第199話
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血の暴風が、吹き荒れている。
精強なるヴィスガルド王国正規軍が、今や風に舞う塵であった。
砕け散りながら舞い上がり、血飛沫と化して空中あちこちに咲き乱れる。
殺戮、と言うより破壊。
二つの鉄球が、鎖を引きずりながら縦横無尽に飛翔旋回し、正規軍兵士たちを粉砕してゆく。
皆、人として死ぬのではなく、物として壊れてゆく。
人間の尊厳など欠片もない、とヒューゼル・ネイオンは思った。
このボーゼル・ゴルマーという男の視界に入った瞬間、人間は物と化す。
単なる障害物として、この世から除去される。
肉体と尊厳を、同時に瞬時に打ち砕かれる。
長大な鎖を、ひたすらに振り回しながら、ボーゼルは歩いていた。
ただ、前に進んでいる。
徒歩の巨体に対し、王国正規軍の騎兵隊が突進を試みる。
槍を構え、馬を進ませながら、鉄球に薙ぎ払われて砕け散る。
馬たちは無傷のまま、騎手の残骸だけを乗せて走り去る。
ボーゼルは、馬たちには慈悲を示したのかも知れない。
人に対しては、残忍であった。
歩兵たちは、縦横無尽に旋回する鎖鉄球によって容赦なく叩き潰され、原形を失いながら飛散し、血液の霧に変わってゆく。
血の暴風を吹かせながら、ボーゼルは迫りつつある。
王国正規軍総司令官、アラム・エアリス・ヴィスケーノのもとへ。
今は、自分がアラム王子なのだ。
思い定めつつヒューゼルは、味方の犠牲に耐えた。
煌びやかな馬具を着せられた、軍馬の鞍上に自分はいる。
壮麗なる甲冑に、身を包んでいる。
王族の勇士にのみ、許された装いである。
今はアラム・ヴィスケーノである自分の周囲では、護衛の兵士たちが弓を引き、間断なく矢を放ち続けていた。
歩み迫る、叛乱軍総大将に向かってだ。
鍛え抜かれた弓兵による矢の豪雨が、しかしボーゼルの振るう鎖によって薙ぎ払われ、へし折られていった。
攻防一体の鎖。
その両端である左右の鉄球が、歩兵を、騎兵を、片っ端から鮮血の霧に変えてゆく。
心乱すな、とヒューゼルは己自身に言い聞かせた。
(俺も、お前らと同じだ。すぐに死ぬ)
唯一神に祈りを捧げる、代わりに心の中から語りかけ、長弓を引く。
(アラム殿下の御前にあっては……俺たち全員の命、等しく価値がない。ただ投げ打つのみ)
狙いを、定める。
鎖に弾かれぬ一点を、狙い澄ます。
ヒューゼルは、弦を手放した。
空気の裂ける音が響き渡っている、その間に、射出された矢は命中していた。
ボーゼルの、左胸。
豪壮なる甲冑を穿ち、矢は突き立っている。
「おう、これは」
ボーゼルは、嬉しそうな声を発した。
「俺に、矢を当てる者がいるとはなあ。ふっふふふふ、叛乱……起こして、みるものだ」
ヒューゼルは呆然と、愕然とした。
矢はボーゼルの、鎧に穴を空けた、だけだった。
人間の頭部を撃ち落とす弓勢で飛ばされた矢が、分厚い、あまりにも強固な胸板で止まっている。
小さな刺し傷くらいは、負わせたのかも知れない。
毒矢であれば、とヒューゼルは一瞬だけ思った。
この怪物を殺せる毒など存在するのか、とも。
「腕は立つ。心意気も、悪いものではない」
豪雄ボーゼル・ゴルマーが、ヒューゼルを誉めてくれた、のであろうか。
「だが若者よ。お前の気では、数万の兵を従わせ、思い通りに指揮する事は出来ない。お前は……アラム・ヴィスケーノ王子、ではないな?」
ニヤリと、ボーゼルは笑う。
虎か熊が微笑んだ、ようにも見えた。
「自分は偽物であると、正直に言えば見逃そう。敗残兵として逃げるが良い。なあに恥じる事ではないさ」
「我が名は、アラム・エアリス・ヴィスケーノ……」
煌びやかな馬具を着せられた軍馬の上で、ヒューゼルは名乗った。
「逆賊ボーゼル・ゴルマー! そなたを討ち滅ぼす者の名であるぞ、心して聞け!」
「見事。ならば、おぬしを敗残兵ではなく、一人の英傑として遇するとしよう」
ボーゼルは、鎖を振るった。
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記憶は、そこで途切れている。
ヒューゼル・ネイオンは、矢を持つ右手で頭を押さえた。
左手には、刃を備えた長弓。
矢をつがえる事が、出来ない。
射殺すべき、なのであろう相手が空中にいて、地上に雷火を落としていると言うのにだ。
闇色のドレスを身にまとう少女。
黒い長手袋に包まれた左右の細腕はバリバリッ! と烈しく帯電・放電をしており、まるで雷雲を両腕にまとっているかのようだ。
雷雲に包まれた繊手から、電光が放たれる。
小規模な落雷が、ヒューゼルの周囲で地面を砕く。土が、舞い上がる。
フェアリエ・ゲラールは今。
空中からの雷撃でヒューゼルを灼き殺す事が、その気であれば容易いはずであった。
そんなフェアリエの周囲では、小さな太陽のような火球が大量に生じて浮かび、燃え盛っている。
これらが一斉に落ちて来れば、自分など、ひとたまりもない。
焼死体も残さず、遺灰を散らせて消えるだけだ。
