第168話
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「何をしている……」
自分は今、怒っているのかも知れない。
エルコック・ハウンスは、そう思った。
怒り、とおぼしきものが、口調に滲み出てしまう。
「一体……何をしておられるのですか、テスラー殿」
怒りを態度に表してしまうようでは、商人としては三流以下。
そう教えてくれたのは、母である。
頭に血が昇ったら、無理矢理に下げる。
無理矢理にでも、冷静さを保つ。
そして今、頭に血が昇るほどの一体何が起こっているのかを、把握しなければならない。
亡き母の教えを、エルコックは無理矢理に実行した。
今、起こっている事態。
まずは、ウージェンが死にかけている。
倒れ伏し、背中を踏みつけられているのだ。
ゼイヴァー・ロウレルの右足に、今にも背骨を踏み砕かれそうである。
やむを得ぬ事態となったなら、ウージェンは見捨てるように。
母は息子に、そう命じた。ウージェンの目の前でだ。
クロノドゥールも、同じような状況下にあった。
ゼイヴァーの左手で喉首を掴まれ、宙吊りにされている。
地面から離れた両足を、じたばたと暴れさせる。
それ以外の事を一切、クロノドゥールは出来ずにいる。
窒息と同時に、頸骨を折られる。
このままでは、それも時間の問題であろう。
そして。
単身・徒手空拳で戦闘者二人の動きを封じている甲冑姿の巨漢と、テスラー・ゴルディアックは対峙していた。
エルコックを、背後に庇っている。
そのようにしか、見えない。
「僕たちは、貴方の護衛を請け負ったのですよエルコック殿。仕事として、ね」
言いつつテスラーは、ちらりとも振り向かない。
旧帝国貴族の権威と暴力そのもののような大男と、睨み合っている。
「……仕事は、しなければならない。民は、そうして生きている。ならば我々貴族も、それが出来て当然でしょう」
「王国南部の大商人と、良き関係を構築しておく……バルフェノム侯爵閣下にとっては、大きな助けとなりましょうな」
ゼイヴァーが言う。
髑髏の仮面は剥落し、素顔が露わである。
凶猛に燃え盛る眼光。
それ以外は全く印象に残らぬ、地味な顔立ちであった。
「若君様、貴方の功績です。それを台無しにせねばならぬ事……重ね重ね、お詫び申し上げる」
「僕ではない、クロノドゥールたちの功績だ」
凶猛なる眼光を、テスラーは正面から受け止めている。
「まずは、その手を放せ。足を退けろ。祖父バルフェノム・ゴルディアックの威を借りるだけの非才無力なる御曹司にも、それを命ずる程度の権限はあるはずだ」
虚勢と紙一重の、悲壮なる何かが、テスラーの口調には宿っている。
「我が命に従え、ゼイヴァー・ロウレル卿。そなたが蛮人や賊徒の類ではなく、忠節・礼節をわきまえたる帝国貴族であるならば」
「……御意」
ゼイヴァーは、両名を解放した。
クロノドゥールが、喉首の拘束を失って落下し、そのまま地面に倒れ込む。
ウージェンは、這いずりながら弱々しく上体を起こす。
両名への加害を目で禁ずるかの如く、ゼイヴァーの巨体を見上げ睨んだまま、テスラーは言った。
「兄君と……再会を果たされたのだな、ゼイヴァー卿。御兄弟の間に立ち入る事は出来まいが、僕はオーレン殿に愚痴を聞いていただいた事が何度かある。祈る事は、お許し願えようか」
「望外の幸せにございます、若君様。兄も喜びましょう」
ゼイヴァーの巨体が、恭しく一礼して道を空ける。
その道をテスラーは歩み、そして跪いた。
脳天から真っ二つに叩き斬られた、惨たらしい屍の傍らで。
聖なる印を切り、目を閉じ、黙祷を捧げる。
そうしてから少しの後、テスラーは言葉を発した。
「……オーレン殿も、僕に愚痴を聞かせてくれた事がある。道を歩くだけで人を死なせてしまう、弟君に関してだ」
「兄の心労、察するに余りあります」
「仕方がない、とは僕も思う。怪物として生まれてしまった、それは貴殿のせいではない。誰のせいでもない」
テスラーは目を開き、立ち上がった。
「我が祖父バルフェノム・ゴルディアックは、怪物を飼い馴らす達人だ。ゼイヴァー卿、貴方は……祖父の、いかなる利益のために、人殺しの怪物であり続けているのですか。何故、エルコック殿のお命を狙うのです」
若君の問いに、ゼイヴァーは答えない。
構わず、テスラーは問う。
「有力商人を味方に付ける。それに優先する理由とは一体、何なのです。エルコック殿が、この世から消える事で……祖父は、ゴルディアック家は、あるいは我ら旧帝国系貴族は、いかなる利益を得るのですか?」
会話を長引かせている間に、逃げろ。
テスラーは自分たちに、そう言っているのかも知れない、とエルコックは思った。
「思うに、フェオルンあたりが何か情報を掴んだのではないですか? それで急遽、祖父は手を打たなければならなくなった。エルコック殿が御存命であっては困る、何かしらの事情が突然、判明してしまったのでしょう」
「その事情とは……私の父に、関する事ですね」
エルコックは、会話に割って入った。
