第189話
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今でも時々、クロノドゥールは右手が痛くなる。
右の手首が、指先が、痛むのだ。
どうする事も出来ない。治療手段など、この世には存在しない。
右腕は、肘から先が失われているのだから。
アラム・ヴィスケーノ王子の放つ矢は、人間の身体から生首を撃ち落とす。
右腕で済んだ自分は、幸運なのだ。
それはクロノドゥールも、理解はしている。
存在しない痛みを和らげる手段は、一つ。
「こいつをなぁ、ぶっ放す事だ!」
巨大な鉄塊そのものの義手から、錨が撃ち出される。
小さな金属製の筒が、排出される。
撃ち出された錨が、標的を粉砕していた。
石造りの怪物。
自我らしきものを有し、言葉を発する魔像。
その巨体に、錨が命中した感触。
打ち砕いた手応え。
鎖を通じ、伝わって来る。
鋼の義手から、生身の二の腕へ、全身へと。
確かに、伝わって来るのだ。
存在しない右手首や指先の痛みなど、跡形もなく消えて失せる。
「コレだよ、これ……」
クロノドゥールは、快感に酔いしれた。
グスター・エンドルムを名乗っていた魔像は、完全に崩壊し、単なる石塊が積み重なったものと化している。
石塊の山に、錨が突き刺さっている。
「……さて。それはともかく、だ」
クロノドゥールは、右腕を微かに引いた。
微かな動きで、鋼の義手に内蔵された、鎖を巻き戻す機構が作動する。
その動力は先程、排出された筒から供給されている。
あの筒を満たしていた魔力の、およそ八割が、錨を射出するための爆発となる。
残る二割が、こうして鎖を巻くための動力となるのだ。
石塊の山から引き抜かれた錨が、鎖によって義手へと引き戻されて来る。
クロノドゥールは、後退りをしながら言った。
「逃げるぞ、メレス殿」
「……敵は、貴公が倒してくれたようだが?」
ヴェルジア地方の若き領主メレス・ライアット侯爵が、至極当然の疑問を口にした。
クロノドゥールは今、一応は、この人物を護衛した事になるのであろうか。
メレスの率いる兵士二十名は現在、戦闘中であった。
石畳の破片と土が混ざり合い、地面から隆起しながら四肢を分岐させ、大柄な人型を成したもの。
それが十数体、メレスの周囲で兵士たちと激突し、槍や長剣を巨体で跳ね返しながら豪腕を振るう。
ほぼ互角の部隊戦闘が、廃城の庭園で繰り広げられていた。
ここゲンペスト城は、およそ百年前、当時のヴェルジア地方領主エンドルム家の居城であった。
そのエンドルム家が、グラーク家に滅ぼされた。
それから百年間、グラーク家の所領であったヴェルジアを、しかし今はライアット家が領有している。
ライアット家の当主にして、ヴェルジア地方の現領主。
それが、このメレス・ライアットという眉目秀麗な青年貴族である。
この人物との同盟が、クロノドゥールの主君バルフェノム・ゴルディアック侯爵の、当面の目的であった。
死なせる、わけにはいかない。
何としても、逃げてもらわなければ。
そんな事態が今、起こりつつあった。
石塊の山が、動いている。
いくつもの石塊が、組み合わさり、融合してゆく。
まとわり付く、闇よりも暗い炎によって、溶接されているかのようにだ。
『……なかなかの一撃であったぞ、下賤の者よ』
自己修復を遂げた魔像が、ゆらりと立ち上がっていた。
燃え上がるように明るい、だが闇よりも暗い光に包まれた、石造りの巨体。
その全身に、歪んだ人面が生じていた。
姿なき石工の手で、彫刻されたかのように。
『返礼を受けよ。貴様たちよりも、遥かに下賤なる力……死せる者の怨念という、この世で最も穢らわしく愚かしい力。さあ、受けるが良い』
石造り、でありながら柔軟に表情を歪め、苦悶と憎悪を露わにし続ける人面の群れ。
それらが一斉に、光を吐いた。
肉声の出ない口から、まるで絶叫の変わりのように。
大量の光球が、射出されていた。
全てが、メレスを襲う。クロノドゥールを襲う。
流星雨の如く、降り注いで来る。
メレスが、クロノドゥールの前に出た。
白く発光する長剣を、構える。振るう。
気の光を帯びた斬撃が、飛来する光球を斬り砕いた。
いや、砕けてはいない。弾き飛ばしただけだ。
それでも、並々ならぬ剣技であるのは間違いない。
弾き飛ばされた光球が二つ、三つ。庭園のあちこちに激突し、爆発する。
石畳が、城壁が、何ヶ所も砕け散った。
魔像の動力源である、闇よりも暗い光が今。
