第187話
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ゲンペスト城には、手を触れぬよう。
どうか、お頼み申し上げる。
以前ここヴェルジア地方の支配者であったオズワード・グラーク侯爵は、そう言って頭を下げたものだ。
ヴェルジアの新たな領主として、王都より赴任して来た、自分メレス・ライアットに向かって。
自身の半分も生きていない若造に向かって、オズワード侯は深々と頭を下げたのである。
かつてグラーク家は、ここヴェルジアを含む計七つの地方を領有する、王国随一の大貴族であった。地方貴族としては。
そんな一族が代々、手を触れる事なく、扱いを先送りにし続けてきた物件。
それが、ゲンペスト城である。
この城をエンドルム家より奪ったガイラム・グラークから、オズワード侯に至るまでの百年間五代。
グラーク家の当主たちが一体、何を先送りにし続けてきたのか。
それを、メレスは知らない。
だが、先送りにせざるを得なかったのであろう事は理解出来る。
ゲンペスト城の地下。
石畳に突き刺さった剣にすがり付き朽ち果てている、ガイラム・グラーク侯爵の屍を目の当たりにすれば。
手を触れぬよう懇願するオズワード侯に、理由をしつこく問い質そうという気には、なれぬものであった。
メレスは、独身である。
オズワード侯の息女シェルミーネ・グラークは、メレスの求婚を、まだ受け入れてはくれない。
いずれは受けてくれる、として。
彼女が、メレスの息子を産んでくれたとして。
ここヴェルジア地方において、領主ライアット家の世襲制を定着させる事が出来たとして。
自分もまた、このゲンペスト城を先送りにする事となるのだろうか、とメレスは思い始めていたところである。
(まだ見ぬ、我が子よ……)
メレスは長剣を抜き構え、対峙した。
ここゲンペスト城の旧主グスター・エンドルムを名乗る、石造りの怪物と。
(お前に先送りする事なく、私はここで……ゲンペスト城と、決着を付けねばならないようだ)
『そなたには、見覚えがある』
石の顔面が、唇を動かさずに声を発する。
『先頃、この城に立ち入っておったのう』
「今は、私がヴェルジア領主である。怪しげなる城郭が、誰も住まわぬまま放置されているとあらば……調べなければ、ならぬ」
『……ほう? そなた、グラーク家の者か』
「違う。我が名は、メレス・ライアット……グラーク家は今や、ヴェルジアの領主ではない。色々と、あったのだよ」
『…………思い出したぞ。あの時、そなたと行動を共にしておった娘……あれこそ、ガイラム・グラークの子孫であろう? 忌まわしい血筋を確かに感じたわ。まあ、それは良い』
石造りの顔面で禍々しく灯る眼光が、まっすぐメレスに向けられる。
いや、メレスだけではない。
メレスの引き連れて来た、兵士二十名に。
その全員によって捕縛・保護されている、賊徒百人に。
賊徒の頭目アレンに。
暗黒よりも暗い眼光が、向けられている。
『エンドルム家の名を騙り、民を脅かす者どもを……そなた領主として、いかに扱うつもりなのだ? メレス・ライアットよ』
「正当に裁き、正当なる罰を下す。それは貴殿に対しても同様であるぞ、グスター・エンドルムを名乗る怪物よ」
アレンを背後に庇ったまま、メレスは告げた。
「確かに、この者たちは賊徒である。エンドルム家の再興を唱えながら、民を脅かし、民から奪う、不逞の輩……許せぬだろう。貴殿が本当にエンドルム家の関係者であるならば、な」
『ほう……私もまた、エンドルム家を騙る賊であると?』
「としか思えぬ。エンドルム家、最後の当主を名乗りながら……ヴェルジアの民に、いかなる災厄をもたらすものか。この賊徒たちと、果たして何が違うものか。私は見極めねば」
「…………ち……違う……」
アレンが、声を発した。
「俺たちは……民を脅かし、民から奪う、なんて……絶対やらない……」
「ならば君は、この百人もの同志を飢えさせる事なく! 我々を相手に長期間を戦い抜く、その手立てがあったとでも言うのか!」
振り向かず魔像と睨み合ったまま、メレスは怒鳴りつけた。
「世直しの戦であろうと、飢えれば民から奪うしかなくなってしまう! その想定、していたようには見えんぞ」
「お、俺たちを……助けてくれる、人たちだっている……」
「その者どもから資金を与えられたのだろうが、そんなものがずっと続くとでも思っているのか!」
「俺は……おっ、俺はぁ……」
「豊かな村の、村長の息子として! 何不自由なく暮らしながら、君は思ってでもいたのだろう。自分は何者でもない、だから何かになりたいと! 民のために戦う己の姿を日々、妄想していたのだろう!」
「民衆が、民衆がぁ! 政治の主役だった時代がぁああああああああああああ」
アレンの絶叫が、震えた。
声帯が、おかしな痙攣をしている。
肉体が、内部から痙攣し、変異しつつある。
その変異を引き起こしているのが何者であるのか、メレスは即座に気付いた。
「……お前は!」
『民とは常に、何かに成りたいと夢見るものだ』
グスター・エンドルムを名乗る魔像が、燃え上がっていた。
『何の苦労もなく、輝かしいものに成りたいと。成れる、と。思ってしまうもの、なのだよ。民衆とは』
