第177話
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貴族とは、地位であり身分であり、肩書きである。
フェアリエ・ゲラールは今、それを実感していた。
ゴルディアック家の令嬢。
かつては、それが自分であった。
自分という存在は、それだけで説明し尽くされてしまった。
王都の大邸宅でフェアリエは、幸せに過ごしていたわけではない。
出て行きたい、と思った事は幾度もある。
出て行かなかったのは、自分に勇気も行動力も無かったからだ。
それに加えて、とフェアリエは思う。
ゴルディアック家の令嬢、ではなくなってしまう事に、自分は恐らく本能的な恐怖を抱いていた。
貴族としての、本能である。
あの大邸宅で、どれほど惨めな暮らしを強いられていようと。
自分は紛れもなく、ゴルディアック家の令嬢であった。
そうではない自分になど、存在意義も価値もない。
この世にいないも同然、だったのである。
だが結局フェアリエは、ゴルディアック家の令嬢ではなくなった。
花嫁選びの祭典で、無様な敗退・脱落を晒したからだ。
母の実家ゲラール家で、フェアリエは暮らす事となった。
ゴルディアックの令嬢が、ゲラール家の令嬢となった。
格落ちの感は否めない、にしても。
自身が何者であるかを説明するものが、失われたわけではなかった。
そして今。
フェアリエは、ゲラール家の、令嬢ではなく当主となったのだ。
ヴィスガルド王国南部。
ロルカ地方、執政府ケルティア城。
前城主ペギル・ゲラールはすでに亡く、その血縁者で存命が確認されているのは、現時点では孫娘フェアリエ・ゲラールただ一人のみである。
祖父の後を継ぐ。
当然の、成り行きであった。それが貴族というものだ。
ロルカ地方領主。ゲラール家当主。ケルティア城主。
それらが今、フェアリエ・ゲラールという人間を説明する単語である。
自分を含め、貴族という生き物は、それを失う事に本能的な恐怖心を抱いているのだ。
自分が、何者でもなくなってしまう。
これほど恐ろしい事は、ない。
フェアリエは、そう思っていた。
この、ヒューゼル・ネイオンという男に出会うまでは。
「ヒューゼル、ねえ! ヒューゼル!」
未だ記憶が戻らぬ若き兵士の、たくましい片腕に、フェアリエはすがり付いて行った。
「貴方と私が、このまま結ばれたなら……ねえ、わかる? 貴方が、ロルカ地方の御領主様よ。私は領主夫人。それで一体、誰か困るのかしら」
「……御領主は、貴女ですよ。フェアリエ様」
ヒューゼルは言った。
お嬢様、とは呼んでくれなくなってしまった。
露台から庭園を見下ろしつつフェアリエは、ヒューゼルの片腕にしがみついている。
離したら、彼はどこかへ行ってしまう。
そう思えた。
「ヒューゼル・ネイオンの……恋人…………妻……」
世迷い言だ。
言ったところで、この青年を困らせる事にしかならない。
フェアリエも、頭では理解している。
「私を説明する言葉……それだけで、いいわ」
「フェアリエ様……」
「ゴルディアック家、またはゲラール家の令嬢……領主……領主夫人……どれも、要らない。私、失う事を恐れていた」
「当たり前だと思います。失うのは……恐ろしい事です」
「貴方は、恐れを感じているの? 記憶を、失った事で」
「俺は……」
ヒューゼルの声は、震えている。
「……恐いですよ。記憶が……戻るのが」
「わかるわ。貴方、普段は飄々としているけれど……本当は、とても真面目な人。記憶が戻ってしまったら……様々な使命や責任を、思い出してしまったら。それを放り出す事なんて、出来はしない」
フェアリエは、含み笑いを堪える事が出来なかった。
「それなら。記憶を無くしていた間の物事を、全て放り捨ててしまうのか? なぁんて事に、なってしまうわね。うふふ……真面目なヒューゼルは、とても苦しむわ。記憶が、戻ったら」
(記憶が戻ったら……私を、捨ててしまうの?)
