第20話
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ゲルグリム山。
レグナー地方、北部の山々は、一まとめにそう呼ばれている。
いくつもの村落を内包しており、政情次第では山賊の住処となってもおかしくはない土地であった。
賊と呼ぶほど荒んではいない、とシェルミーネ・グラークは思った。
民兵は男ばかりであるが、村落には女性も子供もいる。
老若男女、皆、真面目に働いている。
ある者は農作業に従事し、ある者は店を開き、ある者は歩き回って物を売っている。
牛や豚や羊も飼われている。
巡回する民兵たちが、いくらか威圧的に見えてしまうのは仕方がない。
皆、気負っているのだ。
領主デニール・オルトロン侯爵による悪政と搾取で生きる道を失い、こうしてゲルグリム山に立て篭もるしかなくなった民。
先の見えぬ状況の中、山中の各村落はしかし今のところ暴動も叛乱も起こる気配なく、しっかりと統治されているようではあった。
ジグマ・カーンズ元伯爵の、優れた指導力によるものであろう。
元々はグラーク家に仕え、ここレグナー地方を代官として治めていた人物である。
慈悲深い統治者、ではなかったようだ。
取り立てるものは躊躇いなく取り立て、必要とあらば民を容赦なく労役に駆り出す。
そんな苛烈な政務執行者が、代官の地位を失い、野に下った。
レグナー地方の民はしかし、野に下った人物にすがるしかなかったのだ。
困窮した民を、本物の賊徒に変える事なく、ジグマ元伯爵は彼ら彼女らをゲルグリム山でしっかりと取りまとめている。
「この地の民にとって」
兵士ガロム・ザグを従えて歩きながら、シェルミーネは言った。
「貴方は……新領主よりも、旧領主グラーク家よりも、ずっと頼るべき統治者であったという事ですわね。ジグマ・カーンズ伯爵」
「今の私は、伯爵ではないぞ」
先導して歩きながら、ジグマは嬉しくもなさそうに言った。
「爵位など、とうの昔に剥奪された。それを貴女のせいなどと今更、言うのはやめておこう。今の私は賊徒の頭目、いつ討伐を受けてもおかしくはない」
シェルミーネは、ちらりと見回した。
視界のあちこちで巡回・警備に当たっている民兵たちの中には、腕や頭に包帯を巻いた者もいる。
動けず、どこかに寝かされて療養中の負傷者も、いるのであろう。
「官憲による討伐を……少なくとも1度は受けて、それを退けた。と見えますわね」
「3度、退けた」
特に誇るふうでもなく、ジグマは言った。
「1度目は、この山塞に立て篭もり撃退した。2度目は、打って出て野戦で蹴散らした。デニール・オルトロン侯の軍勢は、弱兵の群れよ」
デニール・オルトロン侯爵。
このレグナー地方の新たなる領主。悪政・暴政で民を困窮させ、ここゲルグリム山のごとき叛乱勢力が生じる原因を作り上げた張本人。
そんな人物でも、ヴィルガルド王国が正式に任命した領主である。
「……3度目の戦で、あやつが出た」
ジグマの口調が、重くなった。
「デニール侯が、何か……切り札と言うべき戦力を、投入いたしましたのね」
「雇われ者か、あるいは賊討伐のため王都より派遣されたものか、それは知らぬ……ともかく、あれは化け物だ。単身、この山塞に乗り込んで私を叩きのめし、民兵たちを大いに痛めつけ、暴れるだけ暴れ、だが殺戮を行う事なく引き上げた。まるで我らの弱さを憐れむようにな」
「叩きのめされた……なす術もなく、貴方が」
シェルミーネは、息を呑んだ。
「……まるで、アルゴ兄様のような」
「グラーク家の次男坊か。確かに、あの大男がいてくれればとは思ったが……今や私は、グラーク家に頼る事が出来ぬ身でな」
「グラーク家としても確かに、貴方のような優れた人材を高禄で繋ぎ止める余裕はありませんわ」
何しろ、領地が7分の1になってしまったのだ。
「…………あの……」
弱々しい声が、上がった。
「私たちは……これから、どうなるのですか……?」
デニール侯爵の兵隊に連行され、ジグマに救出された者たち。
老人もいる。子供もいる。赤ん坊を抱いた女性もいる。
税を、納められなくなった民。
新領主デニール・オルトロンによる暴政・搾取の、被害者である。
「無論、ここで面倒を見てやる。働け」
ジグマは命じた。
「女子供に年寄りでも出来る仕事など、ここにはいくらでもある。働いて、己の居場所を確保するのだ。それは貴様たちが自力でするべき事だぞ」
「……どうか……殺して、下さいまし……」
赤ん坊を抱いた女が、言った。
泣きたいが、涙も枯れ果てた、といった様子だ。
「……夫が、死にました……父も、兄も、ことごとく亡くなりました……私1人で、この子を守る事など……」
女の腕から、ジグマが赤ん坊を奪い取った。
「な……何を、なさいます……」
「乳の出る女は、何人かいる。貴様のもとに赤児を置いておくわけにはゆかぬ」
泣き叫ぶ赤ん坊を、ジグマは民兵の1人に手渡した。
「貴様は働け。1日も早く、1つでも多く、仕事を覚えろ。日に1度、赤ん坊の顔は見せてやる」
「…………人でなし……」