純粋な破壊力に変換され、射出されているのだ。
そんなものが、流星雨となって降り注ぐ中。
クロノドゥールは今、何としても逃げてもらわねばならない人物に、護衛されている。
「くそっ……何をしている、俺は!」
魔力の筒を、クロノドゥールは義手に装填した。
錨で撃ち砕いても、再生されてしまう相手。
それでも、この場からメレスを退避させる時間を稼ぐ事は出来る。
五つ目の光球を打ち弾いたところで、メレスの長剣はへし折れた。
よろめく彼を背後に庇いながら、クロノドゥールは魔像に義手を向けた。
錨の狙いを、定めた。
射出と同時に、自分は光球を喰らって死ぬ。
この右腕を奪った男に、一矢報いる事も出来ぬまま。
一瞬だけ、クロノドゥールはそう思った。
その一瞬の間。
クロノドゥールとメレスは、炎に囲まれていた。
炎か光か判然としない、眩く燃え輝くもの。
それが両名を取り巻いて烈しく渦を巻き、光球の雨を粉砕する。
破壊力の塊である光球たちが、焚き火に投げ込まれた雪玉のように消滅していった。
細く頼りない姿が、一つ。そこに佇んでいた。
光を発するものを、両手で掲げ持っている。
金属製でありながら、命あるものの如く脈動する、謎めいた物体。
心臓だった。
鼓動に合わせて光を放つ、鋼鉄製の心臓。
その光が、炎のように燃え上がりながら空中に伸び、渦を巻き、メレスとクロノドゥールを取り巻いて防護している。
『それは……』
魔像が呻く。
無数の人面を浮かべた巨体が、後退りをする。
『その、力は……』
「さあ、何だろうな。この力がいかなるものか、僕も知らない」
鋼の心臓を掲げ持つ若者が、言った。
「だから、みだりには使いたくないんだ」
「若君様……」
駄目だ、出て来るな。危険だから隠れていろ。
とは、クロノドゥールは言えなかった。
自分は今、主家の若君テスラー・ゴルディアックによって間違いなく、救われたのだ。
「それは……その心臓。若君様が、いつも暇潰しに作ってたやつじゃないか……」
「いずれ、君の心臓が止まった時のためにね」
テスラーが冗談を言っているのかどうか、クロノドゥールには、わからなかった。
「とある御方が、これに魔力を注入して下さったんだ」
「その御方ってのは……」
「マローヌ殿の、まあ御主人と言うか、お友達と言うか」
「あの、姿の見えない化け物か……」
「グスター・エンドルム侯爵、貴方の目的を訊きたい」
テスラーが、人ならざるものとの会話を試みた。
「このゲンペスト城という場所に、貴方は並々ならぬ執着を抱いているようだ。かつての居城であるから、という理由だけではないと見受ける。気のせいかも知れないが……ヴェノーラ・ゲントリウスの名前が、聞こえたような」
『……消えて、失せよ』
魔像グスター・エンドルムは、言った。
兵士二十名と戦っていた怪物たちが、いつの間にか、魔像の周囲に整列している。
石畳の破片と土で出来た巨体の群れが、まるで訓練された一個部隊のように。
『ゴルディアック家の若造よ。今、貴様が用いた力は……とてつもなく、危険なものだ。この場にあってはならぬ、ゲンペスト城から遠ざけよ』
「メレス侯爵と兵士たちを、連れて行く。彼らの身の安全を保証してくれるなら」
『少なくとも今、この場においては、もはや誰も殺さぬ事を約束しよう。さあ出て行け』
「……グスター・エンドルム侯爵閣下のお言葉だ。ここは退こう、メレス殿」
テスラーは、メレスの方を振り向いた。
「旧領主を名乗る危険な勢力が、ここに誕生してしまった。御領主として、存在を容認し難いのはわかります……だけど今ここで、戦って勝てる相手ではない。僕も、この力を使いこなしているわけではない」
「……貴殿は? 若君、と呼ばれていたようだが」
「テスラー・ゴルディアックと申します。メレス・ライアット侯爵閣下」
「バルフェノム侯の……」
「孫です。お察しの通り……祖父は貴方に、調略を仕掛けようとしています」
「私に……そんな価値が、あるのかな。果たして」
「ありますよ。旧帝国貴族の復権、貴方はそのための重要な人材です。生きて下さい」
兵士二十名は一人の欠員もなく、メレスを護衛する陣形を維持している。
なかなかの精鋭部隊ではある。
その全員を蹴散らすような眼光が、メレス一人に向けられた。
魔像の両目で、闇よりも暗く、燃え上がっている。
『メレス・ライアット……そなたの命は、いずれ貰い受けるぞ。ガイラム・グラークの代わりは、そなたしかおらぬ』




