第167話
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間違いない。
このゼイヴァー・ロウレルという男は、素手で人間を殺害した事がある。
それを確信しながら、シェルミーネ・グラークは吹っ飛んでいた。
剛力の素手が、鋼の手甲をまとった状態で握り拳となり、もはや鉄球にも等しい凶器と化して、シェルミーネの腹部に叩き込まれたのだ。
とっさに後方へ跳び、いくらかは衝撃を殺した。
だがシェルミーネは、身体の奥から鮮血が込み上げるのを止められなかった。
「うっ…………ぐ…………ッ!」
血飛沫を吐きながら、地面に激突する。
体内の数箇所が、破裂している。
拳で済んだのは幸運、と思うしかなかった。
あと僅か、間合いが開いていたら、大剣の一撃を喰らっていただろう。
小柄な人間の背丈ほどもある、大型の刀身。
そんな凶悪な得物を右手で休ませたまま、ゼイヴァーは、左の拳でシェルミーネを迎え撃ったのだ。
大剣の間合いの、内側へと入り込んだ。
そこで自分は明らかに油断をした、とシェルミーネは思う。
大型の得物をかわして距離を詰めて来た相手を、この男は、拳で迎撃する事が出来るのだ。
「シェルミーネ様……!」
ミリエラ・コルベムが、叫びながら息を呑む。
彼女による治療を、期待するしかないのか。
「何もなさらぬよう、お願い申し上げる。小さき聖女殿」
ゼイヴァーが言った。
髑髏の仮面は割られて剥落し、素顔が露わになっている。
「この私が、苦心惨憺の末ようやく手傷を負わせた相手を、貴女は治してしまう……これ以上そのような事をなさるのであれば。私は貴女を、敵戦力のひとつと認識せざるを得なくなる」
年齢は、三十代の後半。
それだけが何となく見て取れるだけの、顔立ちであった。
「……殺さねばならぬ、という事だ」
そう言われてなお動こうとするミリエラを、ヒューゼル・ネイオンが背後に庇って止める。
最悪の場合。彼には、ミリエラを抱え運んで逃げてもらう事になるだろう。
容姿端麗なヒューゼルと比べ、ゼイヴァー・ロウレルの素顔には、あまりにも特徴が無い。
天空に向かって大きく尖った、兜を被っている。
その目立つ被り物を脱いだら、もう自分は、この男の顔を覚えていられない。
シェルミーネは、そう思う。
「……何とも……地味な、お顔……ですのねっ」
倒れたまま、吐血の咳をしながらシェルミーネは、思うところを正直に述べた。
「虚仮威しの、お面を……被りたくなるのも当然……」
「よく言われる。貴様は顔が貧相ゆえ、何か虚仮威しを着用してみてはどうかと、最初に冗談めかして言ったのは……私の、兄でな」
縦真っ二つに叩き斬られた屍を、ゼイヴァーは見やった。
その眼差しが一瞬、燃え上がったのを、シェルミーネは見逃さなかった。
「……本当に被るとは、思っていなかったようだ。兄は、ひどく驚いていた」
猛々しく禍々しく、燃え盛る眼光。
それ以外のものが一切、印象に残らなくなってしまう素顔である。
「実に見事な、真っ二つだったぜ。さすがとしか言いようがない」
黒い長身が、そんな言葉と共に、シェルミーネを庇って立つ。
クロノドゥールだった。
「本当に……めんどくさい兄弟だったよ、あんた方は。結局、最後は殺し合いになるだろうとバルフェノム様は言っておられた。実際そうなっちまった。まあ、それはもういい。兄弟喧嘩に決着がついたところで、この場は終わりにしておけゼイヴァー卿」
「…………させませんわよ、終わりになど……ッ」
端麗な唇を血で汚しながら、シェルミーネは呻く。
「お答えなさい、ゼイヴァー卿……アイリ・カナンは、分不相応なるものを持ってしまったが故に…………貴方がたによって、消された……と。そのような事、ですの?」
「アイリ・カナン・ヴィスケーノ王太子妃殿下は現在、王都ガルドラントにて、幸せに暮らしておられる。アラム王太子殿下と仲睦まじく、な」
幾度、問いかけたところで、このゼイヴァー・ロウレルという男から、これ以外の答えが返って来る事はないだろう。
「それが全て、であるぞシェルミーネ嬢。何事も、起こってはおらぬ。起こっておらぬ事を妄想し、真実と思い込み、暴走して壁にぶつかり、死にかけている。それが今の貴女だ」
特徴のない素顔は、ただ不吉な眼光を灯すだけで、表情を浮かべていない。
髑髏の仮面よりも不気味な、作り物の顔面。
シェルミーネは、そう感じた。
言葉で問いかけても、この男は真実を語らない。
不気味な無表情の下に、真実を押し込み隠している。
仮面よりも強固な無表情を、叩き斬って開くしかない。
シェルミーネは思い、無理矢理に立ち上がった。
後ろから、肩を掴まれた。
がっしりと力強い片手。
その容赦ない握力の中に、温かみがある。
温かなものが、肩からシェルミーネの体内に流れ込んで来る。
あちこち破裂した体内を、癒してくれている。
「ミリエラ嬢、ほどではないにせよ……私にも、聖なる癒しの力は使えます」
クリスト・ラウディースであった。
鋼の連結棍を左脇に挟んだまま、右手でシェルミーネを、掴みながら治療している。
「……無理は、お控え下さい。私はね、貴女に死んでいただくわけにはいかないのですよ」