か細い罵声が、ジグマの力強い背中に、ぶつかって砕け散る様を、シェルミーネは確かに見た。
「……貴女、赤ちゃんと一緒に死ぬつもり、ですわね」
涙も枯れ果てた女性の顔を、シェルミーネは正面から見据えた。
「それこそ人でなしの所業、ですわよ。少し、ご自分を見つめ直しなさいな」
「……な……何を……他人事のように、偉そうに……恥知らずの悪役令嬢がぁあああああああ!」
シェルミーネの滑らかな頬が、音高く鳴った。
幾度も、幾度も、女が滅茶苦茶に平手を打ち込んで来る。
「お前、お前ぇ! お前のせいで、お前ぇえええええ! お前がぁーッ!」
シェルミーネの顔面をひたすら殴打しながら、女は罵声を張り上げる。泣き喚く。
枯れ果てたはずの涙が、大量に溢れ飛び散る。
ガロムが血相を変え、動きかけた。
それをジグマが止めた。ガロムの頑強な肩を、ガッシと掴んだ。
嵐のような平手打ちが、自分の左右の頬を激しく往復する。いくらか腫れたか、とシェルミーネは思った。
痛い事は痛いが、この女性の方が恐らく痛みを感じている。
平手打ちにも、やり方というものがあるのだ。
素人が怒りにまかせて乱打したところで、手を痛めるだけである。
「……今度、教えて差し上げますわ」
いくらか腫れ上がった顔で、シェルミーネは微笑みかけた。
女の弱々しい両手は、比べ物にならないほど無惨に腫れていた。
「……痛い……よぅ……」
女は座り込み、泣きじゃくっていた。
「痛い……いたぁい……いたい……よぉ……ひっぐ……うぇええええ……」
無言で、シェルミーネは抱き締めた。鍛え込んだ強靭な細腕で、出来るだけ力が入らぬように。
謝罪など、出来るわけがなかった。
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帝国再興のためには、富が必要だ。
人民は、富を貢がねばならない。
ヴィスガルドなどという成り上がり者の王国はやがて滅び、帝国の威光がこの世に甦るのだから。
ヴィスガルド王国の民は、帝国の民となるのだから。
自分デニール・オルトロンの使命。それは、民衆から富を徴収する事だ。
搾れるだけ税を搾り取る。搾りきった民は、人買い商に売り渡す。
そうして少しでも多く獲得した富を、ゴルディアック家に上納するのだ。
宰相ログレムを当主とするゴルディアック家は、旧帝国系貴族の中でも筆頭と言うべき名門である。
同じ旧帝国系でも、末端のオルトロン家とは格が違い過ぎる。
少しでも多くゴルディアック家に貢ぎ、オルトロン家の序列を上げる。
そのためにも富が必要であると言うのに、この兵士たちは富を奪われ、おめおめと逃げ帰って来た。
「万死に値する!」
着飾った小太りの身体を、デニールは玉座から立ち上げた。
レグナー地方。領主の居城たるロルカスト城、謁見の間。
数名の兵士が石畳に頭を付けて這いつくばり、許しを乞うていた。
無論デニールとしては、許すつもりなどない。
「富を……帝国の富を、あのジグマ・カーンズめに奪われるとは! ええい、殺せ! こやつらを処刑せよぉおお!」
玉座の左右に控えた衛兵たちが、這いつくばる者らに槍を突き込もうとする。
その動きが、
「やめな」
一声で、止まった。
衛兵たちは硬直し、青ざめていた。蛇に睨まれた蛙の如く。
まさしく大蛇のような禍々しい巨体が、豪奢な柱の陰からユラリと出現していた。
露出した二の腕と太股。その筋肉は、まるで絡み合う蛇の群れである。
この蛇たちが躍動し、凄まじい怪力を生み出す様を、デニールは幾度か目の当たりにした。
帝国のため、役立つ。そう思い、雇ったのだが。
「まともに物を考えられる兵隊ってのはな、貴重なんだぞ。なあ、お前たち」
巨体だが、女であった。
若い娘、まだ少女と呼べる年齢にも見える。
威圧的な胸の膨らみは、隆々たる筋肉に支えられて豊麗さを維持しており、鋼の胸鎧を今にも内側から弾き飛ばしてしまいそうだ。
「納税の出来ない連中を、しょっぴいて人買いに売る……さぞかし嫌な仕事だったろう。失敗して良かったな? お前らがホッとしてるの、見ればわかるぞ」
赤い髪が、不敵な笑顔の周囲で凶猛に揺らめく。
その笑顔が、雇い主たるデニールにも向けられる。
「なあ御領主。そろそろ、やり方を改めたらどうだい。搾取ってものには限界がある、働く奴らがいなくなったら税金だって入って来ない……言わなきゃ、わからん事かな?」
「き……貴様……」
デニールは、声を震わせた。
自分の顔が、血の気を失ってゆくのがわかった。
この娘がその気になれば、自分は死ぬ。素手で殺される。
それでも、言っておかねばならない事はある。
「ジグマ・カーンズめを……貴様、わざと討ち漏らしたであろう……」
「あれは、殺しちゃいけない人間だ」
不敵な笑顔が、ニヤリと牙を剥いた。
「……殺していい奴の筆頭が、この地方に入って来たんだろう? くそったれ悪役令嬢のシェルミーネ・グラーク」
猛獣、あるいは毒蛇の牙を思わせる、白く鋭い犬歯。とても、人間の娘とは思えなかった。
「お祭りの武芸試合じゃ、あたしが勝った。さて……殺し合いでも勝てるかな、あいつに」




