第171話
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夜が明けた。
朝焼けの清々しさが、目に沁みる。身に沁みる。心に沁みる。
朝を迎える事の喜びを、エルコック・ハウンスは痛いほどに感じていた。
過酷な一夜であった、という事だ。
「生き延びる事が出来ました。商品を、守る事も出来ました。まずは皆様に御礼申しあげます。本当に、ありがとうございました」
「いや……俺たちは、あんたの危機に駆け付ける事が出来なかった」
リーゲン・クラウズが言った。
「随分、大変だったそうじゃないか?」
「まあ大変でしたね。その間、貴方がたは荷馬車と隊商員たちを守って下さいました」
エルコック・ハウンス率いる隊商は、一人の死傷者もなく朝を迎え、こうして出発する事が出来た。
今は、北に向かって街道を進んでいる。
クエルダ地方を抜け、ゴスバルド地方へと至りつつある。
その隊商の中央で、エルコックは馬車に乗せられ、リーゲンが徒歩で随従していた。
「俺たちを雇い続けてくれる事、感謝する」
「貴方たちは隊商の護衛として、申し分ない仕事をして下さいました。本当は、テスラー殿クロノドゥール殿にも一緒に来ていただきたかったですが」
「あの連中を、バルフェノム侯から引き離す……のは、まあ無理だったな」
「あの方々の分まで、リーゲン殿に働いていただくとしましょう。今後とも、よろしくお願い致しますよ」
かつて叛乱者ボーゼル・ゴルマー侯爵に仕えていた戦闘部隊を、隊商の護衛として継続雇用する事となった。
部隊の代表者リーゲン・クラウズが、懸念を口にする。
「俺たちは……叛乱を起こしかねない、不穏分子と見なされている。そんな連中を護衛に雇うのは大丈夫か? 大商人がボーゼル侯の残党と結び付いている、なんて形にしかなっていないわけだが」
「貴方がたは、今や我が隊商の堂々たる護衛部隊であって、叛乱勢力ではありません。誰にも文句は言わせませんよ」
「俺たちが何か、やらかしたら……エルコック殿の顔に泥を塗る、どころじゃ済まなくなると。そういうわけだな」
「ボーゼル・ゴルマー侯爵は、まさしく英傑とお呼びするにふさわしい方でした。ご遺志を受け継いで事を成さんとする、わからなくはありません」
エルコックは語った。
「我ら王国南部の商人は皆、かのバラリス・ゴルディアック侯爵閣下には……まあ、随分な目に遭わされておりましたから。私などは直接、叩き潰されるところでした」
「金をよこせ、とでも言われて断ったのか」
「まさにそれですね。資金・物資の供出を求められまして。拒絶した私は、バラリス侯の軍兵に捕らわれそうになったのです。助けてくれたのが、そこにいるウージェンと……たまたま通りがかった、とある豪傑の方でした。ボーゼル・ゴルマー侯爵と志を同じくする義勇兵、と名乗っておられましたが」
「……本当に、たまたま通りがかっただけか? そいつは」
「まあ、私が助かったのは事実ですからねえ。で、その自称・義勇兵こそがマレニード・ロンベル殿。もちろん地方領主などではなく、単なる通りすがりの豪傑でいらっしゃったのですが……その時から随分と、私に良くして下さいまして」
やがて、バラリス・ゴルディアックは打倒された。
打倒したボーゼル・ゴルマーも、逆賊として王国正規軍による討伐を受け、敗死を遂げた。
逆賊に味方していた義勇軍が、しかしその時には、バラリス侯の旧領たる王国南部を、ほぼ完全に掌握していたのである。
一介の義勇兵マレニード・ロンベルは、ゴスバルド地方を統べる領主となっていた。
「地方領主となられてからも、マレニード侯は私のために様々な便宜を図って下さいました。時には、領主の権限を逸脱しているのではないかと感じられるほどに……正直、助かってはおりますがね。何故だろう、とは思ってしまいます」
「それはエルコック殿、あんたの……」
そこで、リーゲンは口ごもってしまった。
あんたの父上に関係ある事ではないのか、と言おうとしたようである。
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貴方たちは一緒に来て下さらないのですか? とエルコック・ハウンスは言った。
クロノドゥールに向かって。自分テスラー・ゴルディアックに対して。
心の底から悲しそうに、残念そうに。
商人の本音を見抜く事など、出来ない。
ただ彼が本当に、自分たちに対して別れ難さ、名残惜しさを、感じてくれたのなら。
まだ望みはある、とテスラーは思う。
祖父バルフェノム・ゴルディアックと、有力商人エルコック・ハウンスとの繋がりは、完全には切れていない。
その繋がりを、しかしバルフェノムの側から一方的に断ち切ろうとした結果。
自分たちは、こうして何も得られぬまま、王国南部から撤収する事と相成ったのだ。
