第169話
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刃引きのされた、訓練用の剣である。
単なる鉄の棒と言っても良い。
この両名ならば、それで人間の首を刎ねる事が出来る。
ヒューゼル・ネイオンは、それを確信していた。
訓練用の長剣を二本、左右それぞれの手に持って、その男は剣舞を披露している。
剣舞などと言ったら、本人は気を悪くするかも知れない。
だがヒューゼルは、思うのだ。
今、自分が目の当たりにしているのは、人を殺す技術であると同時に、人を魅了する技芸でもあると。
しなやかに鍛え込まれた肉体は、豹を思わせる。
獣の身体能力を、人間としての訓練で高めてきた。
そうして出来上がった、理想的な戦闘者の肉体である。
それが流麗に、獰猛に、躍動する様。
石像の陰から、ヒューゼルは見入っていた。
一人で、ではない。
自分より二つ年上、十歳になる少年が一緒にいて、大人の剣士の技を盗み見ているところである。
「やっぱり父上は……父は、凄いです」
少年は声を、潜めながら弾ませている。
「私も、あんなふうになれるでしょうか。いつか」
「なれますよ、きっと貴方なら」
「違います」
十歳の少年が、軽く咎めてきた。
「そうでは、ないでしょう?」
「そう……でした。そうだった」
軽く、ヒューゼルは咳払いをした。
「……君なら、父上のように強くなれる。私も、なりたい。共に頑張ろう、メレス」
「はい! 殿下!」
メレス・ライアットが、にこりと笑う。
この少年の父親と今、模擬戦闘を行っている男は、巨漢であった。
こちらは、言ってみれば熊である。
熊と豹が、戦っている。
巨漢が振るうは、同じく訓練用の剣で、一本だけだが大型だ。
それを、ある時は片手で軽快に、ある時は両手で力強く振るう、巨体の躍動。
勇壮でありながら、ある種の優雅さを感じさせる。
怪力であるのは間違いないが、その技量も敏捷性も、メレスの父親に勝るとも劣らない。
一本の巨大な刃と、普通の刀身二本が、激烈にぶつかり合って火花を散らす。
叩き付けられて来る剛力の一撃を、メレスの父親は二本の剣で巧みに受け流し、即座に反撃を叩き込む。
その時には巨漢は、受け流された大剣を、防御の形に構え直してある。
二本の剣は、鉄の壁でも殴打したかのように跳ね返されていた。
跳ね返された双剣が、しかし即座に反撃の一閃を見せる。
一連の動きが、人を殺せる舞踏であった。
ヴィスガルド王国、王都ガルドラント。
王宮、庭園の一区画にて、剣士二人による戦いの舞踏が行われていた。
一人では、成り立たない。
同等の力量を持つ敵手が存在してこそ完成に至る、舞踏にして武闘。
石像の陰から盗み見ながら、ヒューゼルは声を潜めた。
「メレスの父上と、互角に戦っている……あの大きな男は一体、何者なのだろう?」
「わ、私も知りません。父と、あんなに戦える剣士がいるなんて……世の中は、何て広いんだ」
メレスが、小さな拳を握る。
この少年の父親……シグルム・ライアット侯爵の振るう双剣が、左右立て続けに巨漢を急襲していた。
かわされた。
巨体が、大剣による防御を行う事もなく滑らかに後退し、左右の斬撃を回避したのだ。
後退によって開いた距離は、そのまま大剣の間合いであった。
勝ち誇った表情を浮かべる、事もなく、巨漢は大剣を一閃させる。
不気味なほど、表情に乏しい男であった。
立派過ぎる体格と比べ、首から上は、あまりにも外見的特徴が無い。
筋骨隆々たる胴体が、特徴の無い頭部を載せている。
無表情・無特徴の顔面で、眼光だけが炯々と燃え輝いているのだ。
その目が、微かに見開かれたようだ。
訓練用の大剣が、叩き折られていた。あるいは切断されたのか。
シグルム侯が左手で振るう、同じく刃引きされた長剣によってだ。
右の剣は、巨漢の喉元に突き付けられていた。
「……お見事」
無言であった巨漢が、ようやく言葉を発した。
「私は今、貴方様に討ち取られたのでございますな。シグルム・ライアット侯爵閣下」
「所詮は訓練よ。実戦の殺し合いで、私が貴公に勝てるとは思えぬ」
形良い口髭を、シグルム侯はニヤリと歪めた。
「ゆえにゼイヴァー卿、貴公相手に実戦などしたくはない。世が平和である事を、唯一神に祈るとしようか」
「この王国は平和でございますよ。唯一神、ではなく……シグルム侯、貴方がおられるがゆえに」
巨漢の表情は、変わらない。
口調からも、感情が読み取れない。
両者、離れて一礼をする。
去り行く巨漢を見送りつつ、シグルム侯は言った。
「どうかな、子供たちよ。得るものは、あったかな」
「あ、いえ、その」
メレスが、声を発してしまう。
ヒューゼルと、顔を見合わせる。
やがて、二人揃って石像の陰から歩み出す。
「……も、申し訳ありません侯爵閣下。私がメレスを誘って、盗み見を」
