第38話
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生きている。
ルチア・バルファドールは、そう感じた。
もちろん、そんなはずはない。
帝国最後の権力者ヴェノーラ・ゲントリウスは、およそ五百年前に死亡した歴史上の人物である。
生きている、と錯覚してしまうほどの力が、石造りの棺からは溢れ出していた。
棺の中で、大皇妃ヴェノーラ・ゲントリウスは目覚めているのではないか。
石棺の蓋など内側から粉砕してしまえる魔力を、今は何らかの原因により振るう事が出来ず、ただ憤怒を燃やしている。
彼女は今そのような状態にあるのではないか、とルチアは根拠もなく思った。
根拠など必要ない、とも思った。
石造りの棺から溢れ出し、玄室に満ち満ちた、この禍々しい力の揺らめき。
これは、棺の中にあるものが、単なる朽ち果てた屍ではない事を、無言にして雄弁に物語っている。
「これが……五百年を経た、人の怨念……」
息を呑みながら、ルチアは呻いた。
「人の残留想念なんて、せいぜい使い捨ての兵隊の材料くらいにしかならない……と、思っていたけれど。これは……」
「ルチアお嬢様。お手を、触れられませぬように」
イルベリオ・テッドにそう言われて、ルチアはようやく、自分が石棺に手を触れようとしていた事に気付いた。
慌てて、その手を引っ込める。
「ヴェノーラ・ゲントリウス陛下は……御自身の復活の手立てを、この陵墓に遺されたという」
声が、微かに震える。それをルチアは止められなかった。
「それが……例えば、この棺の中にヴェノーラ陛下の御遺体があって、何かをすれば甦っておいでになるという、そんな単純なお話かどうかは、まだわからないけど」
「黒薔薇党の者どもは、そう信じているようです」
「何か、仕掛けられてはいるわね。この棺に、もしくは玄室に。下手をすると、陵墓全体に」
アドラン地方、帝国陵墓。数多ある玄室の1つ。
大皇妃ヴェノーラ・ゲントリウスの眠る石棺を、4人で取り囲んでいるところだ。
ルチア、それににイルベリオの他、リオネール・ガルファと獣人クルルグがいる。
「えっ何、仕掛けられてるんスか? この棺桶に何か」
リオネールが、能天気な声を発した。
「だったら開けて調べてみりゃいいんすよ。ま、あれっスね。死んだ人にそうホイホイ復活してこられたら、俺らの商売あがったり、あんっ」
躊躇なく石棺に触れようとするリオネールの首根っこを、クルルグが掴んで引き戻した。
「く、クルルグ君。どうせなら、抱っこ、もふもふ」
そんな妄言に、にゃー、とだけ応えながら、クルルグはリオネールを引きずり運んで玄室を出た。
「……ちょっと触らせてみても良かったかも、という気はするわね」
ルチアは苦笑した。
「バカが、この棺をうっかり開ける事で……一体、何が起こるのか」
「災いに遭うのがリオネール君1人で済むならば、それも良いでしょうが」
容赦のない事を、イルベリオは言った。
「彼は……いつの間にか、我らの仲間内におりましたな」
「私てっきり、イルベリオ先生が拾って来たものとばっかり」
「彼の兄上と、面識がありまして」
イルベリオの口調が、重くなった。
リオネールの兄は、もうこの世にいないのだろう、とルチアは思った。
「あの兄弟には……王弟ベレオヌス・ヴィスケーノ公に雇われ、汚れ仕事をしていた時期があったようです」
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豚と熊と猪だ、とガロム・ザグは思った。
猪と熊が、豚の護衛をしている。
「レオゲルド伯爵、よくぞ参られた」
豚が、言った。
「突然のお越し、饗応の準備も出来ておらぬ。今、宴の席を整えさせておるゆえ、しばし待たれよ」
