第182話
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空気が、変わった。
ベルクリス・ゴルマーは、そう感じた。
ヴェルジア地方から、関所を通ってドルムト地方に入った瞬間。
明らかに、空気が変質したのだ。
戦場の、空気だった。
父ボーゼル・ゴルマーが甦ったのか、とベルクリスは思ったものだ。
平時でありながら、戦時の空気を醸し出す。
あの父親は、そのような人物であった。
ヴェルジアの地方領主メレス・ライアット侯爵は、英傑と呼ぶにふさわしい青年貴族であったが、戦争よりは平和の側に大きく傾いた人物である。
平時に戦場の空気を醸し出すような血生臭さとは、無縁であると言って良い。
ここドルムトの地方領主は違う。
戦場の空気で、領内全域を引き締めている。
間違いなく、叛乱者ボーゼル・ゴルマーと同種の支配者が、ここドルムト地方を治めている。
ヴィスガルド王国最西端の、貧しい土地である。
民は、確かに豊かではないにせよ、平和に暮らしている。
武力で維持された平和であるのは、少し歩いてみればわかる。
土を耕しながら、水を汲みながら、木を伐りながら、物を運びながら、市場で何かを売り買いしながら。
ドルムトの民は、緊張感を漲らせている。
緊張感を、決して途切れさせはしない。
何が起ころうと即、対応出来るように。
その心がけが、民に根付いていると言って良い。
領内を巡回する兵士たちは皆、手練れである。
当然だ、とベルクリスは思う。
「……ガロム君が所属していた軍隊だぞ。弱い、わけがない」
ヴィスガルド王国地方軍。
ドルムトを支配する、グラーク家の軍勢である。
その精兵たちが多人数で警固している場所を、ベルクリスは避けて通って来た。
誘導されていたのではないか、と思い始めたのは、森の中を歩いている時であった。
人気のない、人目につかぬ、鬱蒼たる森林地帯。
どれほど激しい戦いが起ころうと、民が巻き込まれる事はない。
このような場所に、自分は追い込まれたのではないか。
その疑念が、確信に変わった。
ベルクリスは立ち止まった。
周囲の木陰から、兵士たちが姿を現す。
グラーク家の精兵部隊。
不意打ちを仕掛けられていたら、自分は果たして生きていられたか、ベルクリスは自信が持てなかった。
一人が、進み出て来た。
「ベルクリス・ゴルマー、だな?」
若い歩兵。
リーゲン・クラウズを、一瞬だけベルクリスは思い出した。
戦闘能力は、恐らく彼に勝るとも劣らない。
マントの内側で鎖を握りながら、ベルクリスは会話に応じた。
「人違いだよ。あたしは……シェルミーネ・グラークという、単なる流れ者のクソ小娘さ」
「俺はブレック・ディラン。色々あって、グラーク家に仕える身となった者だ」
そう名乗りつつ、若い兵士は溜め息をついた。
「ボーゼル・ゴルマーの娘が……まさか単身、流れ歩いているとはな。最初に報告を受けた時には、まさかと思ったが」
「……あたし、やっぱり誘導されてたわけか。こんな所まで」
ベルクリスは、苦笑して見せた。
「あたしの手配書、そこらじゅうに貼ってあるもんなあ」
「それがわかっているのに随分とまあ、堂々と歩き回っているもんだな。自分がどれほどの危険人物か、少しくらいは理解してるのか」
ブレックの言葉に合わせるようにして兵士たちが、さりげなく包囲を狭めて来る。
「ベルクリス・ゴルマー、お前に動き回られるのは不穏である。その身柄、グラーク家で確保させてもらうぞ」
「おいおいおい。大の男どもが寄ってたかって、か弱い令嬢一人の身柄を押さえようって言うのかい? もうちょっと恥と外聞を考えたらどうなんだ」
「どこにいるんだよ、か弱い令嬢なんて」
ブレックが、乙女心を傷付けるような事を平気で言った。
「見ればわかるぞ、噂通りの剛力令嬢。お前さんをな、寄ってたかって力尽くで身柄確保しようとしたら人死にが出る。だからと言って、ボーゼル・ゴルマーの血縁者を放置しておくわけにもいかん」
「お隣の御領主は、あたしを放置してくれたぞ?」
「危険分子をな、穏便にドルムトへ送り出す。グラーク家に押し付ける。食わせ者メレス・ライアット侯爵がやったのは、そういう事だ。まったく」
「……言われてみれば、そうなのかな。そんな気もしてきた」
「ゴルマー家の総領娘よ、あんたは指名手配されている。賞金も懸けられているが、別にそんなものは要らん。捕らえて、王都へ送ろうってわけじゃあない。ただ、グラーク家の監視下に入ってもらいたい」
メレス・ライアット侯爵は、随分とベルクリスに良くしてくれた。
客人として、好待遇を受けた。