その問いかけを、フェアリエは辛うじて呑み込んだ。
それこそ、ヒューゼルを苦しめる事にしかならない。
「ヒューゼル……私……」
フェアリエは、含み笑いを続けようとして失敗した。
涙が、止まらなくなった。
「…………私…………貴方を、求めるべきでは……なかった……」
「フェアリエ様……」
「お願いよ、ヒューゼル。記憶が、戻ったら……私を、殺して……」
「馬鹿野郎!」
ヒューゼルは、フェアリエの腕を振り払った。
「わからないのか! いや……わかっては、いるんだよな。フェアリエお嬢様! あんたの命はな、ペギル閣下とラウラ様が守ってくれたんだぞ」
力強い両手が、フェアリエの細い肩を容赦なく掴む。
恐いほど真摯な眼差しが、まっすぐ向けられて来る。
「……冗談でも言うなよ、そんな事は」
「普段は飄々としているヒューゼルが、本気で私を叱ってくれる……とっても、嬉しいわ……」
涙に沈んだ瞳で、フェアリエは見つめ返した。
「でも、私は駄目……どんなに叱られても、直らない……自分が、こんなにも愚かしく、駄目な人間だったなんて……」
「……俺だって、駄目な奴ですよ。記憶が戻らなくたって、それだけはわかる」
自分は結局、この青年を苦しめる事しか、していない。
フェアリエは、そう思うしかなかった。
「戻らなくていい記憶が、どんどん戻って来てやがるんですよ最近。何もかも完全に、思い出しちまうのは……時間の問題って気がします、もう」
「そう……思い出して、しまうのね? ヒューゼル」
「思い出しても関係ない。記憶がどうであれ、自分が本当は何者であったとしても……俺は、貴女の傍にいる。放しはしない」
ヒューゼルが、端整な歯を食いしばる。
「……そう、はっきりと言えないのが……俺の一番、駄目なところだ」
「ヒューゼル……」
足音が、聞こえた。
自分たちに聞かせるための足音だ、とフェアリエは感じた。
「こちらに、いらしたのね。ヒューゼル殿」
光り輝くような、美貌と笑顔。
あの祭典においても。この令嬢は、己の輝ける美を誇示して隠さなかった。
傲然と、光を振り撒いた。
自分のような覚悟の足らぬ参加者は、その光を浴びるだけで潰れていった、とフェアリエは思い出した。
「貴方を捜しながらね、色々と見て回って、お城の状態を確認しておりましたのよ」
あの時のような、煌びやかなドレスを身にまとっている、わけではない。
今シェルミーネ・グラークが着用しているのは、殺伐とした戦闘服である。
所々に部分鎧が貼り付いて、肌の露出は無いに等しい。
しなやかで凹凸の見事な身体の曲線は、それでも全く隠せてはいない。
美しい金髪は、馬の尾の形に束ねられている。髪留めは、大人しめのものだ。
華美な装飾品をシェルミーネは一切、身に帯びていない。
祭典の時に感じた、あの傲然たる光は、しかし全く減衰する事なく、今もフェアリエを威圧している。
「驚きましたわ……このお城、穴だらけですのね」
「知ってるだろうが、ここでは先日どえらい戦いがあった。あちこち壊されて、一通りの修繕は済んだはずだがな」
ヒューゼルが、シェルミーネと会話をしている。
奪われた。
フェアリエは、それだけを思った。
「まあ、それでも……軍学をやった人間が見れば、いくらでも穴は見つかる、か」
「ケルティア城の防備に関して。実際に、このお城を守っていらした方とね、相談をしておく必要がありますわ」
先程までフェアリエがしがみついていた、ヒューゼルのたくましい片腕に。
シェルミーネの細腕が、絡み付いていた。
蛇のように。毒性のある、蔓草のように。
フェアリエは、声を上げようとした。
黙らせるかの如く、シェルミーネが囁きかけてくる。
「……いちゃいちゃも程々になさいませ。兵の士気に、かかわりますわ」
言い返さなければ、ならない。反論せねばならない。
フェアリエがそう思っている間に、シェルミーネは歩み去っていた。
ヒューゼルを、引きずるように拉致しながらだ。
見送りながら、フェアリエは思う。
シェルミーネは、あるいは自分を救ってくれたのかも知れない、と。
思いながら、呟いてしまう。
もはや後ろ姿も見えぬシェルミーネにもヒューゼルにも、届かない小声でだ。
「アラム王子を、手に入れられなかった悪役令嬢が……私から、奪うの? ヒューゼルを……」
「奪い返すしか、あるまい」
声がした。
幻聴だ、とフェアリエは思う事にした。
今の自分は、正気を失いかけている。
「私が力を貸そう……否、そんな必要はあるまい。そなたには、奪い返す力がある。奪い取る力が、あるのだよ」
視界の隅で、糸屑のようなものが揺らめいた。
一本の、黒い糸。まるで闇そのものを引き伸ばしたかのようである。
フェアリエの身体に、絡み付いていた。
「教えてやろう、フェアリエ・ゴルディアックよ」
揺らめきながら、黒い糸は言葉を発している。
「大魔導師ギルファラル・ゴルディアックの、転生したる姿……それが、そなたを説明する言葉である」




