第42話
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「あのジュラードという男を……そなた、叩き殺したくて仕方がないのであろう? なあゼノフェッドよ」
のんびりと庭園を歩きながら、ベレオヌス・シオン・ヴィスケーノは問いかけた。
のんびり歩くだけでも、この肥満体には過酷である。
いささか無理をしてでも歩くように、と医者には言われている。
護衛兵ゼノフェッド・ゲーベルが、鼻息を荒くした。
「許可もらえませんか、ベレオヌス殿下! あの顔無し野郎、絶対なんか企んでやがります」
甲冑をまとう熊、とも言える巨体。
その力強い健脚で、自分と歩調を合わせるのは、さぞかし面倒であろうとベレオヌスは思う。
「ほう、顔無しか。あやつは」
「素顔を見せねえ奴ぁ、顔がねえのと同じです」
大きな声を出すようになった、とベレオヌスは思う。
貧民街で拾ったばかりの頃は、無口な少年だった。
父親と揉めていた相手を、物言わず、躊躇いもなく、刺し殺していたものだ。
あれから、20年近くが経った。
無口な少年は、27歳の獰猛な巨漢になった。
牙を剥き、まくし立てる様は、まさに大型肉食獣である。
「あの野郎の、あるのかねーのかわかんねえ面の皮ァ引ン剥いてやります! ギラギラ変な光り方しやがる目ん玉、脳ミソと一緒に引っこ抜いてやりますよ! 今からでも追っかけて!」
先程この邸宅を立ち去った人物に対する殺害許可を、ゼノフェッドは求めてくる。
「ベレオヌス殿下、命令して下さい! あの野郎の脊髄ぶっこ抜いてハラワタぶちまける許可と命令うぐっぶ」
横合いからの一撃が、ゼノフェッドを黙らせた。
ドルフェッド・ゲーベルの拳。息子の巨体の腹部に、重く打ち込まれていた。
一瞬、息を詰まらせたゼノフェッドが、ニヤリと笑う。
「…………ヘっへっへ、父ちゃんよ。そう来るのぁわかってたからよォー、ちゃあんと腹筋に力入れといたぜええ」
「おお、そうか。成長したなあ、バカ息子よ」
笑いながらドルフェッドは、息子の右足に爪先で蹴りを入れた。脛当ての上から一見、無造作に。さりげなく。
響いた音は、しかし凄まじいものだった。
ゼノフェッドの巨体が、庭園に倒れ込んだ。
右足を抱え、のたうち回っている。悲鳴が、庭園に響き渡る。
王宮よりも豪奢、などと言われる事もあるベレオヌスの私邸。
先程までいた大広間は現在、大勢の召使いによって清掃中である。小便と血で、汚れたのだ。
失禁の様を晒したカルネード・ゴルディアック伯爵は、着替えを終えて帰宅した。本来ならば酒食でもてなすべきなのであろうが、彼はもはや今日1日、何も喉を通らないであろう。
この庭園の各所には、兵士たちが潜み、王弟ベレオヌス・シオン・ヴィスケーノ公爵を護衛している。
彼らを統率する警備隊長ドルフェッド・ゲーベルに、ベレオヌスは言葉をかけた。
「おぬしは、その息子以上に……あのジュラードを、警戒しておるのだろうな」
「魔法を使う輩は、排除が可能である時に、最優先で排除を行うべきと存じます」
ドルフェッドは応えた。のたうち回る息子に、ちらりと視線を投げながら。
「尋常な戦いとなれば……こやつと私が2人がかりであろうと、あやつを殺せるかどうか、わかりませぬ」
「そのような相手は、生かして利用する事を考えた方が効率的であろう。まあ、それは私に任せておけ」
「は……っ」
ドルフェッドは頭を下げた。
つるりと禿げ上がった頭に、傷跡がある。
数年前、ベレオヌスを護衛した際に刺客を身体で止め、手負った傷だ。
この頭にまだ髪の毛があった頃、ドルフェッド・ゲーベルは貧民街のとある区域の顔役であった。
息子と共に、獣のような生き方をしていた。
獣の父子を、ベレオヌスは貧民街で拾ったのだ。
20年近く前の、あの頃から、ベレオヌスは自身の手駒となる戦力の獲得に取りかかっていた。
自分1人のみの命令で動く戦闘部隊が、必要であったのだ。
何故ならば。
兄エリオール・シオン・ヴィスケーノ国王の傍らに、シグルム・ライアット侯爵がいたからである。
旧帝国系貴族、最大の傑物と言われた人物。
あの男がその気になれば、王弟公爵たる自分と言えども、力で排除される。
ベレオヌスは本気で、そう思っていた。
シグルム・ライアットは、国王エリオールを守る最強の暴力装置であった。
