第29話
●
身の危険は、ずっと感じていた。
あのシグルム・ライアット侯爵と懇意にしていたからだ、とクルバート・コルベムは思っている。
旧帝国系貴族の中で、シグルム侯は随一と言うより唯一の、傑物であった。
コルベム家を含む旧帝国貴族という勢力は、今や、ヴィスガルド王国全土を蝕む害虫の群れであった。
地方領主として各地に赴いた者たちが、民衆を虐げ搾取を行い、不正に得た税収をゴルディアック家へ貢ぐ。
この貢ぎが多ければ多いほど、旧帝国系貴族としての序列は上がる。
ゴルディアック家は、旧帝国系貴族筆頭と言うべき家柄で、ヴィスガルド王国打倒そして帝国復活のための軍資金、という名目で貢ぎを集めている。
怪しいものだ、とクルバートは思っている。
ゴルディアック家は、ただ私腹を肥やしているだけではないのか。
その疑念が、どうやらゴルディアック家に伝わってしまったようである。
数年前に1度、明確な形で命を狙われた。
刺客であろう複数の男たちに、襲撃されたのだ。
その時、クルバートを助けてくれたのが、シグルム・ライアット侯爵であった。
左右2本の剣を嵐の如く振るって単身、刺客たちを撃退してくれた。
彼は、クルバートに言った。
私が、貴方の力になる。だからもう、おやめなさい……と。
シグルム侯は、知っていたのだ。
旧帝国系の地方貴族たちが、ゴルディアック家に税収を貢ぐ。その流れを管理しているのが自分・税務官クルバート・コルベム伯爵である事を。
何の事はない。
自分もまた旧帝国系貴族という害虫の1匹として、王国の民に害をなしていたのだ。
ゴルディアック家に尽くす事によって、コルベム家は序列を上げ、栄華を得た。
ゴルディアック家に刃向かい、生き延びる機会があったとすれば、シグルム・ライアットの存命中のみだ。
彼は、死んだ。
毒殺されたという無惨な屍も、クルバートは目の当たりにした。
希望は、失われた。
もはや税務官として、旧帝国系貴族の不正に加担し続けるしか、クルバート自身にもコルベム家にとっても、生存の道はなかった。
だが結局、1度でもシグルム・ライアットに与した者を、ゴルディアック家が許すはずはなかったのだ。
クルバートは今、貴族の装いを捨てて襤褸をまとい、貧民の身なりで、王都ガルドラントの裏通りを走り回っている。まるで溝鼠のように。
数日前からだ。
妻子の身の安全は、とある人々に一任してある。
ゴルディアック家と正面から対峙出来るほどの勢力ではないが、クルバートの家族くらいは守ってくれる。
息が、切れていた。
走り回っていたつもりが、いつの間にか歩いている。弱々しく震える足取り。
脚力も心肺も、限界であった。
37歳である。若くは、ない。身体を鍛えてなどいない。武芸の類に関しては、貴族として一通りの嗜み方しかしていないのだ。
裏通りの、特に日の当たらぬ区域である。
人通りは、ない。
いや。あちこちの建物の陰から、いくつもの人影が飛び出して来ていた。
マントとフードで正体を隠し、白刃を閃かせる男たち。
短めの剣を抜き構えた、刺客の一団である。
誰が放った刺客であるか、訊いてみるまでもないとわかっていながら、クルバートは叫んでいた。
「な、なな何者だ! お前たちは何故、私を殺そうとするのだ……」
本職の殺し屋たちである。余計な口は、きかない。様々な方向から、クルバートを切り刻みにかかる。
切り刻まれる寸前。
獣が、飛び込んで来た。クルバートには、そう見えた。
猛獣の牙が、刺客の1人を噛み砕いた。人体の破片が、飛び散った。
肉食獣の顎骨を、棒状に引き伸ばしたような形状の武器。
左右2本、そんな得物を振り回す1人の男が、刺客たちを横合いから襲撃していた。
牙剣。実戦で使いこなす剣士を目の当たりにするのは、クルバートは初めてである。
「……税務官、クルバート・コルベム伯爵か」
刺客たちと同じく、マントとフードで正体を隠した男。問いかける声は、若い。
牙剣を振るう動きは、まさに喰らいつく猛獣だ。
同じ二刀流の剣士であったシグルム・ライアット侯爵と比べてしまうと、洗練されていない、荒削りな戦技であるのは否めない。
それでも、剛勇である。
斬りかかった刺客の1人が、牙剣の一撃で脳漿を噴射した。首から上の原形を、失っていた。
別方向から白刃を閃かせた刺客数名が、荒れ狂う牙剣に叩き潰され、路面に倒れ伏し、様々なものをぶちまける。
血まみれの牙剣2本を両手で休ませ、その若者は、クルバートを背後に庇った。
生き残った刺客たちが、逃げ去って行く。
遠ざかる足音を呆然と聞きながら、クルバートはようやく答えた。
「……いかにも、私がクルバート・コルベムだが。税務官の職も、伯爵位も、とうの昔に剥奪されているであろうな」
「派手に命を狙われてくれたおかげで、あまり探し回らずに済んだ」
若者が、ちらりと振り向いた。
フードの下で、厳つい顔に傷跡が走っている。
「ガロム・ザグという。レオゲルド・ディラン伯爵の、手の者だ。あんたの身柄を確保させてもらうぞ」
「レオゲルド・ディランだと……そう、か」
事情を、クルバートは即座に理解した。
「……浅はかな男だ。私の身柄など押さえたところで、ゴルディアック家の急所を掴んだ事にはならん」
「ほう。レオゲルド伯爵は、浅はかな男か」
ガロム・ザグは言った。
