第178話
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「フェアリエ嬢。どうか、なさいましたか?」
声を、かけられた。
天使の声だ、とフェアリエ・ゲラールは思った。
唯一神の御使いが今、自分に話しかけてくれたのだと。
ヴィスガルド王国南部、ロルカ地方。
執政府ケルティア城。
庭園を見下ろす露台にて、フェアリエは今、唯一神の御元より天下ったかの如く神聖にして可憐なる姿と、対峙していた。
愛らしく法衣を着こなした、小さな身体。
フェアリエを見上げる笑顔に、邪気や打算は全く感じられない。
このミリエラ・コルベムという少女は本当に、心の底から、フェアリエを気遣ってくれているのだ。
「ミリエラ嬢……私……」
フェアリエは身を屈め、幼い聖女と目の高さを近付けた。
「ねえ、私……そんなに、ひどい顔をしていた? 思わず、声をかけてしまいたくなるような」
狂気の漲る表情であった、のかも知れないとフェアリエは思った。
実際、自分は今、正気を失い始めている。
何しろ、単なる糸屑が喋っている。
言葉を発する、黒い糸屑が、身体に絡み付いているのだ。
そしてフェアリエに、何事かを囁きかけてくる。
おぞましい言葉を、天使の声が掻き消してくれる。
「ええと、はい。とても辛そうなお顔、なさってます……ヒューゼル殿の事、でしょうか?」
「踏み込んで来るのね。ミリエラ嬢は、随分と」
フェアリエは、苦笑して見せた。
ミリエラは、じっと見つめてくる。
「ヒューゼル殿も、きっと……今のフェアリエ嬢と同じくらい、辛そうなお顔でしょうから」
「そう……よね。貴女たちは、ヒューゼルの……お仲間……」
落ち着いて物事を考えよう、とフェアリエは思った。
ミリエラ・コルベムとシェルミーネ・グラークは、自分の知らぬ少しの間、ヒューゼル・ネイオンと行動を共にしていた。
仲間同士、であったのだ。
「大切な、仲間が……私のせいで、辛そうにしている。放っては……おけない、わよね……」
仲間同士、でしかない。はずなのだ。
シェルミーネと、ヒューゼルは。
それ以上、それ以外の関係が、この両名の間に生じて育まれている、のだとしたら。
このミリエラという少女は、それを目の当たりにしていたのだ。
卑劣な告げ口行為、のような形になったとしても。
ミリエラは、それを今、フェアリエに伝えようとしているのか。
見つめ返した。
ヒューゼルが、自分が、辛そうな顔をしているならば、とフェアリエは思う。
ミリエラは今それ以上に、苦しげな顔をしている。
「貴女は……私に今、何かを伝えようとしている。そのせいで、苦しんでいる」
フェアリエは言った。
「なのに、年長者の私が……苦しみたくないから何も言わない、というわけにはいかない。聞いてミリエラ嬢。私、ヒューゼルが好きなの。愛している」
「……そう……ですか」
「そのせいでヒューゼルは、きっと苦しんでいる。それはそうよ。だって彼は……本当は、ヒューゼル・ネイオンとは違う誰か、なのかも知れないから」
主家の令嬢に、迫られたのだ。
拒絶など、出来るわけがなかった。
「彼は今……ただ、寄り道をしているだけ。なのに私ったら……いつかは本来の道へと戻らなければいけない人に、ずっと……寄り道を、させようと……」
「フェアリエ嬢……」
「見て、ミリエラ嬢」
庭園に、ヒューゼルがいた。
シェルミーネ・グラークと一緒にいる。
何やら、話し込んでいた。
この城の防備に関して話し合う、とは確かに言っていたのだが。
髪を束ね、長剣を帯び、戦闘服をまとう。
戦の装いが、凛として似合った悪役令嬢。
彼女がヒューゼルと並んでいる様を見るだけで、フェアリエは思ってしまう。
自分には嫉妬をする資格すらない、と。
「お似合いよね、とっても」
フェアリエは言った。
「どう見ても、誰が見ても……ヒューゼルにふさわしいのは、シェルミーネ嬢。私が入り込んだところで……滑稽な事にしか、ならないわ」
「…………」
そんな事はない、とミリエラは言いかけたようである。
思いとどまり、可憐な唇を噛んでいる。
その場しのぎの迂闊な慰めを、決して口にするまいとしている。
本当に、誠実な少女だった。
「……フェアリエ嬢。私、貴女にお伝えしないといけない事が確かにあります」
ミリエラが、やがて言った。
「ある理由で私たち、貴女とヒューゼル殿に……あまり親しく、していただくわけにはいかないんです。シェルミーネ様の方がお似合いだからとか、そんなお話じゃありません」
「どんなお話なのかを、今から聞かせてくれるのね」
「はい。シェルミーネ様と私は……実は、ログレム・ゴルディアック宰相閣下より密命を賜りまして」
「耳を傾けるな、フェアリエ・ゴルディアックよ」
またしても幻聴だった。
黒い糸が、言葉を発している。
「その小娘は……お前からヒューゼル・ネイオンを奪わんとしておる者の、下僕であるぞ」
