第194話
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目の前にあるのは、単なる墓碑である。
そこにアイリ・カナンの名が刻まれているだけだ。
ヴィスガルド王国最西端の地、ドルムト地方。
鄙びた地方教会の、墓地。
王都の喧噪の中で生まれ育ち、栄光を掴んで王宮に迎え入れられ、位人臣を極めた少女が、今このような場所に……
本当に眠っていると何故、断言する事が出来るのか。
ここが王太子妃アイリ・カナン・ヴィスケーノの墓所である、などと証明するものは何もないのだ。
「よう」
ベルクリス・ゴルマーは、声をかけた。
返事など、あるわけがない。
言ってみれば、アイリ・カナンの名前が彫られているだけの石である。
下に埋められているのは一体、誰の屍であるのか。
王太子妃の死を捏造し、その遺児として、どこからか拾ってきた赤ん坊を擁立する。
そして、王国に叛旗を翻す。
父ボーゼル・ゴルマーの如く。
グラーク家が、そのような事をしているのであれば、とベルクリスは思う。
「あたしは、グラーク家の連中と刺し違える……本当に、そんな事になっているんなら。な……」
そんな事のために、しかしシェルミーネ・グラークが動く、わけがない。
それはベルクリスの、特に根拠のない確信であった。
ガロム・ザグ一人を伴い、あの悪役令嬢は動いている。
直接アイリを手にかけた暗殺者は、ガロムが討ち取ったのだ、とグラーク家の面々は言っていた。
その暗殺者を放ったのは、何者か。
何故、放たれたのか。
アイリは何故、命を奪われなければならなかったのか。
シェルミーネは、それを探っている。
そんな事をしても、アイリが生き返るわけではない。
死せる人間が、感情を表す術を持ち得たとしても、アイリは喜ばない。
承知の上で、シェルミーネは動いているのだ。
大いなる、自己満足のためにだ。
もはや疑いはない、とベルクリスは思う。
受け入れなければ、ならない。
「アイリ、お前……本当に、死んじまったんだなぁ……」
涙は、出て来ない。
悲しみ、よりも大きなものが今、ベルクリスの心に重く、重く、のしかかっている。
「なあアイリ、聞いてくれよ。あたしは、あたしたちゴルマー家は……お前から、アラム王子を奪っちまった……かも知れないんだよ」
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「そう……貴方。王国正規軍に、いらっしゃいましたのね」
エレム地方。
メンルーダという町の寂れた区画を、シェルミーネ・グラークは同行者二名と共に歩いている。
一人は幼き聖女ミリエラ・コルベム。
もう一人は先程、知り合ったばかりの青年である。
「あの戦を……ボーゼル侯との戦を、生き延びてこられたと。お見事ですわ」
「……そう、だな。生きているだけで、良しとするべきかも知れない」
このシグノという青年、兵士としての練度は確かに高い。見ればわかる。
これほどの兵士たちが大勢、人として殺されたのではなく、物として破壊された。
そんな戦であったという。
「あの戦は……地獄だった。ボーゼル・ゴルマー、あれは人間じゃない。地獄の化け物だ」
「その、地獄の化け物に」
シェルミーネは、遠回しな質問はしない事にした。
はっきりと、これは確認しなければならない。
「……アラム王子は殺された、と?」
「そうじゃないなら、何で偽物が必要になる」
王宮の露台上で、王都の民に向かって手を振る王太子アラム・エアリス・ヴィスケーノを、シグノは一目で偽物と見抜いたのだ。
間近で直接の会話をするまで、シェルミーネは気付かなかった。
「俺たちを守るために、アラム王子は死んだ……なんてのは思い上がりだよな。それは、わかってる」
周囲では、建物が疎らになり、木々が鬱蒼と生い茂り始めている。
シグノの話によると、この先に、打ち捨てられた教会があるという。
とある思想に取り憑かれた者たちが、入り浸っているのだという。
集会場に、されているのだろう。
シグノの父親も、その思想者の一人であったようだ。
「シェルミーネ嬢、あんたは……まさかとは思うが、アラム王子を捜しているのか?」
「……まあ、そう思っていただいて差し支えありませんわ」
「まだ未練があるのか……なんて、単純な話じゃなさそうだな」
言いつつシグノは、空を見上げた。
「俺も、アラム王子には生きてて欲しいと思う。王宮じゃアイリ妃殿下が、今でも……アラム王子を、待っておられる……」
自分たちが、アラム王子を守れなかった。死なせてしまった。
アイリ・カナン王太子妃から、アラム王子を奪ってしまった。
そのような思いが、この青年には、あるのかも知れない。
そこには触れず、シェルミーネは言った。