「そんな人物でも、あんたの庇護者にはなれると思うぞ。選り好みをしている場合じゃない、あんたは一刻も早く誰かに守ってもらうべきだ。悪い事は言わん、レオゲルド伯に頼れ。俺と共に来い」
「……レオゲルド・ディランはな、この王国の最高権力者2名に取り入って、両者を利用したつもりになっている愚か者よ。あれでは、いずれ双方から疑いを受け、殺されるぞ」
まだ礼を述べていない事に、クルバートは気付いた。
「ガロム・ザグ、助けてくれた事は感謝する。そなたもな、それだけの腕があるなら仕える相手は選んだ方が良い。どうだ、私と共に来ないか。勇士にふさわしい主君を紹介出来る」
「……残念ながら俺も、選り好みの出来る立場ではなくてな」
言葉と共にガロムが、鋭い視線を向けてくる。
「なるほど……あんたはあんたで、頼るべき相手をすでに確保してあるのか」
「私の妻子を、その方々に預けてある」
「その方々とやらに関しても、レオゲルド伯爵に全て話してもらおうか」
牙剣が、突き付けられてきた。
「何度でも言うがクルバート殿、あんたに選り好みは出来ない。俺と一緒に来てもらうぞ」
「ぐっ、レオゲルドめ……」
クルバートは後退りをした。
背中が、塀にぶつかった。
ガロムが、表情を緊迫させた。
再びクルバートを背後に庇い、左右の牙剣を構える。
複数の人影が、よたよたと足取り弱く、近付いて来たところである。
逃げ去った刺客たちが、戻って来ていた。
マントの下で、肉体がメキメキと痙攣している。
「あ……ああ、あぁあああああ……」
フードの下から、苦しげな声が漏れる。
声帯も、気管も、おかしな感じに震えているようだ。
「た……たたたすけて……」
「助けて……くれぇえええ……」
いくつもの痙攣する身体が、言葉に合わせ、跳ねた。
跳躍。
捻れ歪んだ彼らの四肢が、壊れた人形を思わせる躍動を見せる。
捻じ曲がった手に握られた剣が、様々な方向からガロムを、クルバートを、猛襲した。
物理法則に反した、いびつな襲撃。
その全てを、ガロムは牙剣で粉砕していた。
猛獣の牙が、歪んだ刺客たち片っ端から噛み砕いた、ように見えた。
壊れた人形のような、捻じ曲がった肉体の群れが、ことごとく牙剣に叩き潰されて路面や塀、建物の壁に、ぶつかり貼り付いた。
拍手が、聞こえた。
「お見事。これほどの戦士を、手駒として隠し持っておられたとは。レオゲルド・ディラン伯爵、侮り難しと言えよう」
闇が喋った。一瞬、そう見えた。
暗黒そのもののような人影が、現れたと言うより、いつの間にかそこにいた。
闇色のローブ身を包んだ、恐らくは男。
フードの奥に陰影を溜め、その中で冷たく禍々しく眼光を灯している。
枯れ木のような両手で拍手をしながら、その男は言った。
「ガロム・ザグと言ったな。しかし貴公に、税務官殿の身柄を渡すわけにはゆかぬ……クルバート・コルベム伯爵、私と共に来い。王弟ベレオヌス・シオン・ヴィスケーノ殿下が、貴公をお守り下さるであろう」
「王弟……ベレオヌス、だと……!」
この世で、最もおぞましい人名であった。
旧帝国系貴族の面々にしても、あの男に比べたら、いくらかはましというものだ。
「貴様もか、ジュラード……ゴルディアック家に仕える身でありながら、王弟ベレオヌスとも誼みを通じ、何を企む!?」
「私は、ログレム・ゴルディアック宰相閣下の潔白を証明して差し上げたいだけだ。クルバート殿、貴公ならばそれが出来る」
「何やら、込み入った話のようだが」
ガロムが、クルバートを背後に庇ったまま、ジュラードと対峙した。
片方の牙剣で、刺客たちの捻じ曲がった屍を指し示す。
「……あんたの仕業か、これは」
「雑魚どもではあるが、私の魔力で若干の強化を施してやれば……貴公には勝てるのではないか、と思ったのだ。甘かった」
ジュラードの片手が動いた。
枯れ木のような五指が、雷鳴と光を発した。電撃だった。
「手強い相手は、やはり私が自ら排除せねば……な」
迸った電光を、ガロムは牙剣で防ごうとしたようだ。
無謀、としかクルバートには思えなかった。
「ぐぅっ……!」
電光をまともに喰らったガロムが、全身から白煙を発しながら吹っ飛び、塀に激突する。肉の焦げる臭いが、漂った。
「ほう、生きているとは……」
ジュラードが、感嘆している。
「魔法攻撃を、精神力で防御する術を心得ているようだな。惜しい人材ではある……が、とどめを刺しておく必要はありそうだ」
枯れ木の枝を思わせる片手が、再び雷鳴と電光を発した。
焦げ臭い白煙をまとったまま倒れて立てぬガロムを、直撃する寸前。その電撃光は、砕け散った。
光を帯びた刃の一閃が、ジュラードの電光を打ち砕いていた。
「む……」
フードの下、陰影の中で、ジュラードは軽く目を見張ったようだ。
細身の人影が、そこに佇んでいた。
しなやかな身体に、質素なマントが巻き付いている。首から上もすっぽりとフードに隠され、素顔が見えない。
ただ、女性であろうという事は何となく見て取れる。
淡く発光する細身の長剣を、優美な右手で力みなく握り構えた、女剣士。
「……お手柄ですわね、ガロムさん」
フードの下の、美しい容姿が、容易く想像出来る声であった。
「人探しの地味な探索作業、貴方に一任して正解でしたわ。派手な部分は、私が独り占め致しますわよ」