何故、今、そうなっていないのか。
何故、自分は生きているのか。
「俺を…………」
空に向かって矢をつがえる、事は出来ぬまま、ヒューゼルは問いかけた。
「……俺を、殺して……下さらないのですか? フェアリエお嬢様……」
「貴方も……私を、殺してくれなかったわ。ヒューゼル……」
フェアリエが答える。
青ざめた美貌が、ヒューゼルを見下ろす。
「…………記憶が、戻ったのね……」
「思い出しました。自分が、何も出来ない人間だった事を」
アラム・エアリス・ヴィスケーノ王子の偽物、などという存在が何故、必要であったのか。
アラム王子を、守るためだ。
南の戦で、王国正規軍は勝利を収めた。
正規軍司令官アラム・ヴィスケーノ王子は、叛乱者ボーゼル・ゴルマーを討伐し、王都への凱旋を果たした。
そのアラム王子は、偽物である。
カイル・ローデンか、それともジュリオ・メルデか。
誰であっても尊敬に値する、とヒューゼルは思う。
(俺には……無理だよ、アラム殿下。あんたの代わりなんて……)
代わりに、死ぬ。
自分に出来る事は、それだけだとヒューゼルは思っていた。
それすら出来なかった。
ボーゼル・ゴルマーには、自分が王子の偽物であると見破られていたのだ。
認めなければならない、受け入れなければならない、とヒューゼルは思う。
アラム・エアリス・ヴィスケーノは、南の戦で死んだのだ。
ボーゼル・ゴルマーを道連れに、戦死を遂げたのだ。
ならば以後、代わりを務める。
アラム王子として生涯、振る舞い続ける。
カイル、あるいはジュリオは、その覚悟を決めたのだろう。
尊敬に値する、自分には出来ぬ事だ、とヒューゼルは心から思う。
アラム王子が、死んだ。もはや、この世にいない。
ならば。自分が、この世にいる理由はあるのか。
「俺は……」
空中に佇む、黒いドレスの令嬢に、弓矢を向ける事が出来ぬまま。
ヒューゼルは、言った。
「……アラム殿下を、守る事が……出来なかった……」
「そうか。ならば、死ぬが良い」
フェアリエ、ではない。
彼女の細身を包む、闇色のドレスが、声を発していた。
「ヒューゼル・ネイオンよ。そなたを殺せば……この娘は、いよいよギルファラル・ゴルディアックの転生体として生きるしかなくなる。利用させて、もらうぞ」
「ジュラード……あんたの事も、思い出したよ」
「ジュリオ・メルデは、アラム王子の役割を、そこそこ上手くは果たしている。そなたは必要ない」
小さな太陽のような火球たちが、一斉に降り始めた。
ヒューゼル一人に、向かってだ。
「私も……地上におけるヴェノーラ・ゲントリウスの代役を、代行の役割を、果たさねばならぬ……」
否。
流星雨の如く降り始めた、それら火球が、次の瞬間。
片っ端から、砕け散って爆発した。
空中に咲き乱れる爆炎が、一つの姿を照らし出す。
御使い、に見えた。
唯一神が、地上の醜い戦いを終わらせるべく、遣わしたものか。
馬の尾の形に束ねられた金髪を舞わせ、空中を躍動する姿。
しなやかな肢体が柔軟に捻転し、細身の長剣を様々な方向へと一閃させている。
斬撃の弧が、いくつも描き出されて火球を薙ぎ払い、粉砕していった。
空中あちこちに、光の盾が出現している。
それらを軽やかに蹴りつけて、シェルミーネ・グラークは跳躍を繰り返していた。
飛翔にも等しい跳躍に合わせ、魔剣・残月を振るう。
小さな太陽にも似た火球たちを、一つ残らず斬り砕く。
火の粉が無数、弱々しく舞い散り、消えてゆく。
「一つ……教えて下さいませ、ヒューゼル殿」
光の盾の一つに、シェルミーネは降り立っていた。
空中で、フェアリエと対峙している。
そうしながら、地上に問いかける。
「ログレム・ゴルディアック宰相閣下と、御面識は?」
「俺も含めて何人もいる、アラム殿下の偽物どもを……仕立て上げて揃えたのは、あの男だよ。全員で顔合わせもした」
思い出した事を、ヒューゼルは語った。
「この国のため、アラム殿下の代わりに死ねと。ありがたい演説を、俺たちは宰相閣下より賜ったさ」
「よく、わかりましたわ。ログレム閣下……アラム王子を、崇拝するのは良いにしても過保護ですわね」
シェルミーネは、ひとつ息をついた。
「私ね、少しばかり自分勝手な幻想を抱いておりましたの。こうなってしまったフェアリエ嬢を、ヒューゼル殿が……愛の力で、元に戻して下さる。なぁんてね、お伽話のような事を」
慰めようと、してくれているのか。
「だけどヒューゼル殿は……フェアリエ嬢と過ごした期間よりも、ずっと長く。アラム王子の代役として、生きてこられましたのね」
何も出来ないヒューゼル・ネイオンという男を、この悪役令嬢は、慰めてくれている。
「今は……愛の力で、誰かを救う。どころでは、ありませんわよね。ですが一つだけ、頼まれていただきたいですわヒューゼル殿」
魔剣・残月の切っ先が、フェアリエに向けられる。
「何かしらの衣服……出来れば女性の物を、ご用意下さいませ。私、今よりフェアリエ嬢の、この悪趣味なるお召し物を切り刻んで剥ぎ取りますわ」




