゲントリウスを討ち滅ぼす事が出来たという。
その後のヴィスガルド建国にも、ギルファラルは大いに貢献したと言われている。
「ゴルディアック家は、帝国の時代からそれなりの家格ではあった。大魔導師ギルファラルが、アルス王の盟友として活躍してくれたおかげで……まあ旧帝国系最大の名家として、今なお大きな顔をしているわけであるが」
「宰相閣下ご自身は、それを快く思っていらっしゃらない」
先程までの会議を見て、思った事をシェルミーネは言った。
「ゴルディアック家……いえ、旧帝国系貴族と呼ばれる方々そのものを、宰相閣下は大いに嫌っておられる?」
「そう、見えてしまうかね。やはり」
「このような重要な会議からも極力、旧帝国系貴族の方々を排除なさっているように見受けられますわ」
ゴルディアック家に命を狙われるのも当然……とまでは、シェルミーネは言わずにおいた。
「この会議……実は、さほど重要なものではないのだ」
ログレムは言った。
「ここで決定した事項が、とある人物からの横槍で、あっさりと覆ってしまう事が度々ある」
「……王弟ベレオヌス・ヴィスケーノ殿下?」
「横槍の達人と言うべき御仁でな。無理を通して道理を押し込める腕前、右に出る者がおらぬ」
無理を通して道理を押し込める。
それを実行しているのが、あのゲーベル父子であろう、とシェルミーネは思った。
「この国に国王は要らぬ、王族は要らぬ……などという考え方も、あるようだが」
その考え方が生まれてしまう最大の原因、とも言えるログレム宰相が、しかしそれを否定した。
「王家の方々の御意思は、やはり我々の言葉よりも重い。ベレオヌス公は、王族の発言力というものを実に巧みに活用しておられる。やはり王家の血筋は貴いのだ。国王は絶対的存在、王族に逆らってはならない……それで維持される平和というものは、確かにある」
絶対的存在である国王の有り様を、シェルミーネは目の当たりにした事がある。
「アラム・エアリス・ヴィスケーノ王太子殿下が、御即位あそばされた暁には……ヴィスガルド王国の繁栄と安寧は、磐石のものとなるであろう」
現国王には一切、期待しない。
ログレム宰相は今、そう言ったのだ。
「宰相閣下は……アラム王太子を、よく補佐していらっしゃると。そう聞き及んでおりますわ」
シェルミーネは、言葉を選んだ。
この人物を伝手として、アラム王子に近付く事が出来る。焦ってはならない。
「2年前の祭典で私、アラム王子に……1度だけ、お目通り叶いましたの。お懐かしいですわ」
「あの方ならば。私ごときの補佐など必要なく、この国の民を導き守って下さる。ヴィスガルドに、栄えと安らぎを同時にもたらして下さるであろう」
あの方、とはアラム王子の事か。
シェルミーネは、そう訊いてしまうところであった。
(民を導き、守る……? アイリさんを守る事も出来なかった、貴方が……一体、何を守ると?)
その問いを、アラム・ヴィスケーノ本人にぶつけるため、自分はここまで来た。
焦ってはならない、とシェルミーネが思った、その時。
「シェルミーネ嬢は……アラム殿下への謁見を、お望みか?」
ログレム宰相が、夢のような事を口にした。
「私が申し上げれば、殿下はお会い下さるであろう……この場で私を守ってくれた、礼の真似事にはなるだろうか」