「…………愛しい妹君の、仇。御自身で討ち果たさねば、お気が済まぬ……と?」
「私は、ただ真実を知りたいのです。貴女が……アイリ・カナン王太子妃に関する何かしらの真相を、追い求めておられるように。ね」
「リアンナ・ラウディースは……役立たずゆえ、私が殺処分したのですわ。以前も申し上げました通り、それが真実」
「それは真実ではなく、世迷い言というのですよ。シェルミーネ嬢」
肩を掴む手に、ぐっと力が籠もった。
「ともかく。私では、貴女のこの傷を癒すのに時間がかかる。今少し、大人しくしていなさい」
治るまで今少し、大人しくしている。
このゼイヴァー・ロウレルという相手が、果たして、そんな時間をくれるのか。
今。シェルミーネとクリストの前に立ち、ゼイヴァーを牽制してくれているのは、クロノドゥールである。
「俺たちは、エルコック殿を守らなきゃならん。シェルミーネ嬢、力を貸してくれ」
「……そうすれば報酬、出る。思いのまま」
もう一人。前に出てクロノドゥールと並び、ゼイヴァーと向かい合った者がいる。
獣人の、剣士だった。
毛むくじゃらの長い両腕で、抜刀の構えを取っている。
「ご主人、報酬、出す。お前、戦え」
「報酬を……私に、下さるの?」
ちらりと振り返り、シェルミーネは思わず訊いた。
「商人の方から、何かしらの御支援をいただける……願ってもないお話では、あるのですけど」
「……ウージェンは本当に容赦がない。一応は主である私に、何という試練を課してくれるのか」
商人エルコック・ハウンスが、にこりと苦笑する。
「花嫁選びの祭典を見ながら、私は思いましたよ。シェルミーネ・グラーク嬢は、お金や物で満足をしてくれる人ではない……と。貴女に喜んでいただける報酬を用意しなければならない。さあ、これに勝る過酷な試練があるでしょうか」
やはり、とシェルミーネは思う。
この笑顔、どこかで自分は見た事がある。
このように笑う人間と、どこかで会った事がある。
そんな事をシェルミーネが思っている間に、斬撃が来た。
小柄な人間の背丈ほどもある、巨大な刀身。
軽々とゼイヴァーが、それを両手で振るった。
シェルミーネも、クロノドゥールもクリストも、ウージェンと呼ばれた獣人の剣士も、まとめて両断されるであろう一閃。
じわじわと治癒しつつある身体を、シェルミーネは無理矢理に動かした。
魔剣・残月を眼前に掲げ、念じる。
今のところは、それが精一杯である。
負傷者一人を含む戦闘者四名を、まとめて守る形に、巨大な盾が出現していた。
光の盾。
魔剣・残月の本質たる、ヴェノーラ・ゲントリウスの魔力が発現したものである。
そこへ、ゼイヴァーの斬撃が激突する。
光の盾は砕け散り、魔力の煌めきが飛散した。
人の背丈ほどもある大型剣は跳ね返され、だがゼイヴァーの剛力によって即座に構え直される。
いや。
その構えが完成する前に、クロノドゥールとウージェンが斬りかかっていた。
鋼の義手から生えた刃。
鞘から走り出す、新月の如き刀身。
二つの斬撃を、ゼイヴァーは不完全な防御の構えで迎え撃つ事になった。
火花が夜闇を照らし、刃の激突音が響き渡って尾を引いた。
その残響が消えぬうちに、勝敗は決していた。
大剣が、ゼイヴァーの手から叩き落とされて地面に突き刺さる。
ウージェンは、倒れていた。
その背中を、ゼイヴァーの右足が踏みにじる。
クロノドゥールは、宙に浮いていた。
その首を、ゼイヴァーの左手が掴み拘束している。
「ぐッ……ぇええ……」
「クロノドゥールよ。お前たちの仕事を台無しにしてしまったのは、すまぬと思う」
大剣を軽々と扱う膂力で、ゼイヴァーはクロノドゥールを宙吊りにし続けた。
「……それはそれとして。お前たち、私の剣を叩き落としたところで油断をしたな? なっておらぬぞ」
シェルミーネは、呆然と見つめるしかなかった。
二人の手練れを、踏みつけ、宙吊りに捕えたまま、傲然と佇む甲冑姿の巨体。
こちらの力を全て、跳ね返してしまう。
旧帝国貴族の本質そのもの。
シェルミーネは、そう思った。
帝国滅亡後、五百年以上を経てなお存在し、ここヴィスガルド王国全域に、全ての民に、目に見えぬ重圧を与え続けるもの。
アイリ・カナンに、生存を許さなかったもの。
その『もの』の化身こそが、このゼイヴァー・ロウレルという男なのだ。
「強過ぎる……」
クリストが呻く。
シェルミーネは、もはや声を発する事も出来ない。
アイリ・カナンを死なせたのは、この王国そのもの。
そんな事を確か、ルチア・バルファドールが言っていた。
(アイリさん…………)
死せる人間の名前に、すがる。
出来る事が、今のシェルミーネには、他になかった。
「……手を、放せ。足を、どけろ」
声がした。
あまりにも弱々しい背中が、いつの間にか、シェルミーネの眼前にある。
「そして、この僕にまずは語れ。エルコック・ハウンス殿に、この世から消えてもらわなければならない理由をだ」
ゼイヴァーと向かい合う、だけで消し飛んでしまいそうな、弱々しい姿。佇まい。
それでもテスラー・ゴルディアックは、はっきりと言葉を発していた。
「人に言えぬ理由で、暴虐を働く……それは帝国貴族の恥である。許しはしないぞ、ゼイヴァー・ロウレル」