「アラム王子は、ボーゼル侯との凄絶なる一騎討ちの末……相討ちで、お命を失くされたと。そのような噂、ありますわよね」
「相討ち、か。確かに、ボーゼル・ゴルマーは死んだ。アラム王子は……亡骸は、見つかっていないらしいが」
「その一騎討ち。シグノ殿は、御覧になっていませんの?」
「見たような気もする。アラム王子が、俺たちを守って、あの化け物と戦うところ……そんなもの、夢だったような気もする」
戦場である。
地獄のような、戦であったのだ。
悪夢のような現実、現実のような悪夢、いくらでも見るだろう、とシェルミーネは思う。
「ボーゼル侯は、貴方たち王国正規軍の方々に……消えぬ悪夢を、植え付けてしまわれましたのね」
「あの戦に参加した兵隊ほとんどがな、俺も含めて、そんな感じさ。どいつもこいつも心をぶっ壊された」
「その方々と、お話をしたいですわ」
「難しいと思う。見たものをちゃんと覚えていて、まともに会話が出来る奴……さあ、いるかな果たして」
アラム王子による戦闘指揮を受け、勝利を収めたはずの王国正規軍が、まるで敗残の傷病兵だ、とシェルミーネは感じた。
ボーゼル侯の部下であった兵士たちは、あのリーゲン・クラウズをはじめ、敗軍の残党でありながら、しっかりと心を保っていたものだ。
「俺にも知りたい事があるよ、悪役令嬢殿」
シグノは言った。
「あんたがトチ狂って、アイリ・カナンに刃物を振るって、リアンナ嬢をうっかり刺し殺した……って話。本当のところは、どうなのかな」
「……リアンナ・ラウディースは、役立たずゆえ私が始末いたしましたのよ。ただ、それだけですわ」
「あっ、見えてきました」
ミリエラが突然、声を上げた。
前方。
木立の中に、建物が見える。
辛うじて教会であったとわかる、廃屋である。
「シグノさんのおっしゃった、廃教会というのは」
「そうだ。あれだよ、ミリエラ嬢」
シグノの口調は、暗い。
「おふくろ曰く、例の馬鹿げた思想に染まった連中の溜まり場になっているらしい。当然、親父も日頃から顔を出していた」
暗い、憎悪を孕んだ声。
「……親父を、くだらん事に巻き込みやがった連中さ。全員ぶちのめして、何があったのかを吐かせる。手伝ってくれるんだよな? シェルミーネ嬢」
「貴方が……人殺しをなさろうとしたら、止めますわよ」
「そうしてくれ。俺は、自力で思いとどまる自信がない」
この青年は、軍を辞めて里帰りをした、その日のうちに、父親だけでなく旧友をも失っているのだ。
「……ボーゼル・ゴルマーもな、人を物みたいにぶっ壊す化け物だった。が、それとも違う。もっとタチの悪い意味で、人を物にしちまってる奴がいるなら……俺は、そいつは殺すぞ。それは止めないでくれ」
「…………私が、手を下しますわ」
シェルミーネは歩調を強め、シグノの前に出た。
その時。
轟音が起こり、大気が震えた。
爆炎か電光か、わからぬものが見えた。
攻撃魔法の光。間違いない。
その輝きを噴射しながら、廃教会の一部が破裂していた。
屋根の破片が、壁の破片が、飛散する。
こちらにまで、吹っ飛んで来る。
シェルミーネは魔剣・残月を抜き放ち、飛来する破片を切り払った。
ひときわ巨大な破片が、吹っ飛んで来た。
危うくシェルミーネは、それを叩き斬ってしまうところだった。
建物の破片、ではなく人の身体だ。
弓歩兵の武装をまとう若者。
シェルミーネの眼前で、くるりと軽やかに着地する。
「ヒューゼル殿……!」
「来たのか、シェルミーネ嬢」
駆けつけた三名を背後に庇う格好で、ヒューゼル・ネイオンは見上げ、睨み据えている。
空中に佇む、一人の男を。
「ゼルーデ・ゲトラと言ったな、貴様」
身なりの良い、恐らくは三十代後半、貴族階級の出身と思われる、だが単なる貴族ではあり得ない男と、ヒューゼルは会話を試みている。
「……やはり、どこかで見かけた気がする。お前……以前、王宮にいなかったか?」
「ほう、君は王宮にいた事があるのかね? 地方軍の、冴えない歩兵にしか見えない若者が」
ゼルーデ・ゲトラと呼ばれた男が、空中で嘲笑う。
「まあ良い。確かに私は王宮内の、あまり日の当たらぬ場所で活動をしていた事がある。我が師ジュラードの片腕として、な」
「私。南の地で、灰色の装束をお召しになった方々と……少しばかり、揉め事を起こして参りましたわ」
シェルミーネは、会話に割り込んだ。
「ゼルーデ・ゲトラ殿は、あの方々の」
「あのような落伍者どもと一緒にされては心外だ。ヴェノーラ・ゲントリウスの偉大なる黒魔法を、守り受け継ぐ者……それは、この私ゼルーデ・ゲトラよ」
そんな言葉を、シェルミーネはもはや聞いていなかった。
ヒューゼルの秀麗な横顔を凝視しながら、シグノが呻いているからだ。
「…………あんたは……!?」