「怒ってるね、若君様」
フェオルンが、言葉をかけてくる。
朝焼けの中、街道を進む荷馬車隊を、丘陵の上から見下ろしているところであった。
エルコック・ハウンスの隊商である。
リーゲン・クラウズやウージェンであれば、自分たちがこうして見下ろしている事に、もしかしたら気付いているかも知れない。
そう思いつつ、テスラーは応えた。
「怒っているが、安心もしている。良かったよ、エルコック殿を死なせずに済んで」
「まあ、つまり……僕たちは失敗したって事だけど」
フェオルンが、軽く頭を掻いた。
黒覆面の隙間で、赤色の両眼が苦笑している。
ちらりと見つめ、テスラーは言った。
「祖父には、僕が取りなしてみる。僕の言う事なんて、あの人が聞いてくれるかわからないけれど……貴方にフェオルンたちを怒る資格はない、くらいの事は言わなければ」
「バルフェノム様は怒らないと思う。自分がどれだけ無茶な命令を出してるのかって、一番わかってるだろうから」
「わかっていれば良い、というものでもないだろう」
フェオルンの言う通りだ、とテスラーは思う。
自分は、怒っている。
「帰ったら、祖父と話をしなければならない。聞いてもらえなくても、僕は言う」
「ひどい話だよね。バルフェノム様のために、お孫さんが人脈作りに励んでいる最中……その人脈を、根元からぶち壊すような命令。バルフェノム様ご本人が出しちゃうんだから」
商人エルコック・ハウンスの、殺害。
それが成功していれば、ここ王国南部においてクロノドゥールやテスラーのしていた事が、全て無駄なものとなる。
そこまでして、エルコックをこの世から消さなければならない理由が、しかしバルフェノムにはあったのだ。
「まあ、僕がうっかり手に入れた情報のせいなんだけど」
フェオルンが言った。
「本当か嘘か自分じゃ判断出来ないまま、僕はそれをバルフェノム様に報告した。しなければ良かったかな」
「そんな情報を、君がどこで手に入れたのか……気にならない事は、ないけれど」
遠ざかる隊商を、テスラーは見送った。
エルコックは、命を保った。
彼と自分たちの縁も、保たれた、のであろうか。
「落胤……か」
テスラーは呟いた。
落胤。
それこそが、フェオルンの掴んだ情報であり、バルフェノム侯爵が商人エルコック・ハウンスを生かしておけぬ理由であった。
「もしも王弟ベレオヌス公が、彼を認知したら」
「そうでなくても今この王国南部って場所は実質、ベレオヌス公の私有地だからね。それを、そっくりそのままエルコック・ハウンスが受け継ぐような事になったら……王家の、新しい系譜が、この南の地に根付く」
「ここ王国南部を、旧帝国貴族の手に取り戻す……そんな話は、夢のまた夢になってしまうな。だから祖父は、なりふり構わずゼイヴァー卿を派遣した。フェオルン、君も付けた。エルコック殿を、この世から消すために」
ゼイヴァー・ロウレルは、一足先にこの地を発った。
今頃は、バルフェノム侯爵の所領であるグルナ地方へと向かって、馬を走らせているはずであった。
自ら、バルフェノムに失敗を報告するために。
「殺せなかったよ」
フェオルンが言った。
「ゼイヴァー卿がいて、僕らがいて……なのに、一介の商人を始末する事が出来なかった。何と言うか……持ってるね、あのエルコック・ハウンスって人」
「あの人物を……死なせるベきではないと思う、私は」
今まで無言だった人物が、ようやく言葉を発した。
「繋がりは維持するべきだ。この度バルフェノム侯爵が命を狙ってしまったせいで、いささか難しい事にはなったが」
「繋がりの維持なら、貴方の得意分野だろう。レニング・エルナード元伯爵」
テスラーは言い、そして確認をした。
「我々と、共に来てくれる……という事で、良いのだろうか?」
「他に選択肢が無い。私を拾ってくれたのは、こちらのクロノドゥール殿だからな」
「バルフェノム様は、あんたを重く用いて下さるよ」
クロノドゥールも、無言を破った。
「さて。俺たちは、このままグルナ地方へ戻る事になるかな。バルフェノム様に直接、申し上げたい事が、俺にも無いわけじゃあない」
「恨み言なら、聞いて下さると思う。まあ度が過ぎない程度にね」
「何だフェオルン。お前、もしかして別行動か?」
「エルコック殿の殺害に成功しても失敗しても、終わったら速やかに次の仕事に移るようにと。バルフェノム様からは、言われているんだ」
赤い瞳が、遠くを見つめた。
「僕は……今から、王都へ行かなきゃならない」
あの祖父は、王都にまで何らかの調略や工作を仕掛けるつもりなのか。
テスラーは、心の中で語りかけた。
(あの大邸宅にいた面々よりは、遥かにまし……とは言え貴方もまた、旧帝国貴族の悪しき一面を体現なさっておられるのですね。お祖父様……僕も、ですが)