「はっ……王弟殿下。どうか、お許しを賜りますよう……」
レオゲルド・ディラン伯爵が、豚に向かって拝跪をしている。
その後方で同じく跪き、頭を垂れながら、ガロムは盗み見た。
王弟ベレオヌス・シオン・ヴィスケーノ公爵。
本物の豚よりも遥かに醜い肥満体を、豪奢な玉座に収めている。
その左右を固める、熊と猪。
大男と、上背はないが太く丸く頑強そうな男である。
手強い、とガロムは見て取った。
権力者の護衛であるから、手練れであるのは当然なのだが。
跪いたまま、レオゲルドが言った。
「前もっての申し入れもなく……お目通りを、お許しいただきまして」
「貴公と私の、間柄ではないか」
ベレオヌスが、鷹揚な声を発する。
その右側で、熊のような大男が、凶暴な眼光を放つ。
レオゲルドを、睨み据えている。
まさしく、直立した大型肉食獣のような男である。
若い。まだ、30歳にはなっていないだろう。
比べて、左側の男は年嵩である。50歳前後、と思われる。
右の大男と比べて遥かに小柄だが、筋肉は太く厚く、まさに猪だ。
頭髪は無く、つるりと剥き出しになった頭皮には、ガロムの顔のように傷跡があった。
こちらの顔つきも眼差しも劣らず凶悪ではあるが、若い大男と比べ、幾分の狡猾さを感じさせる。
そんな両名に護衛されたまま、ベレオヌスは言った。
「して、レオゲルド卿。そちらが?」
「はっ……当ディラン家の客人シェルミーネ・グラーク嬢、及びグラーク家に仕えし戦士ガロム・ザグ。両名とも、かねてより王弟殿下への御拝謁を願い出ておりました」
王弟ベレオヌス・シオン・ヴィスケーノ公爵の、王宮より豪奢と言われる私邸。
レオゲルドが、シェルミーネとガロムを伴い、ここを訪れたのは、その両名が王弟への拝謁を望んだから、ではない。
己の陣営にグラーク家の関係者がいる事を、レオゲルドとしては、ベレオヌス側から指摘・追及される前に報告しなければならなかった。
ディラン家は、少なくとも現時点においては、王弟ベレオヌスと陣営を同じくしているのだ。
有力な地方貴族と、秘密裏に手を結ぶ事は、許されない。
もっとも。
この令嬢にしてみれば、ベレオヌス公は遅かれ早かれ、拝謁を願い出てでも接触を図らなければならない相手である。
「シェルミーネ・グラークと申します。王弟ベレオヌス・シオン・ヴィスケーノ公爵殿下の御尊顔を拝する機会に恵まれました事、光栄に存じますわ」
レオゲルドの後方で、シェルミーネも跪き、顔を伏せている。
その顔を覗き込むように、ベレオヌスが声をかけた。
「私も、そなたの顔を見たい。面を上げてくれぬか、シェルミーネ・グラーク嬢」
豚の声だ、とガロムは思った。
豚の声に従い、シェルミーネが顔を上げた。
ベレオヌスの口調に、おぞましい喜色が満ちる。
「おお……何と、美しい」
本当に豚の声だ、とガロムは思った。
豚が、シェルミーネの美貌を見つめている。
それだけで、ガロムの心の中に、全身に、殺意が満ちた。
手元に牙剣があれば、自分は間違いなく、ヴィスガルド王国最高権力者の1人である人物に、襲撃を仕掛けていただろう。
レオゲルドも、シェルミーネもガロムも、当然この豪奢な私邸の正門前で各々、武器を衛兵に預けてある。預けさせられている。
「2年前の祭典。私はそなたを応援していたのだよ、シェルミーネ嬢」
ベレオヌスの醜悪な顔、締まりのない口から、劣情に満ちた声が流れ出す。シェルミーネに向かってだ。
「悪役令嬢……うむ、実に良いものであった。眼福であった」
「光栄ですわ」
シェルミーネの声が、硬い。
おぞましさに、耐えているのだ。
この王国で、最もおぞましい男。
徒手空拳で殴りかかろうとする己の肉体を、ガロムは懸命に抑えとどめなければならなかった。
護衛の両名。猪のような年嵩の男、熊を思わせる若い大男。
