第17話
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「信じ難い、と書いてありますわよ。お顔に」
シェルミーネ・グラークは微笑みかけた。
メレス・ライアット侯爵は、難しい表情のままである。
「…………よくぞ、お話し下さった……とは思う」
ヴェルジア地方、リーネカフカ城。
およそ百年前、グラーク家の当主であったレゾム・グラーク侯爵が築いた、地方執政府である。
それまでの執政府であったゲンペスト城は、現在も廃城として放置されたままだ。
その地下に、レゾムの前代ガイラム・グラークの屍が、同じく放置されている。
グラーク家は2年前、令嬢シェルミーネの愚行が原因で、ヴェルジアの支配権を失った。
後任の領主メレス・ライアットが、今はリーネカフカ城の主である。
「王太子妃殿下のお命を、狙う者たちがいる……祭典終了直後から、囁かれていた噂ではある。よもや本当に……」
「メレス侯爵は、私の話を信じてしまわれますのね」
言いつつシェルミーネは、リーネカフカ城周辺の街並みを見渡した。
城の、露台である。
少し離れた所では、兵士ガロム・ザグが置物の如く控えていて、主家の令嬢とライアット家の若当主を警護している。
「性根の腐り果てた悪役令嬢が……これ幸いとばかりにアイリ・カナンを殺害・埋葬した後、友を看取ったなどという美談を仕立て上げただけ。そうはお思いになりませんの?」
「疑おうと思えば、いくらでも疑う事が出来る。信じようとするならば、いくらでも信じられる」
メレスはシェルミーネと並んで、城下の街並みを見下ろした。
「だから私は今、貴女が語ってくれた話を信じよう。かけがえのない友アイリ・カナンを、貴女は看取ったのだ。そして今、仇討ちの旅路にあると」
「……仇討ちは、ガロムさんが仕遂げてくれましたわ」
彫像の如く気配を消している若き兵士に、シェルミーネは一瞬の視線を向けた。
ガロム・ザグは、アイリを殺した者の凶器を破壊しただけ、とも言える。
凶器を振るった手が、凶器を振るう決定を下した頭脳が、健在であるなら。
自分は、その手を、首を、斬り落とさずにはいられない。結局のところ、アイリが喜ばぬ仇討ちになってしまう。
構わない、とシェルミーネは思う。
(私は、ね……アイリさん。貴女のために、こんな事をしているわけではありませんのよ)
斬り落とした生首を、アラム王子に突き付ける。
何故、この者からアイリを守らなかったのか。
そう、問い詰める。
それが、この旅の目的なのだ。誰も幸せにならない。
「……シェルミーネ嬢、私も」
言いかけたメレスを、シェルミーネは鋭く見据えた。
「私の愚かな旅に同行する、などとはおっしゃいませんように……この地の民が、貴方を必要としておりますわ御領主様」
「何を言われる。私など……」
「ねえメレス侯爵。民を守るため、己の身を危険に晒し戦う……美徳である事に違いはありませんけれど、程々になさいませね」
シェルミーネは、微笑んだ。
「貴方は、この地に安寧をもたらす御方。どうか、お忘れにならないで」
「…………民が、ようやく普通に税を納めてくれるようになった」
平和な街並みを、メレスは見つめた。
「グラーク家がいかに偉大な統治者であったのか、痛感する日々を私は送っている。貴族として、このメレス・ライアットは未熟も未熟……貴女に求婚など、する資格はないのだろうな本当は」
「自信をお持ちなさいな、メレス侯爵。貴方はグラーク家の、悪巧みばかりが得意な長男などよりも、ずっと立派な御領主様ですわよ」
ここヴェルジア地方でのシェルミーネの行動は、あの長兄ネリオ・グラークには全て把握されているに違いなかった。