彼は国王の、臣下という形の盟友であった。
ベレオヌスの目には、そう映っていた。
だが。
(一体……どうしたと言うのだ、兄者)
この場にいない国王に、ベレオヌスは心の中で語りかけた。
(シグルム侯を、あのように遠ざけ……結果的に、死へと至らしめるような事を。自ら片腕を切り落とすも同然の愚行ではないか? なあ兄者よ。シグルム・ライアットのおらぬ貴殿に一体、何が出来ると思うのだ)
シグルム・ライアット侯爵は、紛れもなく英傑であった。
左右2本の剣を振るう、その雄姿は、ベレオヌスの脳裏に今も鮮明に焼き付いている。
王国最強の剣士。
仮に存命で今、ここにいるゲーベル父子を相手に戦ったとしても。
彼は二刀それぞれで、ドルフェッドとゼノフェッドを同時にあしらって見せた事であろう。
武勇だけではない。
才覚も、人徳においても、シグルム侯に及ぶ者が、少なくとも王都ガルドラントには存在しなかった。
唯一の欠点、と言えるのだろうか。
奥方イレーネ・ライアット夫人との夫婦関係は、あまり良好ではなかったようである。
ともかく。
シグルム・ライアットによる補佐あってこその、国王エリオールであったのだ。
「よもや……嫉妬をした、というわけではあるまいな? 兄者。他人の実力を妬まない。それが兄者の、数少ない長所のひとつであったと言うのに」
つい、ベレオヌスは口に出してしまった。
ドルフェッドは傍らで、聞こえぬふりをしている。
それを良い事に、もうひとつ、ベレオヌスは呟いた。
「……やはり、義姉上か」
国王エリオールの妻。
クランディア・エアリス・ヴィスケーノ王妃。
美しく、聡明な女性であった。
国王とも仲睦まじく、国民の目から見て、理想的な夫婦であったようである。
そのクランディア王妃が10年ほど前、亡くなった。
英傑と呼べるほどではないにせよ、及第点の名君であったエリオール王が、覇気も分別も失ってしまったのは、確かにその頃からである。
愛する奥方の死に打ちひしがれ、国王は変わってしまった。
ヴィスガルド王国の民は、そのような、いくらかは好意的な見方をしているようである。
「真相はどうであれ兄者よ、貴公は変わり果てた。よもや黒薔薇党などという、愚者の集団と結びつくとは……」
愚者の集団とは言え、その構成員は旧帝国系貴族である。
国王の後ろ盾を得た、となれば、厄介事の元凶にしかならない。
だからベレオヌスは、手を打った。
送り込んだ刺客の群れは、しかし全滅した。
(黒薔薇党が……戦力を保有している、とでも言うのか?)
王弟公爵の仕業と発覚する危険を冒してでも、このゲーベル父子を使うべきであったのか。
そうベレオヌスが思いかけた、その時。
ゼノフェッドの巨体が、むくりと立ち上がった。
背負っていた大型の得物を、両の豪腕で構えている。
巨大な戦斧、である。
獣の眼光で、ゼノフェッドは庭園を睨み回した。
敵が、出現していた。一目で敵とわかる者たちである。
人間、ではなかった。
上背はあるが筋張って猫背気味な、人の体型。
四肢の先端から凶悪に伸びた、鋭い鉤爪。背中で折り畳まれた、皮膜の翼。
そんな生き物が、一見では数えきれないほど群れている。
翼を広げ、一斉に襲いかかって来る。
凶器そのものの鉤爪が無数、ベレオヌスの肥満体を切り刻まんと一閃する。
それよりも早く、一閃したものがあった。
「ごォの雑魚どもがああああああああッ!」
ゼノフェッドの、戦斧であった。
熊の如き巨体は、剛力のみならず敏捷性の塊でもある。
岩のような筋肉が柔軟に躍動し、殺戮の嵐を吹かせていた。
ベレオヌスの周囲で、翼と鉤爪ある怪物たちが叩き斬られ、飛散し、庭園にぶちまけられる。
「やっぱり、やっぱりだぜ父ちゃん! あンの顔無し野郎、こんなゲテモノどもで! ベレオヌス殿下のお命! 狙おうたぁなああああああ!」
ゼノフェッドが咆哮し、戦斧を振るう。
破壊の嵐が吹き荒れる。
襲い来る怪物たちが、ことごとく、半ば粉砕されるように叩き斬られてゆく。
様々なものが飛び散る様を見つめながら、ベレオヌスは呟いた。
「……違う、な」
この怪物たちは、ジュラードの手によるものではない。
報告にあった通りである。兄エリオールの命を守った、謎の戦力。
「黒薔薇党……ふん。逆襲にでも、出たつもりか」
異形のものたちが、庭園のあちこちに出現しつつあった。




