第174話
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走り出したら、気付かれるかも知れない。
だからミリエラ・コルベムは、可能な限り足音を殺しながら、可能な限り足早に、大股に歩いた。
短い両脚を一生懸命、躍動させた。
小さな身体の周りで、唯一神教会の法衣がぱたぱたと舞う。
落ち着きない、忙しない歩き方をしながらミリエラは今、自分よりもずっと脚の長い女性を引きずっている。
「み、ミリエラさん……」
「お静かに! 何もおっしゃらないで下さい、シェルミーネ様」
ミリエラは口調強く、声を潜めた。
シェルミーネ・グラークの左手を、両腕で抱え込み、歩きながらだ。
「いいですか。私たち、何も見ていません。見えたとしたら、それは幻覚なんです。私たちの視界の中では今、何も起こりませんでした。シェルミーネ様、はい復唱」
「な……何も……」
ゴスバルド地方、執政府カルグナ城。
その中庭にて。
小さな少女に引きずられ、前のめりの歩行を強制されたまま、シェルミーネ・グラークは言った。
「私たちは、何も見て……何も、起こらず……な、何も……」
ミリエラの身体が、ふわりと宙に浮いた。
シェルミーネに抱き上げられていた。
「……何も、見なかった事になんて……うふふ。出来るわけがないでしょう? ねえミリエラさん」
「シェルミーネ様!」
じたばたと、ミリエラは暴れた。
身を寄せ合い、唇を重ね合っていた二人の姿は、もはや見えない。
充分に離れた、とは言え。あまり大声を出しては、聞こえてしまうかも知れない。
それでもミリエラは、叫んでしまう。
「頭では、おわかりなんですよね!? あれはヒューゼル・ネイオン殿であって、それ以外のどなたでもないんです! 今は、まだ!」
「もちろん、わかっておりますわ。だからこそ……この残月を、あの場では抜かずにいられましたのよ」
後ろからミリエラを抱いたまま、シェルミーネは辛うじて、冷静な口調を維持している。
法衣の被り物越しに、ミリエラの耳元で囁いている。冷静な口調でだ。
「いえ、あのままでは……私きっと、鞘走りを止められませんでしたわ。ミリエラさんが通りがかって下さって、本当に良かった。唯一神の御加護ですわね」
「シェルミーネ様……」
「……アイリ・カナンは……もう、ね。この世には、おりませんの……」
冷静さを、シェルミーネは保てなくなりつつある。
「あのヒューゼル・ネイオン殿が、仮に、本当に……アラム王子であったとして。フェアリエ嬢と結ばれたところで一体、いかなる問題が生じるのか? というお話ですわよね。王太子妃は現在、空位なのですから」
アイリ・カナンが、この世にいない。
王太子妃は、空位。
シェルミーネが、いかなる思いで、これらの言葉を口にしているのか。
ミリエラには、想像もつかない。
想像など、してはならない。
「……幸せに、結ばれるかも知れない……お二人を……私は、引き裂こうと……まあ、悪役令嬢らしいとは言えますわね。ふふっ、うっふふふふふふ……」
「仮に、ですよ」
ミリエラは慎重に、言葉を選んだ。
自分は今から、この厄介極まる自称・悪役令嬢を、穏便に説得しなければならない。
「シェルミーネ様が、このまま何もなさらずドルムト地方へお帰りになったとしましょう。確か……王子様が、いらっしゃるんでしたよね」
「フェルナー王子は……単なる拾い子として、グラーク家に育てられることになりますわ」
「その拾い子フェルナー君を、見る度に……シェルミーネ様は絶対、アイリ・カナン妃殿下を思い出します。アラム王子が、アイリ殿下の事を忘れたまま別の女性と結ばれている。シェルミーネ様は、それが絶対に許せなくなります」
「私、日々を……苛々と、悶々と鬱々と、過ごす事になりますのね……そんな無様な自分が、よく見えますわ」
「今。だからシェルミーネ様は、アイリ殿下の事に関して、何らかの決着をつけるべきだと思うんです」
穏便な説得など、まるで出来ていない。
自分は今むしろシェルミーネを、けしかけているのではないか、とミリエラは思う。
それでも、止まらなかった。
「それが……もしかしたら幸せに結ばれるかも知れないお二人を、その……引き裂く事に、なっても……です」
「……凄い事おっしゃいますのね、ミリエラさんは」
「ヒューゼル殿が、もしも本当にアラム王子なんだとしたら。何もかも忘れたまま、フェアリエ嬢と結ばれてしまうのは……やっぱり何か、違うと思うんです。アイリ殿下が亡くなられた事、お子様がグラーク家にいらっしゃる事。これらは、ちゃんとお伝えしないと」
問題は。
ヒューゼルが、アラム王子とは全くの別人、単なる他人の空似でしかなかった場合である。
自分やシェルミーネのしようとしている事は、本当に、睦まじい男女の仲を引き裂く行為にしかならない。
だが。
ヒューゼル・ネイオンを見て、はっきりアラム・ヴィスケーノであると断定した男たちが、確かにいるのだ。
クロノドゥールやリーゲン・クラウズが、いい加減な事を言う人間であるとは、ミリエラは思えなかった。
「ヒューゼル殿には……いよいよ早急に、記憶を取り戻していただかなければ」
ミリエラを抱き上げたまま、シェルミーネは言った。
「……頭を」
「殴る、なんて言わないで下さい。シェルミーネ様」
「ヒューゼル殿に、それをするのは。こちらも命懸けになりますわね、心せねば」
「だから駄目ですってば!」
地面から離れた両足を、じたばたと暴れさせながら、ミリエラは確信に至りつつあった。
ヒューゼル・ネイオンと、フェアリエ・ゲラール。
この両名を、シェルミーネは許せなくなり始めている。
両名に対し、いずれ本当に、魔剣・残月を抜き放ってしまいかねない。
その時。自分一人で、シェルミーネを止められるのか。
この自称・悪役令嬢を、止められる人間。
誰かしら、いないものか。
ミリエラは、心の中で助けを求めた。
(…………ガロムさん……!)