闇よりも暗い、光。
石造りの全身から溢れ出し、炎の如く、揺らめいている。
『思うだけならば良い。が……輝かしいものに成れたつもりで、愚かしい行動を起こしてしまうようではな』
揺らめくものが、糸状に伸びてうねり、メレスを迂回し、アレンの身体に突き刺さっていた。
闇よりも暗い光を、アレンは今、注入されているのだ。
『我ら貴族は、取り締まらねばならぬ。民の、愚かしい行動を。思想を。自由を。それが……さあ、そなたに出来るかなメレス・ライアット』
「やめろ……!」
メレスは、長剣に気力を流し込んだ。
気の輝きを帯びた刃を、一閃させた。
アレンの身体に突き刺さっているものを、切断してゆく。一本、三本、五本。
その間。
揺らめく光の糸は、すでに十数本。魔像から伸びて、アレンの全身に突き刺さっていた。
『ふむ。我らの怨念を、刃で断ち切るとは……剣士としては、なかなかのものよなメレス・ライアット』
「怨念だと……貴様! 生きた人間の肉体に、怨念を流し込んでいるのか!」
メレスは跳躍した。
手枷を破壊しつつ振り回されたアレンの腕を、かわしていた。
豪腕、と言って良かった。
非力であった筋肉が強固に膨れ上がり、皮膚を内側から引きちぎっている。
飛び散り滴り落ちる鮮血は、青黒い。
青黒い血飛沫を散らせながら、膨張した巨体。
絶叫を張り上げながらアレンは今、そんな怪物に変じていた。
『さよう。我らの怨念は、形を得る事で初めて力となる』
魔像の語りに合わせて、変異は続く。
アレン、だけではなかった。
捕縛されていた賊徒百名ことごとくが、青黒い体液を飛び散らせながら身体を膨張させ、手枷を破壊し、暴れ出している。
全員に、魔像から伸びた怨念の糸が突き刺さっている。
『死者の怨念とは、非力なるもの。こうして何かしら形を与えねば、生者に対しては何も出来ぬ……出来るならば我ら、とうの昔にグラーク家を皆殺しにしておる』
ヴェルジアの領民である事に違いはない賊徒たちに、怨念を注入しながら、グスター・エンドルムは苦笑したようである。
『まあ、それはともかく……お前たちは、我らエンドルム家の名を掲げて戦を引き起こさんとした。ならば私の兵士となる事、よもや拒みはするまいな』
「兵士……だと……」
人ならざるものと化した賊徒百名を、メレスの引き連れて来た兵士二十人が、懸命に制圧せんとしている。
メレス自身は、アレンと相対せねばならなかった。
青黒い血飛沫を散らせる豪腕が、殴りかかって来る。
「俺は、俺はっ、俺はぁあああああ! 世の中の役に立つんだ、民衆が! 自分たちで政治をする世の中を! 作るんだああああああああッ!」
弱々しく、メレスはかわした。
立派な甲冑をまとう身体が、よろめく。
空振りをした豪腕が巻き起こす風すら、受け止められなくなりつつある。
人体に怨念を注入し、異形の怪物に作り変える。
以前ゲンペスト城で、ルチア・バルファドールも同じ事をしていたものだ。
あの時と同じだ、とメレスは理解はしていた。
人間ではなくなってしまった者たちなど、殺処分してしまえば良い。
あの時ゲンペスト城で、シェルミーネ・グラークと共に戦いながら、そうしたように。
何故。今、それが出来ないのか。
それは自分が、このアレンという男と、会話をしてしまったからだ。
『民を襲うぞ。こやつら、このままでは』
言葉を残し、魔像グスター・エンドルムは背を向けた。
ゲンペスト城内へ、向かおうとしている。
『領主として……すべき事が、あるはずだな。メレス・ライアット』
殺す。
人として裁く事が出来なくなってしまった賊徒を、皆殺しにする。
領主として、為すべき事など、他にはない。
理解しながらも剣を振るえずにいるメレスを、アレンの巨大な拳が襲う。
拳ではなく熱風が、メレスを襲った。
アレンの巨体が、炎に包まれていた。
何も出来ず立ち尽くしたまま、メレスは見つめた。
おぞましい絶叫を張り上げながら、アレンが炎の中で焦げ崩れ、遺灰に変わってゆく様を。
炎が、降り注いでいた。
いくつもの火球が、まるで流星雨の如く天下り、人ではなくなった賊徒百名を片っ端から直撃・焼却・粉砕する。
恐ろしく狙いの正確な流星雨だった。
メレス配下の兵士たちは、一人も誤爆を受ける事なく、呆然と見渡している。
かつて領民であったものたちが、焦げて砕けて灰に変わり、ゲンペスト城の庭園に漂う様を。
『ほう……』
グスターが立ち止まり、興味深げに見上げる。
崩れかけた城壁の上に、長身の人影が佇んでいた。
「と、言われても……そうそう出来るもんじゃないよなあ。皆殺しなんて」
黒一色の装束をまとう男。
首から上にも黒覆面が巻き付けられ、鋭い眼光だけが露出している。
「故にメレス・ライアット侯爵殿、今からでも遅くはない。汚れ仕事を専門にこなす部隊を、育成しておくべきだと思う。俺たちのような連中をな」
その男の右腕は、鋼の塊だった。
先端に、微かな炎がまとわり付いている。
火球を射出する、金属製の道具。
そんなものを男は、義手として装着しているのだ。
「と、いうわけで俺はクロノドゥール。バルフェノム・ゴルディアック侯爵の下で、人様に言えない仕事を色々している男さ」