「共に戦って下さった事……感謝いたしますわ。御求婚の件に関しましては、またいずれ」
「それどころではない、か。貴女は今」
俯き加減に、メレスは苦笑した。
「……ルチア・バルファドール嬢の憎しみまで、貴女は一身に引き受けようとしておられる」
「あの子もね。2年前の祭典では随分と調子に乗って、私に不愉快な思いをさせてくれましたもの。お仕置きをしないと私、気が済みませんわ」
「そのように悪役令嬢を気取りながら、ことごとく災いを引き受けてしまうのだな。貴女は」
メレスが、天を仰いだ。
「まったく……難儀な人に、惚れてしまったものだ」
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人の怨念とは非力なものだ、と聞く。
まあ当然だ、とレオゲルド・ディランは思う。
怨むだけで敵を殺傷出来るのであれば、例えば自分たち近衛騎士団のような暴力装置は不要となる。
死せる者がこの世に残した想念は、それそのものだけでは、生ける者らに何も影響を及ぼさない。何の役にも立たない。
何かの役に立てるには、魔法使いの力が必要となるのだ。
『…………アイリ様は…………死んだ…………』
辛うじて、聞き取れる声である。
『ザーベックの兄貴が……矢を、撃ち込んだ……間違いなく刺さったのを、俺は見た……』
ヴィスガルド王国、王都ガルドラント。
広大な王宮の、どこかの部屋である。
燭台の明かりに薄暗く仄明るく照らされた室内の中央に、色のついた霧のようなものが漂い集まり、固まろうとして固まる事が出来ずにいる。
生前の姿を、懸命に思い出そうとしている、のであろうか。
死せる者の残留想念が今、1人の魔法使いによって、言葉を発する能力を与えられたのだ。
中央に、死せる者が1名。
取り囲むは、生きた人間4名。
それが、この部屋を満たす総勢であった。
生者4名の、1人は自分レオゲルド・ディラン。
1人は、黒衣の魔法使い。闇色のローブに全身を包み、フードを目深に被って素顔を見せない。陰影の中で、2つの眼光のみが炯々と点っている。
その不吉な光が、死せる者に会話能力を与えているように見えた。
降霊の魔術を、行っているところである。
他2名は、この王国の実質的な最高権力者であった。
片方は、でっぷりと肥えた身体を豪奢な椅子に沈めている。
脂ぎった顔面が、いささか億劫そうに口髭を動かした。ねっとりと耳に障る声が漏れた。
「アイリ妃が……一命を取り留めた、という事はないのであろうな?」
『ない……俺は見たんだ、死に際に……』
死せる者は、涙ぐんでいるようであった。
『あの、くそったれ悪役令嬢が……本当は、とても優しい女の子で……その腕に抱かれて、アイリ様は死んでいった……そうだよ、あの2人は……本当は仲良しだったんだ……』
薄々ながら気付いている者は、自分だけではないだろう、とレオゲルドは思った。
現在、王宮の露台でアラム王太子に寄り添い、微笑み、王都民に愛想を振りまいている太子妃アイリ・カナン・ヴィスケーノは、偽物である。
その腕に抱かれたフェルナー王子も、また。
「かのシェルミーネ・グラークが」
もう1人の権力者が、言った。
「ドルムト地方において、お前たちをことごとく斬殺し、アイリ殿下を看取り、そしてフェルナー殿下を保護した……と。そのような事で、良いのかな」
老齢である。そろそろ70歳に達するはずだ。
だが背中はまっすぐに伸び、知的な眼光に衰えはなく、白い髪は上品に整えられている。
46歳の自分よりも生命力に溢れている、とレオゲルドは思ってしまう。
『俺は、あの本当は優しい悪役令嬢に斬り殺してもらえた……もう、女子供を殺すようなクソな仕事しなくて済む……』
固まりきれない霧のようなものが、薄れ、消えてゆく。