あれは、実は監視であったのかも知れない。
思いつつ、ベルクリスは鎖を振るった。
包囲を狭めてくる、グラーク家の兵士たちを粉砕するため……ではない。
「お前ら全員、あたしから離れろ!」
マントの下から鉄球が現れ、鎖を引きずって流星の如く飛ぶ。
木陰に佇む、巨大なものに向かってだ。
熊か。
いや。ドルムトには、野生の獣人が出るという。
大型の、獣人かも知れない。
ともかく。とてつもなく剣呑なものの気配が、ベルクリスの身体を動かしていた。
鎖を振るう。鉄球で、砕き殺す。
それ以外の行動が、取れなくなってしまったのだ。
「おう、荒っぽいな」
木陰から現れた何者かが、暢気な声を発している。
「だが、それで良い。この御時世……用心深さは、いくらあっても過剰ではない」
熊ではなく、獣人でもなかった。
人間の、若い男。
筋骨たくましい巨体に、毛皮を着用した姿は、猟師のようでもある。
違う、猟師ではない。
猟師をも狩る巨獣。
ベルクリスには、そう思えた。
鉄球が、掴み止められている。
巨獣の如き青年の、左手で。
分厚い、素手で。
「良い一撃だ。手の骨、折れるかと思ったぞ」
言いつつ青年は、鉄球を軽く投げ返した。
全力で投げ返されたら、自分は死ぬ。頭蓋が砕け散る。
呆然とベルクリスは、そう思った。
「……来られたのか、次男坊殿」
ブレックが、いささか不満げな声を出す。
「俺には、任せられんと……まあ確かに、あんたが来てくれて助かったのは事実」
「そう言うな。お尋ね者の剛力令嬢が、こちらへ向かったとの報告を受けたものでな」
次男坊殿、と呼ばれた若い大男がニヤリと笑う。
人懐っこい笑顔、ではあった。
ベルクリスは、問いかけてみた。
「……あんた、どこの次男坊だ?」
「グラーク家の次男坊、アルゴ・グラークと申す」
大男は姿勢を正し、名乗った。
「こちらのブレック・ディランが、すでに話しているとは思うが……ベルクリス・ゴルマー殿。我らは、あんたの身柄を確保せねばならぬ。悪いようにはしない、としか今は言えん」
「指示に従うしか、なさそうだな」
ベルクリスは言った。
「あたしは今……あんたに、殺されたんだ」
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自分が何者であるのか。
ここが、どこなのか。
何故、このような場所にいるのか。
私は、わからなかった。
覚醒と同時に、そのような疑問が生じ、心の中で渦を巻いたのだ。
疑問が、最初の思考であった。
今まで私は、眠っていた。
どれほどの期間か。
一日や二日ではあるまい。何となく、それは身体で感じられる。
数年、いや数十年……百年を、超えるのではないか。
それは、もはや死んでいたに等しいのではないか。
人間の、世界においては。
死にも等しい長期の眠りから、私は目覚めた。
それは、死せる者の復活も同然の事態ではないのか。
死せる人間を、この世に呼び戻さんとした者がいた。
それを、私は思い出した。
私自身が何者であるか、よりも先に。
その者に関する記憶が、全て甦った。
その者は私の、終生の友であった。
終生の友と呼べる存在を、彼は失った。
失われた命を、取り戻す。
それは、世の理を改変するに等しい行為である。
唯一神に戦いを挑む、に等しい行為である。
彼は、それを試みた。
その試みは、まだ続いている。
だから今、私は目覚めたのだ。
「そう……か……目覚めた、のだな……ギルファラル……」
言葉を発する能力を、私は思い出した。
長らく眠っていた肉体に、力が満ちてゆく。
言葉を発する、以外にも、私には様々な能力がある。
それを、思い出した。
出来る事が、いくらでもある。
「感じられるぞ、お前の……力の、目覚めを……」
手足を、動かした。
それだけで、世界がひび割れた。
「お前が目覚めた……だから、私も目覚めた……」
私の、眠っていた場所。
眠れる私を内包する、棺のような柱。
今までの私にとっては、それが世界の全てであった。
魔法の生体保存液で満たされた、透明な柱。
それが、ひび割れ、砕け散っていた。
生体保存液が、周辺にぶちまけられる。
私の肉体は、石造りの床に投げ出されていた。
ゆっくりと、立ち上がる。
力に溢れた、巨大な肉体。
それが、私にはわかる。
己が何者であるのかを今、私は完全に思い出していた。
「ギルファラルよ、お前はお前で…………私は、私で…………互いに為すべき事を……」
私が、何者であるのか。
我が終生の友ギルファラル・ゴルディアックが、それを思い出させてくれたのだ。
「我が名は……アルス・レイドック……ヴィスケーノ……」