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新しい弓を、ヒューゼル・ネイオンは背負っていた。
両端に刃を備えた、長弓。
以前から保有していたものは、ゼイヴァー・ロウレルとの戦いで失われたのだ。
シェルミーネ・グラークは、問いかけた。
「その弓は……」
「マレニード・ロンベル侯爵閣下より、賜ったものさ。わざわざ俺一人のために、腕利きの武器職人さんと話をつけて下さった」
ヒューゼルは答え、見渡した。
ケルティア城、庭園。
先日ここで、大変な戦いがあったという。
その戦いで城主ペギル・ゲラールは、娘ラウラと共に命を落とした。
自分がいれば。
ヒューゼルは、そんな事を考えているのかも知れなかった。
一通りの修復・修繕は済んだ、とヒューゼルは言っていたが、それはどうやら城壁だけだ。
城壁内の楼閣は、かなりの部分が、崩壊したまま放置されている。
ジュラードが現れたのだ。
その程度の破壊で済んだのは、戦った者たちの健闘・奮闘の賜物であろうとシェルミーネは思う。
兵士長オーレン・ロウレル。
オーグニッド兄弟の長兄と次兄。
皆、城主父娘と共に死んでいった。
一人、生き残ったフェアリエ・ゲラールが、ヒューゼル・ネイオンに救いを求めるのは当然と言える。
「……フェアリエ嬢の事」
「言わないでくれ、シェルミーネ嬢」
ヒューゼルは言った。
「俺は、フェアリエ様を……受け入れるべきでは、なかったと。そう言いたいんだろう? すがられても蹴り飛ばすべきだったと。言われなくても、わかってる。俺は……やっちゃならない事を、やったんだ」
「……記憶を、少しずつ取り戻していらっしゃると。お見受け致しますわ」
少し前までは、無気力な男であった。
今のヒューゼルは、懊悩の真っただ中にいる。
本当に無気力な者ならば、懊悩などしない。
「なあシェルミーネ嬢。俺は……アラム・ヴィスケーノって男が、大嫌いなんだよ」
憎悪に近いものが、ヒューゼルの口調にはある。
本当に無気力な者ならば、憎悪などしない。
「生きてるか死んでるのかも、はっきりしない。生きてるなら、とっとと姿を現せばいいものを」
「……まったくもって、その通りですわ」
「奥方が、いるんだよな? 元平民のお妃様が。なのに一体、どこをほっつき歩いてやがるのか」
(……それは、あり得ませんわ。絶対に)
シェルミーネは、言ってしまいそうになった。
(平民の分際で、この私をも退け、アラム王子と結婚した……生意気な、成り上がり者の小娘はね。もう、この世におりませんのよ。そこは御安心いただいて構いませんわ)
「ほっつき歩きながら、万が一……他の女と、よろしくやってたりしたら。そいつはもう、生きる価値のないクソ野郎だ。あんたに殺されても、まあ当然の死に様と言えるな」
(……構いませんわ、一向に)
アイリ・カナンは、死んだのだ。
他の女性とアラム王子が結ばれたところで、それを責め咎める事は出来ない。
そんな資格は、誰にもない。
(けれど、その前に……アラム王子。貴方には、アイリさんの死と向き合っていただきますわよ)
突然ヒューゼルは、長弓を手に取った。
庭園から露台を見上げ、矢をつがえた。
「控えよ、ヒューゼル・ネイオン」
声がした。
シェルミーネにとっては聞き覚えのある、おぞましい声。
「この令嬢に弓引く事は、出来まい……まあ、大人しくしておけ。そなたにとっても、悪い事にはならぬ」
呆然と立ち尽くすフェアリエの身体を、黒い糸が螺旋状に取り巻いている。
少女のか細い全身を、一気に巻き取ろうとしている、暗黒色の長い糸。
闇そのものを、細長く引き伸ばしたかのようである。
闇が今、フェアリエを巻き包もうとしているのだ。
それが、しかし出来ずにいる。
うっすらと、辛うじて見て取れる、淡く白い光。
それが、フェアリエの全身を膜状に包み込んでいた。
闇の糸は、その光の膜に触れる事が出来ず、フェアリエの周囲を漂いながら螺旋を成しているだけである。今は、まだ。
傍らに、小さな聖女の姿があった。
可憐な両手を握り合わせ、唯一神に懸命な祈りを捧げている。
その祈りが、フェアリエに護りをもたらしているのだ。
「要所要所で……見過ごせぬ働きを、してくれるものだな。ミリエラ・コルベムよ」
螺旋状に渦巻く闇の糸が、言葉を発している。
「まずは、そなたを始末せねばならぬ。か」
「ジュラード!」
シェルミーネは叫び、魔剣・残月を抜き放った。
闇の螺旋が、ミリエラからこちらへと注意を移す。
「取り乱すでない、シェルミーネ・グラークよ……そなたにも言っておこうか。悪い事にはならぬ、と」
「死せる者を、生き返らせる……まだ、その妄執に取り憑かれておりますのね」
細身の刀身が、燃え上がるように発光する。
光の刃を、シェルミーネは露台に向けた。
「……断ち切って、差し上げますわ」
アイリ・カナンが、何かをすれば生き返る、かも知れない。
そのような未練は、断ち切らなければならないのだ。