『俺たちに、選べる仕事なんてない。だから引き受けたさ……ザーベックの兄貴が、誰かからもらって来た仕事だ。一体、誰なんだろうなあ。下っ端の俺らは何にも知らされてない……おい。てめえら2人の、どっちかだろう? このクソどもが……』
死せる者は、消えた。
言葉だけが、残った。
『生まれ変われるなら、よ……てめえらみてぇなのが、いねえ世界がいいぜ……』
「……死せる者は、唯一神の御もとへと旅立ちました」
黒衣の魔法使いが、ようやく声を発した。
骸骨のような手が、ローブの袖から現れて、聖なる印を切る。
「魂よ、いと安らけくあれ……」
降霊の魔術は、終了した。
肥えた指で、同じく聖印を切りながら、権力者の片方が息をつく。
「民の希望……アイリ・カナン妃殿下は、やはりお亡くなりあそばされたか。痛ましき事よ」
「いささか……お戯れが過ぎるようですな、王弟殿下」
老齢の権力者が、言った。
「アイリ・カナン・ヴィスケーノ王太子妃殿下は、ご健在であらせられる。本日も、王宮の露台で民に微笑みかけておられましたぞ」
「ふむ……そうか。いや、宰相閣下がそうおっしゃるのであれば、そうなのだろうな」
王弟ベレオヌス・シオン・ヴィスケーノ公爵。
王国宰相ログレム・ゴルディアック侯爵。
この両名に、レオゲルド・ディランは今まで巧みに媚を売り続けてきた。
両名のために、小間使い、使い走り、猟犬、様々な役目を果たしてきた。そこそこ上位の近衛騎士として、可能な限り便宜を図ってきた。
全ては、ディラン家の安定と栄達のためだ。
甲斐あって、と言うべきか。
このような公ではない場にも同席が許される、程度には、レオゲルドは気に入られた。ベレオヌス公爵にも、ログレム侯爵にも。
「死せる者の恨み言を、真に受けてはなりません。それはそれとして……ドルムト方面が、いささか不穏であると。その認識を我ら3名、共有せねばと思いましてな」
ログレムが言う。
ベレオヌスが頷く。肥満した胴体に一瞬、顎が埋まった。
「うむ。ドルムトを治めるオズワード・グラーク侯爵は、油断ならぬ人物……どこぞの赤児をフェルナー・カナン殿下に仕立て上げ、擁立せぬとも限らぬ。そうなれば、ボーゼル・ゴルマー侯の叛乱に匹敵しうる国難よ」
「近衛騎士団の方々におかれましても」
ログレムの鋭い眼光が、レオゲルドにも向けられた。
「備え、怠りなきように。よろしいな? レオゲルド伯爵」
「は……っ……」
頭を下げる、しかなかった。
そこへ、ベレオヌス公が声をかけてくる。
「御子息が、行方知れずであるそうだな? レオゲルド伯爵」
一瞬、レオゲルドは息が詰まった。
アイリ・カナン王太子妃が、ある時、馬車で外出をしたきり行方不明となった。
護衛と御者を務めていたのが、レオゲルドの息子ブレック・ディランである。
「無事であると、良いな」
「……王弟殿下のお気遣い、愚息の身に余るものにございます」
あの息子は、アイリ妃と共に殺されたのか。
それとも。フェルナー王子と共に救出され、グラーク家に身を寄せているのか。
後者であれば。
グラーク家の動き方次第では、ブレックの存在は、ディラン家に災いをもたらすものになりかねない。
「のう宰相殿、それにディラン家の御当主よ」
ベレオヌスが、絡み付くような声を発した。
国王エリオールの実弟。
現王太子アラム及び、その子フェルナーの身に万一の不幸が起これば、無条件で次期国王となる人物である。
「我らヴィスケーノ家、元は帝国の雑兵であったとは言え……ヴィスガルド建国五百年を経て、それなりの家格に至ったと自負しておる。そなたら旧帝国系統の方々とは今後も、お互い張り合わず驕り高ぶる事もなく、対等な関係でありたいものだ」