「仲いいわねえ、貴女たち」
声を、かけられた。
力強い姿がひとつ。のしのしと庭園を歩み、近付いて来たところである。
「まるで本当の姉妹みたい……ううん、違うわね。姉妹っていうのは、もっとギスギスしてるもの。仲良くなんて出来やしないわ」
「貴方は……本当に、女性がお嫌いですのね。マレニード侯爵閣下」
苦笑しつつシェルミーネは、ミリエラを抱擁から解放した。
「私、ミリエラさんとは本当に仲良しですのよ? それはもちろん、仲良く出来ない方々は大勢いらして、その大半が女性であるのは事実ですけれど」
「その大半っていうのは、花嫁選びの祭典の出場者?」
ここカルグナの城主マレニード・ロンベル侯爵が、厳つい髭面をニヤリと歪める。
「だけどシェルミーネ嬢。貴女あのアイリ・カナン王太子妃とは随分、仲良しだったように見えたわよ。ああ、この子たち本当はお互いの事が大好きなのねって、あたし見てて思ったもの」
「節穴ですわね。それで、私たちに何か? 賊徒を討伐するようなお仕事をいただけましたら。喜んで、行って参りますわ」
「まあ、そのうちにね。今は貴女たちに用があるわけじゃないのよ。ちょっとフェアリエ嬢を捜しているんだけど、この辺りで見なかったかしら」
ミリエラは、即答した。
「はい。この辺りに、フェアリエ嬢はいらっしゃいません」
「ありがとう。この辺りに、いるのね」
「ま、待って下さい!」
歩き出すマレニードの巨大な片足に、ミリエラは全身でしがみついた。
「そっちへ行っては駄目、駄目なんです! そっそれは、もちろん貴方のお城ですけれどっ」
「何よ。人に見せられない事でも、してるって言うの? フェアリエ嬢が」
マレニードは言った。
「……まあ、お年頃の女の子だし色々あるわよね。急ぎの用件でもなし、後にしましょうか」
「ロルカ地方、御領主の後任……に関するお話、ですかしら?」
シェルミーネが言った。
「前領主ペギル・ゲラール侯爵閣下の御血縁、今のところフェアリエ嬢お一人ですものね」
「さすがねシェルミーネ嬢。そう、ロルカ地方はフェアリエ・ゲラール嬢に統治していただく事になる。いずれ王都の方から、正式な決定が来ると思うけど……その前に、フェアリエ嬢には現地入りしてもらうわ」
「ロルカ地方の執政府、ケルティア城は……フェアリエ嬢にとっては、御家族を亡くされた場所。そこへ戻すとおっしゃるの? 容赦のない事」
「慣れてもらうわ。家族なんて、いずれは失うもの」
全くその通りだ、とミリエラは思った。
このマレニード・ロンベルという人物も、父親に死なれているという。
「……ケルティア城には、私も御一緒させていただきたいですわ」
シェルミーネが言った。
「フェアリエ嬢には、護衛が必要かと」
「ヒューゼル殿が、いるわよ?」
「ねえ、マレニード侯閣下。フェアリエ嬢は、お年頃でいらっしゃいますのよ?」
「若い男の子が四六時中、付きっきり……っていうのも、まあ確かに問題かしらね」
「そういう事。私が、フェアリエ嬢をお守り致しますわ」
言いつつシェルミーネは、ミリエラの頭を撫でた。
「ミリエラさんも。一緒に、来て下さいますのよね?」
「はい……」
心の中でミリエラは再び、ガロム・ザグに助けを求めた。
良くも悪くも行動力の塊である、あの青年がいたとしたら。
より破滅的な事態になる、とミリエラは思わぬ事もなかった。




