第195話
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アドラン地方の帝国陵墓に、大皇妃ヴェノーラ・ゲントリウスが眠っている。
皇帝ではない人物としては、唯一。
ここヴィスガルド王国では長い間、それが信じられていた。
真実を、ミリエラ・コルベムは目の当たりにした。
かの帝国陵墓に、大皇妃ヴェノーラはいない。
彼女の棺に入っていたのは、魔力である。
ヴェノーラ・ゲントリウス自らが、自身の魔力を棺に注入しておいたのだ。
棺を調べた者が、その魔力を、ヴェノーラの残留想念として感知するように。
自身の死亡を、ヴェノーラは捏造したのである。
何のためにか。それは、現時点では不明だ。
ともかく。
およそ五百年もの間、棺の中で渦巻き続けていた魔力は、刀剣の形を得て今、シェルミーネ・グラークの手に握られている。
魔剣・残月である。
シェルミーネのみが使用可能な強力武器であると同時に、探知のための道具でもあった。
何を、探知するのか。
ジュラードである。
あの恐るべき魔法使いこそが、帝国滅亡後およそ五百年もの間、暗躍を続けていたヴェノーラ・ゲントリウス本人ではないか……とシェルミーネは思っていたようだが、どうやら違う。
ジュラードもまた、ヴェノーラ・ゲントリウスの絶大なる力の一部が実体化を遂げたもの、でしかなかった。
すなわち。魔剣・残月と、同質の存在。
シェルミーネならば、残月を用いて感知・探知をする事が出来る。
ジュラードという存在そのものを身にまとった、一人の少女をだ。
その探知が、しかしこの近辺で、いくらか滞ったようである。
魔剣による探知に頼らず、目と足で異変を探す必要に迫られたのだ。
ヒューゼル・ネイオンと別行動を取っていたのは、彼が、街道で一人の男を見かけたからである。
あの男、見た事がある。ような気がする。
俺の思い違いかも知れないから、俺一人で確認をしてみる。
ヒューゼルは、そう言って単独行動を取り始めた。
すぐに、合流する事となった。
ヴィスガルド王国、エレム地方。
メンルーダという町のはずれに放置された廃教会。
その屋根と壁を一部破壊しながら姿を現し、空中に浮かび佇む一人の男。
ヒューゼルが街道で見かけ、追跡していた人物である。
少なくとも今、ゼルーデ・ゲトラという名前だけは判明した。
抜き身の魔剣・残月を構えたまま、シェルミーネが言った。
「思い違い、ではなく……当たり。という事で、よろしくて? ねえ、ヒューゼル殿」
「こいつが何者なのかは、まだ……全て、わかったわけじゃあない。まあ俺も、なんだけどな」
記憶を失った青年の横顔に、苦笑が浮かぶ。
ゼルーデ・ゲトラが、空中から話しかけてくる。
「よもや、とは思うが……ほう。そちらはシェルミーネ・グラーク嬢、ではないのか?」
「有名人は楽ですわね。いちいち名乗らずに済みますわ」
シェルミーネも、苦笑をした。
「ともかくゼルーデ殿。ヴェノーラ・ゲントリウス陛下の御名を唱え、そしてジュラードを師と呼ぶ貴方を、このまま放置しておくわけには」
「……おい! 何をやっている!」
ヒューゼルが突然、激怒した。
「逃げろと言ったはずだ!」
無気力そのものであった青年が、これほど怒りを露わにする。
やはり記憶が戻りかけているのか、とミリエラは思った。
「逃げませんよ、私たちは」
半壊した教会から、ぞろぞろと人が歩み出て来た。
この近辺に住まう民、であろう。
全員、男だ。三十人近く、いるのではないか。
「我々には、理想がある……民が、政治の主役を担う時代」
「王侯貴族も民もない、差別も格差もない時代!」
「その実現に向けて、俺たちは戦うんだ!」
口々に、叫び立てている。
二人、無言の男がいた。
体格が良い。二人がかりで、豪奢な宝箱を運んでいる。
宝箱の中身は、煌びやかな財宝の山であった。
貴金属や宝石類の、様々な細工物。
シェルミーネの顔色が、変わった。
鋭利な美貌が、険しさを増してゆく。
彼女は今、魔剣・残月の一閃で、それら財宝類を薙ぎ払い粉砕しようとしている。
一方。ヒューゼルは弓を引いていた。
両端が刃である長弓に、矢をつがえる。
狙いは、空中のゼルーデ。
両手からバチバチッ! と電光を発し、応戦しようとするゼルーデであるが、その時には、ヒューゼルは弦を手放していた。
引き伸ばされていた弓が元に戻り、空気の裂ける轟音が響く。
放たれた矢は、ゼルーデの左胸に突き刺っていた。
心臓を貫いた。
ヒューゼルの腕であるから、間違いはない。
ゼルーデの両手からは、しかし地上に向かって電光が迸っていた。
死に際の攻撃魔法、であろうか。
「ぐゥ……ッ……!」
電光が、ヒューゼルを直撃していた。
同時にミリエラは、祈りの光をヒューゼルに投げかけていた。
白く煌めく、癒しの力。
ヒューゼルの全身が、電熱に灼かれながら治癒してゆく。
その間。
シェルミーネは残月を振るい、斬撃の光で財宝類を粉砕……しては、いなかった。