「そうではないでしょう? 殿下」
シグルムが、微笑みかけてくる。
ヒューゼルは俯き、言い直した。
「……すまない、シグルム侯。私がメレスを誘ったんだ、どうしても貴方の戦いを見たくて」
「それも違いますね。貴方を誘ったのは、息子の方でしょう」
「……も、申し訳ありません。父上」
メレスが、頭を下げる。
その頭をシグルムは、いくらか強めに撫でた。
「まあ、このような日の当たる場所でな。人に見られて困るような事を、したりはせぬ。ただ……大人同士の争い事には、出来うる限り近付かぬ事だ」
「争い事に、なってしまうかも知れない相手であったのだな。あの大男は」
「いかにも、その通りにございます。殿下」
すでに姿の見えぬ大男を、シグルム侯は見据えているかのようであった。
「あの者の名はゼイヴァー・ロウレル。王国全土の地方貴族に、力による領地の奪い合いが許されていた時代であれば、無双の英傑として名を馳せていたでありましょう。が、幸いにして今はそのような時代ではございませぬゆえ……名も知られぬまま埋もれかけている、眠れる竜、とでも申せましょうか」
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眠れる竜が目覚めたのか、とヒューゼル・ネイオンは思った。
あの時よりも勇壮さ、獰猛さを増していながら、ある種の優雅さを失ってはいない剣舞を、ゼイヴァー・ロウレルは披露している。
訓練用ではない、絶大なる殺戮をもたらす巨剣が、縦横無尽に閃いて火花を散らす。
何者かによる攻撃を弾き返し、受け流している。
うっすらと、辛うじて視認は出来る、変幻自在の凶器。
鞭のようであり、蛇にも見える。
恐らくは、魔力で組成されたもの。
それらを放ち、振るっている何者かの姿は、よく見えない。
夜闇の中、ぼんやりと不吉なものが佇んでいるのは、何となく見て取れる。
その不吉な淡い輝きが、無数の蛇あるいは鞭の如く伸びてうねり、ゼイヴァーを猛襲しているのだ。
直撃すれば人体が破裂する、超高速の襲撃。
巨大な剣でことごとく弾き返し、受け流しながら、ゼイヴァーは呻く。
「人ならざるもの、か……」
その口調には、僅かながら感情が入っている、ようではある。
「人の世に、介入をするのか……」
『人の世など知らぬ。お前たちの世界など、どれほど腐り果てていようが知った事ではない』
ぼんやりと不吉な何者かが、言葉を発している。
『だが。テスラー・ゴルディアックは、守らねばならぬ』
「御本人は、迷惑を感じておられるようだが」
『勇猛にして傲岸なる帝国貴族の剣士よ。貴様は、他者の迷惑など考えた事があるのかね?』
「ない。兄にも、よく言われていた。今少し他人の事を考えろと。ついに、それは出来なかった」
会話に合わせ、力と力がぶつかり合う。
蛇のような鞭のような破壊力の塊と、巨大な剣。
ゼイヴァー・ロウレルが、戦っている。あの時のように。
あの時は、実戦さながらとは言え、模擬戦闘であった。
相手は、シグルム・ライアット侯爵。
彼曰く、平和な時代であれば名を知られぬまま埋もれていたであろう巨漢が今、覚醒と飛躍の機会を得てしまったのであろうか。
ヒューゼルは、己の頭を押さえた。
「くそっ……別に無くてもいい記憶が、急激に戻り始めてる……!」
中途半端に戻った記憶の中で。
自分は、このゼイヴァー・ロウレルという男を知っていた。
シグルム侯の子息メレス・ライアットとも、友誼に等しいものを結んでいたようだ。
そして。
ライアット家の父子は、自分ヒューゼル・ネイオンを、どう呼んでいたのか。
「…………誰だよ……殿下、って……」
ひときわ激烈な衝突が、起こった。
蛇または鞭に似た力の塊と、巨大な剣が、烈しくぶつかり合って爆発の如き火花を散らす。
吹っ飛ばされたかのように、ゼイヴァーの巨体が後方へ跳んで着地する。
開いた間合いを、ゼイヴァーは即座に詰めようとはしない。
複数の人影が、いつの間にか、周囲に降り立っていたからだ。
黒装束の一団。
その一人が、ゼイヴァーの傍らで囁く。
「……撤収だ。逃げるよ、ゼイヴァー卿」
「どうしたフェオルン。敗れて、押されて来たのか? 貴様ともあろう者が珍しい」
「確かに、隊商を守る連中は手強いよ。それに加えて」
兵士の集団が、この場を取り囲んでいた。
隊商の護衛、ではない。
王国地方軍の、一部隊である。
「そこまでよ。バルフェノム・ゴルディアック侯爵の配下……なのかどうか明らかではない、無法者の一団よ。それを明らかにする事なく、ここを去りなさい」
部隊指揮官が、進み出て来て言い放つ。
ゼイヴァーには若干、劣るものの大柄な男である。
「商人エルコック・ハウンスは、こちらで保護します。通りすがりの無関係者は即、立ち去るように……無関係で済んでいるうちに、ね」
ゴスバルド地方領主。
マレニード・ロンベル侯爵であった。




