第170話
●
「何だって……おい、そいつは本当か」
クロノドゥールは問いかけた。
愚かな問いかけだ、と即座に気付いた。
広大なるヴィスガルド王国。
東部グルナ地方にて、領主バルフェノム・ゴルディアック侯爵の傍に仕えていたフェオルンが、ここ王国南部の地にまで、つまらぬ嘘をつくために出向いて来るわけがない。
「……いや、しかしな……にわかには、信じ難い話だぜ」
「そう思うかい? クロノドゥールの兄貴」
フェオルンが、じっと見つめてくる。
黒覆面の隙間で、赤く輝く瞳。兎を思わせる。
「納得は、出来ない?」
「……出来る」
クロノドゥールは、そう答えるしかなかった。
「確かに、フェオルン……お前の話が本当なら、いや本当なんだろうが。バルフェノム閣下が、いち商人でしかないエルコック殿の命を……確かに、狙うわけだ」
「僕の持ち帰った情報が本当か嘘かは、バルフェノム様が判断なさる事でね」
このフェオルンという少年が、一介の商人エルコック・ハウンスに関する何らかの情報を、主君バルフェノム・ゴルディアックのもとへ持ち帰った。
その情報の真偽を、バルフェノムは見定めた。
そして、腹心の部下ゼイヴァー・ロウレルに命令を下したのだ。
エルコック・ハウンスを、この世から消すように……と。
「バルフェノム様は、そんなには間違わない。信じていいと思うよ」
言いつつフェオルンは、赤い瞳を向けた。
ゼイヴァー・ロウレルの巨体が、何者かと対峙する様にだ。
その姿は、はっきりと視認する事が出来ない。
何やら禍々しく揺らめくものが、人体と同程度の大きさに集まり澱んでいる。
その揺らめきが、無数の蛇の如く伸びて、ゼイヴァーを猛襲していたのだ。
猛襲を、しかしゼイヴァーはことごとく大剣で弾き返し、受け流した。
そこから反撃に転ずる事は、出来なかった。
その戦いが今、停止している。
戦いを止める者が、この場に現れたのだ。
「そこの御方、人間じゃないわね」
騎馬の武人。
ゼイヴァーほどではないにせよ、大男である。
その巨体が、ふわりと軽やかに馬を下りた。
そして、禍々しく揺らめくものに向かって一礼する。
「ゴスバルド地方領主、マレニード・ロンベルと申します。人外の御方、人の世を俯瞰する視点をお持ちの方よ。あなたの目には私たち人間のありよう、さぞかし醜悪に映っておりましょう。救い難く、看過し難く、度し難いでしょうね。皆殺しにしたいの、わかります。そこを耐えて下さいますよう、不干渉のお立場を固く固く維持して下さいますよう、お願い申し上げますわ」
『……そんな視点など、あるものか』
人ならざるものは、苦笑したようだ。
『容易く俯瞰が出来るほど、わかりやすい生き物ではないよ。君たち人間は、ね……私はただ、テスラー・ゴルディアックを守りたいだけさ』
「迷惑、と言いたいところですが助かりました」
バルフェノム・ゴルディアック侯爵の孫である若者が、言った。
「あなたが僕を守って下さるのは、僕の命がゼイヴァー・ロウレルによって脅かされているから。では何故ゼイヴァー卿は、僕を排除しなければならないのか? それは僕が、彼の行いを妨害しているから。僕はね、エルコック・ハウンス殿を死なせるわけにはいかないんです。つまり」
「まずは私を守って下さい、と。そのような話と相成るわけですが」
命を狙われている商人エルコック・ハウンスが、逃げも隠れもせず、堂々と言葉を発する。
「私を……守るために、わざわざ来て下さったように見えます。私の思い上がりでしょうか? マレニード侯爵」
「貴方を守るために来たのよ」
マレニード・ロンベルは即答し、ゼイヴァーを見据える。
大きな身体で、いつの間にかエルコックを庇っている。
「無茶ばかり……しないでちょうだい。エルコック殿」
「……貴方には日頃、随分と良くしていただいている。それでいて賄賂の類は一切、受け取って下さらない。何なのだろう、と思ってしまいますよマレニード侯」
そんなエルコックの言葉には応えずにマレニードは、ゼイヴァーに向かって言い放つ。
「そういうわけで貴方たち、ここから今すぐ立ち去りなさい。地方領主の権限を、あたしが持ち出さなきゃいけなくなる前に」
「治安を乱す者として、我々を討滅せねばならなくなる……と、そのようなわけか」
巨大な剣を、油断なく構えたまま、ゼイヴァーは言った。
「だがマレニード侯爵よ、ここはクエルダ地方であるぞ。ゴスバルド地方領主たる貴殿が、治安を守るような仕事をなされては……いくらか面倒な事態に、なるのではないか」
「お気遣いなく。こちらクエルダ地方の御領主バイル・ラガント侯爵とは、あたし旧知の間柄ですのよ。御領内で少しくらい暴れても、見て見ぬふりをしていただける程度にはね」