共に、素手で突破出来る相手ではない。一息で、ガロムは殺されるだろう。
それに。ベレオヌス・シオン・ヴィスケーノ公。
シェルミーネにとっては、いずれは接触しなければならない目標の1人である。
アイリ・カナン王太子妃殺害の、真相に近いところにいる人物……かも知れないのだ。
自分がここで軽はずみな事をすれば、全てが台無しとなる。
ガロムは耐えた。だが。
「おい、小僧! 何やってんだテメエごらぁ!」
突然、髪を掴まれた。
「てめえ何、王弟殿下に向かって殺気! 燃やしてやがんでぇコラ! おう、おう! おうおうおう!」
ガロムは、引きずり起こされていた。
熊のような大男。巨大な手が、ガロムの髪どころか頭皮を引きちぎらんとしている。
凄まじい力であった。
剛力だけなら、アルゴ・グラークに匹敵する。ガロムは本気で、そう思った。
シェルミーネが息を呑み、立ち上がろうとする。
ガロムは、片手を掲げた。
主家令嬢シェルミーネを、無礼にも押しとどめるような仕草になってしまった。
「よさぬか、ゼノフェッド」
ベレオヌスが命ずる。
大男は、ガロムを放り捨てて解放した。
熊のような巨体が、次の瞬間、前屈みにへし曲がった。鳩尾に、拳を叩き込まれていた。
猪に似た、年嵩の男。鉄槌を打ち込むような、拳の一撃だった。
ゼノフェッド、と呼ばれた大男が、へし曲がったまま倒れてのたうち回り、痙攣する。
シェルミーネが、小さく溜め息をつく。
「人の形をした獣、とは……なかなか珍しい動物を飼っておられますのね、王弟殿下」
「ははは、いや御容赦を願いたい。これでも随分と、ましにはなったのだよ」
言いつつベレオヌスが、ガロムの方を向く。
「ガロム・ザグと申したな。そなた、なかなかのものよ」
醜く弛んだ顔が、ニヤリと歪む。
「ゼノフェッド・ゲーベル。私に仕える兵士たちの中でも、一番の剛の者でな。シェルミーネ嬢の言われる通り、獣よ。油断ならぬ相手を見つけると、牙を剥かずにはおれぬ。こやつが、これほどまでに警戒心を剥き出しにした相手……そなたが、初めてかも知れぬ」
「は……っ……」
ガロムは、それだけを言って拝跪の姿勢に戻った。
本来ならば、直接の会話など許される相手ではない。
猪のような男に、ベレオヌスは下問した。
「のうドルフェッドよ。レオゲルド卿の武勇は、そなたも知っておろうが……他の2名、シェルミーネ嬢と戦士ガロム。我が家の警護隊長として、そなたはどう見立てる?」
「即、この場で処刑なさるべきかと。理由など、どうとでもなります」
猪のような男は、即答した。
「この両名……丸腰でも、油断なりませぬ」
シェルミーネとガロムを睨む眼差しには、ゼノフェッドと同じく、獣じみた何かがある。よく見ると、顔つきも似ている。
父子かも知れない、とガロムは思った。
「ありがとう。良い目を、していらっしゃいますのね」
シェルミーネが、にこりと微笑んだ。
「王弟殿下は、天下無双の護衛隊に守られておられますわ。貴方様が……どれほど大勢の人たちに嫌われても憎まれても、長らく御無事でいらっしゃる。なるほど、ですわね」
「はっはっは、全くその通り。このゲーベル父子がいてくれる限り、私はいくらでも傍若無人に振る舞う事が出来るのだ」
ベレオヌスは心底、愉快そうにしている。
やはり豚だ、とガロムは思う。
だが。計り知れない何かを、このベレオヌス・シオン・ヴィスケーノという醜悪な男は、確かに持っている。
跪いたまま青ざめているレオゲルドに、ベレオヌスは上機嫌に言葉をかけた。
「いやはやレオゲルド卿。面白い若者たちを連れて来て下さった事、感謝する。さあ、宴の準備も整ったようだ。今宵はゆるりと過ごされるが良い」
醜い笑みが、シェルミーネにも向けられた。
「安心なされよ。権力に物を言わせて、そなたを寝所に引き込むような事はせぬ」