「父は、多額の手切れ金だけを母に残して姿を消しました。顔も名前も、私は知りません。まあ、その事を恨んではいませんが……こうなれば文句の一つも言ってやりたい。貴方のせいで私は命を狙われている、とね」
「エルコック殿……」
「私は逃げませんよ、テスラー殿。仮にこの場を切り抜けたとしても、私は今後ずっと命を狙われ続ける。それが今、判明してしまいましたからね」
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私はずっと、命を狙われているのだよ。
その人物は、宴席で、そんな事を言っていたものだ。
冗談めかして、である。
王国全土の臣民に、私は嫌われ憎まれている。まるで、どこぞの悪役令嬢の如くになあ……と。
突然、シェルミーネ・グラークは思い出した。
若き商人エルコック・ハウンス。
そのスラリと細い身体を、頭の中で太らせてみる。
大量の脂肪を、注入する。
秀麗な顔を、横に引き伸ばし、いくらか無様に弛ませる。
この容姿端麗な若者が、今後いささか不健康に年齢を重ねてゆけば間違いなく、あのようになる。
シェルミーネは、確信してしまった。
「ベレオヌス公…………」
呟きが、漏れた。
その瞬間シェルミーネは、身体が砕け散ったように感じた。
凄まじい殺気が、ぶつかって来たのだ。
こちらを見据える、ゼイヴァーの眼光。
烈しく燃え上がる、殺意そのものだった。
地味な顔面には、相変わらず特徴も表情も変化もない。
両眼にはしかし、憎悪なき殺意が漲っている。燃え盛っている。
このゼイヴァー・ロウレルという男は今、感情ではない部分で、シェルミーネの殺害を決意してしまったのだ。
それが実行に移されない理由は、ただ一つ。
ゼイヴァーにとって主家の御曹司である若者が、シェルミーネを背後に庇い、立っているからだ。
「…………退け、ゼイヴァー・ロウレル」
テスラー・ゴルディアックは言った。
「この場では、何も起こらなかった事にしておきたい。去れ」
「いかにも若君様、この場では何事も起こっておりませぬ。今は、まだ」
ゼイヴァーの口調に、淀みはない。
「これより、痛ましい事故が起こるのでございます。貴方様、以外の者がことごとく巻き添えとなり、命を落とすのです。痛ましい、なれど唯一神の思し召しゆえ」
「人にした事は、自分に返って来る……と、そういうわけか」
クロノドゥールが立ち上がり、構えた。
「覚悟はしていた、つもりだが……」
「事故など起こらない、起こさせはしない」
クロノドゥールには何もさせぬかのように、テスラーは言い放つ。
「ゼイヴァー卿! いや、我が祖父バルフェノムとて、そうか。貴殿らは今、あの大邸宅にいた醜悪なる輩と同じものに成り果てている! 帝国貴族の栄光と誇り、そのようなものではないだろう。恥を、思い出せ!」
「……御立派です、若君様。旧帝国貴族テスラー・ゴルディアック殿」
いつの間にかゼイヴァーは、大剣を拾い上げていた。
「なれど、それではいけません。恥知らずに、おなりなさい。弱虫におなりなさいませ、若君様。不都合なるもの全てに対し、見て見ぬふりをするのです。不都合なるもの全てを、最初から無かった事に致します。このゼイヴァー・ロウレル、そのためにおります」
巨大な刃が、この場にいる全員を叩き斬る。
その運命は、もはや避けられないのか。
自分が、不用意な一言を発したせいで。
シェルミーネが思った、その時。
ゼイヴァーの大剣が、一閃した。
この場の全員を斬殺するため、ではない。
突如、宙を泳いで襲いかかったものを打ち払うためだ。
それは不可視の、破壊力の塊であった。
毒蛇の如くゼイヴァーを奇襲・急襲し、打ち払われ、だが切断されたわけではなく鎌首をもたげ、次なる襲撃の機会を狙っている。
柔軟にうねる、魔力の塊。
「……やって、くれたわねぇ。まったく」
その女性は、声を発する機能を、ようやく回復させたところであった。
失われていた頭部が、おぞましく蠢きながら再生を遂げつつある。
口元から鼻にかけては、端正な形をほぼ取り戻している。
顔面の上半分は、まだ蠢く肉塊だ。
その蠢きの中から、ぎょろりと眼球が現れ、クリスト・ラウディースを睨む。
「ちょっと会わない間に私ったら、忘れてたみたい……ねえクリスト司祭? 貴方がどれだけ容赦のない男なのか、って事」
「……私も忘れていましたよ、マローヌ嬢。貴女がどれほど、化け物であるのかを」
「まあ油断していた私が悪い、って事で」
再生したばかりの眼球で、マローヌ・レネクは状況を見渡す。
「そこの貴方」
そして、ゼイヴァーに声を投げる。
「こちらの御方がね、貴方にお話があるそうなので心して聞くように。まあ……お話だけで、済めばいいわね」
『私とて、手荒な真似はしなくない。ゆえに一度は警告をしておこう、帝国貴族の戦士よ』
マローヌの傍らで、魔力の塊を毒蛇の如く揺らめかせるもの。
マローヌの存在を通じ、この場に力を及ばせるもの。
目に見えぬそれが、言葉を発した。
『……立ち去れ。テスラー・ゴルディアックへの危害は一切、許さぬ』




