第35話
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光を、ルチア・バルファドールは全身に浴びていた。
身体の汚れ、衣服の汚れを完全に滅してくれる、魔法の光。
ルチア自身が作り上げた秘術である。
「んー……やっぱり、普通にお風呂入った時みたいなさっぱり感は得られない。この辺り、まだ改良の余地があるわねえ」
アドラン地方、帝国陵墓。
ここを一時的な住処と定めた以上、まず解決しなければならない事がある。
「健康で文化的な最低限度の生活、ってやつ? さ、みんな集まって。綺麗にするわよー」
陵墓内。巨像の立ち並ぶ、広大な石造りの空間。
ルチアの他に現在いるのは、4人の同行者である。
白装束で全身を覆い隠した3名と、黒い甲冑で全身を包み隠した1人。
その全員に、ルチアは光をぶちまけた。
「ああ……これ、いいっすねぇ」
洗浄の煌めきを心地良さげに浴びながら、白装束の1人がフードを脱いだ。
「助かるわー。ルチアお嬢様の前ではね、やっぱ清潔でいたいっすから」
清潔感は申し分ない、黒髪の若い男である。
秀麗な顔に浮かぶ笑みは、清潔と言うより軽薄そうではあった。
「付き合わせて申し訳ない、とは思っているのよリオネール」
ルチアは言った。
「貴方に、こんな暗がりは似合わない……明るい街中で、女の子を引っ掛けたりしたいでしょうに」
「あっはははは。やだなぁ、俺ってばルチアお嬢様に、そんな男だって思われてたんスか?」
軽薄なまでの清潔感が、ふわりと漂ってルチアの身体にまとわり付いた。
リオネール・ガルファの右手が、ルチアの繊細な五指を、優しく握り包んでいる。
左手が、ルチアの細い腰に回されている。触れてはいない。
「俺がね、チャラチャラ浮わっついた様ぁ晒してたのは……ルチアお嬢様と、お会いする前だったから。今はもう駄目っす。俺は……貴女を、知ってしまった……」
「貴方……何か、いつの間にかいたわよね。イルベリオ先生が、拾って来たんだった?」
「出会い方なんて、どうでもいい。ルチアお嬢様と俺は、こうして引かれ合う運命に……っと、待った待った。そ、そんな目くじら立てちゃ駄目っすよ。目くじら立ってんのか、よくわかんないっすけど」
リオネールが両手を上げながら、ルチアから遠ざかる。
へらへらと軽薄な笑顔に、剣が突き付けられている。
黒騎士の剣。
面頬の内側からリオネールをじっと見据えたまま、黒騎士は2本ある長剣の片方を突き付けてゆく。
暗黒色の面頬から、鋭く燃える眼光が漏れ出している。
それをリオネールは、軽薄な笑顔で受け止めた。
「俺わかるんスよ。あんたの素顔、めっちゃ美形だって……」
黒騎士は、何も応えない。
にゃーん……と、猫の鳴き声が聞こえた。
リオネールが、喜び跳ねた。
「わーい! 一番、美形な子が帰って来たっす!」
大柄でたくましく、そして縞模様の獣毛に覆われた身体が、石造りの広場にのしのしと歩み入って来た。
獣人の、若者である。
「お帰りなさい、クルルグ」
ルチアが声をかける。
にゃー、と応えながらクルルグは、担いできた大荷物を石畳に下ろした。
棒に縛り付けられた、1頭の猪。
血と内臓は、すでに抜き取られている。
クルルグが陵墓の外で、その作業を済ませてくれたのだ。
「ご飯、獲って来てくれたんスね。クルルグ君、お疲れ!」
リオネールが愉しげに、獣人の若者の耳を弄る。点々と返り血に汚れた獣毛を、弄り回す。
「俺もね、何にもしてないのに疲れたっす。癒して欲しいっす。ああん、クルルグ君ってば少しくらい汚れててももっふもふもふ! 極上の癒しがねえ、ここにあるんスよぉ〜」
クルルグが、迷惑そうにしている。
その傍らで、イルベリオ・テッドが大きな袋を担いでいた。
丸く大きく膨らんだ袋は、初老の魔法使いの細身にはいかにも重そうである。
「食べられる野草や茸です。全て、クルルグ君が採って来てくれました」
「当面、食べ物の心配は要らないという事ね」
リオネールを押し退けるようにして、ルチアはクルルグの頭を撫でた。
洗浄の光を、クルルグとイルベリオにきらきらと振りかけた。
陵墓の周辺、アドラン地方の山中には、野生の獣もいる。可食植物も自生している。
食料の調達は、クルルグに一任する事が出来るのだ。
身体や衣類を、清潔に保っておく事も出来る。
「あとは……身体から出てしまうものを、どうするか。これはまあ、お外で済ませてもらうしかないわねえ」
言いつつ、ルチアは周囲を見渡した。
巨大な石像たちが、高い天井を支えている。
石造りの、大広間であるのか、広大な通路の一部であるのか、それも判然としない。
「私……ここは少し時間をかけて、腰を据えて、探索したいわ」
ルチアは、目を閉じた。
「ゲンペスト城とは違う……怨念の類は、感じられない。お墓なのにね」
「人の残留思念など、五百年も保ちはしません」
イルベリオが言った。
枯れ枝のような片手で、闇よりも暗い光が球状に固まり、くすぶっている。
「これらゲンペスト城の怨念は、死後せいぜい百年と少し」
「ここに葬られてる人たちは、一番目か二番目くらいに新しいヴェノーラ・ゲントリウス陛下でも五百年前。だものね」