魔剣を振るおうとする姿勢のまま、硬直している。
廃教会から出て来た人々が、宝箱の前に集まっているからだ。
両手を広げ、己の肉体で財宝類を庇っているからだ。
「させん! これは、私たちの宝だぞ」
「誰にも、奪わせはしない!」
「奪って奪われる世の中は、終わりにしたいと思わないのか!」
口々に叫ぶ男たちの身体に、何かが突き刺さった。
長く伸びる、いくつもの何か。
それらは空中の、ゼルーデの身体から生え伸びている。
「貴様…………!」
ヒューゼルが息を呑む。
ゼルーデは、笑う。
「……良い腕だな、若者。狙いも弓勢も、非凡を極める……」
その左胸から、謎めいたものが現れている。
牙を剥いて口を開く、小さな怪物。
その口が、今は閉ざされて一本の矢を咥えている。
ヒューゼルの撃ち込んだ矢を、がっちりと咥え止めている。
心臓だった。
異形化を遂げた心臓が、ゼルーデの左胸から飛び出して牙を剥き、矢を噛み砕いてしまう。
「だが……アラム・ヴィスケーノ王子の弓には、及ばぬ。あやつの放った矢であれば、この心臓とて射貫かれていた事であろう」
「俺は……」
ヒューゼルが呻く。
「その、アラム・ヴィスケーノって男と……間違えられて難儀しているところ、なんだが。やっぱり、人違いなんだな」
「ふむ? 確かに顔は、似ているようだが……お前では、やはり及ばないのだよ」
ゼルーデの全身から、衣服を突き破りながら、様々なものが生えて伸びた。
醜悪な、長虫のようなものたち。
先端部で口を開いて牙を見せ、ギシャアアアアアッ! と凄惨な叫びを発している。
母と、同じだ。
呆然と、ミリエラは思った。
このゼルーデという男の肉体は、悪しき魔法によって、人ならざるものへと作り変えられている。
作り変えられた肉体から、おぞましく生えた無数の長虫。
うち数十本が、宝箱を守る男たちの身体に突き刺さっているのだ。
彼らの体内に、悪しき魔力を注入しながら、ゼルーデは語る。
「アラム王子は……私に対し、いささか油断をした。私を殺したと思い、立ち去ったのだ。私は……瀕死の状態で魔力を振るい、己の肉体を作り変えた。結果が、この様よ」
魔力を注入された男たちが、青ざめた。
血色が、失われていた。
代わりに、邪悪な力が満ちてゆく。
死んだのだ、とミリエラは思った。
この人々は今、生命力を失ったのだ。
代わりに、魔力を注入された。
人ではなく。魔力で動く、物と化したのである。
そんな男たちが、宝箱に群がり、中身を我先にと奪う。
見下ろし、ゼルーデは語り続ける。
「これら宝物類はな、ゴルディアック家の大邸宅に長らく秘蔵されていたものだ。大魔導師ギルファラル・ゴルディアックが作り遺したる魔法の品々、魔力なき人間では扱うどころか触れる事すら叶わぬ……故に我が師ジュラードは、かの大邸宅に巣喰う愚か者どもに魔力を与えた。結果あやつらは、大魔導師の遺産を使って暴れる、以外には何も出来ぬ、醜悪な怪物の群れと成り果てたのだ」
醜悪な、怪物の群れ。
人々は今まさしく、そう成り果てていた。
「民が! 政治の主役に!」
「格差も差別もない、理想の時代が今再び!」
「私の手で! 私がっ、この力で!」
口々に叫びながら、宝箱の中身を奪い合う男たち。
宝物類を、貴金属の細工物を、争って身にまといながら、メキメキと身体を歪ませる。
骨格が、筋肉が、捻じ曲がりながら変異してゆく。
まるで母のように、とミリエラは思った。
理想を、思想を、叫びながら、人ならざるものへと変わってゆく男たち。
ゼルーデが、その様を嘲笑う。
「その後。事態を収束へと導いた王弟ベレオヌス公によって、ギルファラルの遺産はことごとく押収された。その一部を私が、伝手を用いて入手したのだ。そして今、実験をしているのだが……いかんなあ、これでは。使い物にならぬ。こんなものを私の身体に取り込んだところで、アラム王子には勝てぬ……あれは、それほど容易い相手ではない」
大魔導師の遺産を身にまとい、異形のものへと変わりながら。
男たちは、叩き斬られていった。
変異中の肉体が、縦に、横に、斜めに、両断されてゆく。
シグノの振るう、長剣によってだ。
「見ての通りだ。こいつらは、俺が殺した」
自分の父親と同じものへと変わりつつある人々を、斬殺しながらシグノは言った。
「ミリエラ嬢にシェルミーネ嬢、それに……ヒューゼル・ネイオン殿。あんたたちは、ここでは誰も殺していないよ」
「誰だ……」
ヒューゼルが呻く。
「……俺を、知っている……のか?」
「覚えちゃいないか。俺は、あんたに助けてもらった事があるんだけどな」
シグノは、微笑んだ。
「カイル殿、メリーデル殿、ジュリオ殿、それに……ヒューゼル殿。皆、アラム王子だったんだよ」
「そう……いう事、ですのね……」
シェルミーネが、呟いた。
「それは確かに、そう。アラム王子の、偽物……何人いらしたところで、足りなくなるに決まっていますわ……」