王国南部と一括りに扱われる六地方のうち、ロルカを除く五つの地方には現在、王弟ベレオヌス・シオン・ヴィスケーノ公爵と縁深い貴族が、それぞれ領主として赴任している。
このマレニード・ロンベルは、その筆頭と言うべき存在だ。
バイル・ラガントを含む他四名は、この男には逆らえない。
「とは言え。本当に暴れて人死にを出す、ような事はしたくないのよね。何もなかった事にしたいわ、どうかしら?」
「……何もなかった事にしよう、ゼイヴァー卿」
クロノドゥールは、声を発した。
「ここは、引き上げるべきだと思う」
「クロノドゥールに……話して、しまったのだな。フェオルンよ」
「話さないと、納得してもらえないから」
フェオルンが言う。
「現場の人間は、納得なんてしなくていいと。上から、やれと言われたらやる。やめろと言われたらやめる。それでいいと。現場で動く連中っていうのは手足みたいなもんだから、頭を使って納得なんて、しようと思う方がおかしいと。そういう考え方も、あるよね?」
暗殺者の仕事は多くの場合そうだ、とクロノドゥールは思う。
「だけど僕は、ある程度の納得は必要だと思う。今、上から出ている命令が何のためで、それを遂行しないと何が困るのか。そういうのを皆で共有していないと……大勢でやる仕事っていうのは絶対、どこかで駄目になるよ」
「だからフェオルンは今、俺に教えてくれた。ゼイヴァー卿、あんたがどうしてエルコック殿の命を狙わなきゃならなくなったのかをな」
言いつつクロノドゥールは、さり気なくエルコックを庇う位置に立った。
「事情は、わかった。それでも俺は……こちらのエルコック殿を、死なせたくはない。何しろ護衛を引き受けちまったからな」
「待って下さい」
エルコックが、片手を上げる。
「ゼイヴァー卿が、私を亡き者にせんとなさる理由。それを、当事者たる私には教えていただけないと?」
「貴方は……ご存じない方が良いと思いますわ、エルコック・ハウンス殿」
言葉と共に進み出て来たのは、シェルミーネ・グラークである。
「……私の思い上がりと甘えを、粉砕して下さった事。まずは感謝いたしますわ、ゼイヴァー卿」
「ほう。甘えておられたのか、シェルミーネ嬢は」
「ええ。私のようなか弱い令嬢に、よもや拳を振るうなど。そんな殿方、この世にいらっしゃるはずはない……という甘えを、ゼイヴァー卿は見事に打ち砕いて下さいましたわね」
「か弱い令嬢など一体どこにいる。私は貴女に、殺されるところであったのだぞ」
「ほう」
フェオルンが、声を発した。
「そう言えば。ゼイヴァー卿が珍しく素顔でいる、と思ったら……髑髏の仮面を、貴女が叩き割ったのかい? 有名な悪役令嬢と同じ名前のお姉さん」
「残念ながら今一歩、踏み込みが足りませんでしたわ」
一瞬、シェルミーネは夜空を仰いだ。
「……ともかく。エルコック殿がお命を狙われる理由、私も予想はつきますのよ? 違っていたら恥ずかしいので言いませんけれど」
「見当違いでも一向に構いませんとも、シェルミーネ嬢」
エルコックが言った。
「善良な商人エルコック・ハウンスが、かくも命を狙われる理由。一体、何なのでしょうか? それに関し、貴女の御見解を是非お聞きしたいものです」
「見解というほど、きちんとしたものではありませんわ」
一瞬シェルミーネは、言うべきかどうか迷ったようだ。
「ただ……ね。私が王都にて御尊顔を拝する機会に恵まれました、とある御方と、エルコック殿は非常に似ていらっしゃるというだけの」
「お疲れ様だったわね、シェルミーネ嬢。ミリエラ嬢に、ヒューゼル殿も」
マレニードが、シェルミーネを黙らせにかかる。
「あなたたちが頑張ってくれたおかげで……ここでは、何も起こらなかった。そうよね?」
「……そう、ですわね」
シェルミーネは、表情を消した。
美しい無表情が、テスラーに向けられる。
「私……貴方に、守っていただいたような気がいたしますわ。テスラー・ゴルディアック殿」
「僕は、ただ祖父の部下であるゼイヴァー卿に声をかけただけですよ。祖父の威を借りて、命令をしただけです。やめろ、とね」
「こちらのゼイヴァー・ロウレル卿。信念が固まってしまえば、ゴルディアック家の若君であろうと斬殺なさる方ですわ。間違いなく」
シェルミーネは言った。
無表情の美貌に一瞬、非力な若君を気遣い心配する感情が表れた、のであろうか。
「格好をお付けになるのも……程々に、なさいませね」
「貴族の仕事は、格好を付ける事。虚勢を張り、痩せ我慢をする事……と、お考えになった事は?」
「……無くは、ありませんわ」
「フェオルンの言う通り、ここは撤収だ。ゼイヴァー卿」
テスラーは命じた。
「地方領主が、権限を用いて商人を守ろうとしている。ここで無法を押し通せば……我々は、先程の強盗団と何らか変わらぬ存在と認定されるぞ」