ルチアは微笑んだ。
「逆に、よ……ねえ先生。五百年も千年も、この世に怨念を残せる人がいたとしたら。凄いと思わない?」
「人の怨念は非力なもの。ただ、帝国時代から維持され続ける残留想念が……仮に存在するとすれば、それは凄まじい力となりましょう」
「怨念とか、残留思念……なんていうのとは、ちょっと違うけど」
はっきりとした事はわからぬまま、ルチアは言った。
「…………何かは、あるわね。このお墓。変な力みたいなものを感じる」
「大皇妃ヴェノーラ・ゲントリウスは……死の間際この陵墓に、己の復活の手立てを残したと。我ら一派には、そう伝わっております」
ヴェノーラ・ゲントリウスの黒魔法秘術を、受け継ぐ一派。
このイルベリオ・テッドは、そこに所属している。受け継いだものを、ルチアに教授してくれている。ただ。
「気のせいかも知れないけれど先生、貴方は……ヴェノーラ陛下に対して、あまり敬意を抱いていない。むしろ忌み嫌っている。私、そんなふうに思えてしまうわ」
「…………」
イルベリオは応えない。
ルチアも、追及はしなかった。
「復活の手立て、ね……私たちで、それを押さえてしまえば。例の黒薔薇党とかいう連中、丸ごと支配下に置けるかも知れない」
黒薔薇党。
大皇妃ヴェノーラ・ゲントリウスの復活と再臨を叫ぶ者たちの、組織。
妄想と反政府的行動に逃げ込むしかなくなった、弱小貴族の集団。そう断じてしまう事は、容易い。
だが中には、弱小ながら、王国宰相や王族へ繋がる伝手を持った者もいるという。
こちらからも1人、送り込んだばかりである。
とてつもなく高い石の天井を、ぼんやりとルチアは見上げた。
「あの子、上手くやってるかしら……」
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露台で、その女性は、まるで幽霊のような様を晒していた。
人の怨念や残留思念とは、非力なもの。
幽霊は、生きている人間に対しては何も出来ない。
この女性も今や幽霊の如く、物質世界における行動力を一切、失ってしまったかのようである。
ヴェルジア地方、リーネカフカ城。
地方領主メレス・ライアットは、生きた人間である事には違いない、その女性に言葉をかけた。
「ご気分はいかがですか、母上」
「……ありがとう、侯爵閣下。晴れやかな気分、とは言い難いけれど」
疲れ果てた笑みを、イレーネ・ライアットは浮かべた。
「たまには、お外の風に触れなければ。ね」
つい先日、46歳の誕生日を迎えた母親である。
地味な女性。
ライアット家が王都ガルドラントにいた頃は、それがイレーネ夫人の評判であった。
旧帝国系貴族・随一の英傑と呼ばれ、様々な意味において派手な人物であった父シグルム・ライアットと並んでいると、確かに印象が控え目に過ぎる母親であったのは、メレスとしても否めないところではあった。
良き父であり、良き母であった。
だが、とメレスは思う。
自分が物心ついた頃から、この母親は疲れていた。笑えば、疲れ果てた笑顔にしかならなかった。
間違いなく、夫が原因であろう。
息子メレスの知らぬところで、色々な事があったのだろう。
「……本当に、ごめんなさいね」
そんな母が突然、詫びた。
「この間は……あの方に、ご挨拶もせず」
「気にしてなどおりませんよ。私も、シェルミーネ嬢も」
ゲンペスト城における戦いの後。シェルミーネ・グラークは、この城に立ち寄った。
もう一月以上も前になる。
その時イレーネは、体調不良を理由に自室に籠もったきり、客人に会おうともしなかった。
体調不良は、まあ嘘ではないだろう。
この母が健康であった記憶が、メレスには無い。
「噂に聞く、悪役令嬢……貴方が求婚をした相手。私も、1度はお会いしなければね」
「悪役令嬢などとは、ご本人が言っているだけです。優しい人ですよ。母上にも、優しく接してくれるでしょう」
「ふふ……貴方が振られなければ、のお話でしょう? 侯爵閣下」
「まあ何と申しますか……振られてしまった、に等しいのが現状なのですがね」
メレスは露台の手摺を掴み、王都の方角を見つめた。
シェルミーネは、兵士ガロム・ザグを伴い、王都へと向かった。
平穏無事な道中では、なかったようだ。
隣のレグナー地方では、領主デニール・オルトロン侯爵が突如として行方不明となり、かつてグラーク家に仕える代官であったジグマ・カーンズ伯爵が領主となった。
シェルミーネと無関係、であるはずがなかった。
「……くそったれ悪役令嬢を、ぶち殺す理由がまた1つ」
物騒な声がした。
大柄な肢体が、露台の隅に佇んでいる。
獣のような気配を、メレスは先程から感じてはいた。
「あいつさあ、何? 何でこんな、いい男ばっかり周りにいるわけ? しかも求婚されて振ったとか」
「あら……貴女、いらしてたのね」
イレーネが、いくらか明るい声を発する。
「親子、水入らずのとこ。邪魔しちまったかな?」
「いや。貴女のおかげで、母は明るくなった。朗らかに、会話をしてくれるようになった」
数日前から、この城に食客として逗留している女性である。
「感謝をしている。本当にありがとう……剛力令嬢ベルクリス・ゴルマー殿」




