第166話
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魔剣・残月とは、よく名付けたものだとヒューゼル・ネイオンは思う。
細身の刃の一閃が、空中に巨大な三日月を描き出していた。
夜闇を切り裂く、斬撃の弧形。
それが飛翔し、ゼイヴァー・ロウレルを猛襲する。
鈍色の全身甲冑に包まれた巨体が、その猛襲を正面から迎え撃つ。
両の豪腕が、人の背丈ほどに巨大な剣を軽々と一閃させる。
一閃した刃が、飛来した三日月を粉砕した。
光の破片が、髑髏の仮面の周囲でキラキラと消滅する。
眼窩の奥で、ゼイヴァーは光を燃やした。
「良い斬撃である……貴女を、か弱き令嬢と思う必要は無さそうだな」
「か弱い令嬢ですわ」
魔剣・残月を構え直し、シェルミーネ・グラークは言った。
「それでも、ね。貴方のような恐い殿方に、物を申し上げなければならない時がありますのよ」
「申されよ」
「アイリ・カナンを、愚民の小娘などと……呼んで許される者は、この世に私シェルミーネ・グラークただ一人ですわ。お心得違いを、なさいませんように」
「平民の娘に、思い入れを抱いてしまわれたか」
ゼイヴァーの巨体と、シェルミーネの細身が、月明かりの中で対峙している。
「げに恐るべきはアイリ・カナンよ。ヴィスガルド随一の武門貴族たる、グラーク家の令嬢を……完全に、籠絡してしまったようである」
「他人を籠絡など、出来る子ではありませんわ」
「周囲の人間が、勝手に籠絡されてしまう。現れるのだよ、そのような者が。ごく稀に」
少し離れた所で倒れたままヒューゼルは、その会話を聞いていた。
ゼイヴァーの斬撃を、かわせなかったのだ。
この程度の負傷で済んだのは、幸運であったと言える。
身体の捻りを僅かにでも誤っていたら、真っ二つに叩き斬られていたところだ。
「動かないで下さい、ヒューゼル殿」
ミリエラ・コルベムが、可憐な両手から癒しの光を降らせてくれている。
「傷は……浅くは、ないです。少し時間がかかります」
「……そうだな。割と深い傷だけど、身体の奥から塞がっていくのがわかるよ。ありがとう、ミリエラ嬢」
「びっくり、しました」
ミリエラは言った。
「ヒューゼル殿が……あんなに、怒るなんて。怒らない人だって私、勝手に思い込んでたみたいです」
「俺も、思ってたよ。何かに対して怒るような気力が、俺には根本から欠けているってね」
倒れ立ち上がれぬままヒューゼルは、ちらりと視線を動かした。
真っ二つに両断された屍が、近くに倒れている。
「怒って……頭に血が昇っただけじゃ、何も守れない。それを……思い出した、気がする」
「俺もなあ。頭に血が昇っただけじゃ、お前に勝てなかった」
両断された屍の傍らに、黒ずくめの長身が跪いている。
クロノドゥールだった。
「……そういうもんだぜ、アラム・ヴィスケーノ」
「本当に……はた迷惑な男だな、そのアラムって奴」
ヒューゼルは苦笑した。
この場においては、それ以上アラム・ヴィスケーノに拘泥する事なく、クロノドゥールは眼前の屍を見つめている。
そして呟く。
「まさか……オーレン殿だったとは、な」
「……何だ、知っていたのか」
「そこにいる化け物の兄上だよ。兄弟でバルフェノム様にお仕えしていたんだが、弟がコレだからな。ずっと劣等感に苛まれては、いたようだ」
弟がいる、という話を、オーレン・ロウレル兵長は確かにしていた。
複雑な感情を、弟に対し、抱いてはいたようだ。
思い返しながらヒューゼルは、睨み据えた。
クロノドゥールが化け物と呼んだ、仮面の大男を。
「貴族たる者……平民の個人に、過剰な思い入れを抱いてはならぬ」
髑髏の仮面から、声が漏れる。
「平民とは貴族にとって、管理と搾取の対象でしかない。それ以上のものに、なれる……などという夢や希望を、平民に抱かせてはならぬ」
「民に、希望を持たせてはならない……と、おっしゃいますのね。貴方も」
シェルミーネが言った。
「持たせようとしなくとも、勝手に持ってしまう平民はおりますわ」
「ならば奪う。私は、そうする」
軽々と、ゼイヴァーは巨大剣を振るい構えた。
「夢も、希望も、正義も、知恵も、自由も。何一つ、民に与えるべきではない。ろくな事に、ならぬのだよ」
「…………だから、奪われてしまった……とでも?」
シェルミーネの美貌から、表情が消えた。
「アイリ・カナンは……分不相応に、持ってしまったものを……奪われた、と。そう、おっしゃいますのね」
「何も奪われてはおらぬ。アイリ・カナン・ヴィスケーノ王太子妃殿下は今、王都ガルドラントにて……王太子アラム殿下と仲睦まじく、幸せに暮らしておられるではないか」
「……聞いたか、クロノドゥール殿」
ヒューゼルは、小声を発した。
「アラム・ヴィスケーノ王子は王都にいて、幸せに暮らしているらしいぞ。こんな所には、いないんだ」
クロノドゥールは、応えない。
黒覆面の下で、シェルミーネと同じく、一切の表情を消しているのがわかる。
ゼイヴァーは、なおも語る。
「危ういところであった、とは思うぞ。アイリ・カナンが、あのまま……強靭な心で祭典を勝ち抜いた、あの精神を維持したままであったなら。王宮に居ながら、高潔なる平民であり続けていたならば。王都の貴族たちの中からもシェルミーネ嬢、貴女の如く籠絡されてしまう者が続出したであろう。民衆にも、分に合わぬ希望や夢が植え付けられてしまう。危険である」
シェルミーネの、無言と無表情は変わらない。
ゼイヴァーの、言葉が続く。
「幸い、そうはならなかった。煌びやかなる王侯貴族の暮らしに染まり、アイリ・カナンは高潔なる平民ではなくなった。物欲と虚栄にまみれた、単なる王族の一個人に成り下がってくれた。あれならば……放置しておいて、危険は無い」
「……………………」
静かなる無言を、美しい無表情を、維持したまま。
シェルミーネは、何かを燃やしている。
ヒューゼルは、そう感じた。
「王太子妃に関する話は、そこまでで良かろう……シェルミーネ嬢、そこをどいてはくれぬか。私は、目的を果たさねばならぬ」
「エルコック殿の、お命か」
シェルミーネと会話を交代するかのように、クロノドゥールが言った。
「だがな、ゼイヴァー卿。俺たちは、商人エルコック・ハウンス殿を仕事として護衛している。あんたが目的を果たそうとするなら、俺をまず殺さなきゃならなくなるぞ」
そんな言葉で、このゼイヴァー・ロウレルという男は思いとどまらないだろう、とヒューゼルは思う。
それをわかっているはずのクロノドゥールが、なおも言う。
「俺たちはな。バルフェノム様が、この地を支配なさる時のために仕事をしている。それを、あんたが台無しにする……理由くらいは、説明してもらいたいもんだ」
ゼイヴァーは、何も言わない。
「間違いなく、バルフェノム様の御命令なんだろう? エルコック・ハウンスに死んでもらわないといけない理由が、かなり急に見つかったんだと思う。それをバルフェノム様は、あんたに伝えなかったのか? 理由も言わず、ただ殺してこいと?」
クロノドゥールの口調には、殺意に近いものが宿り始めている。
「バルフェノム様はな、説明はして下さる方だぞ。俺たちも散々、汚れ仕事をさせられてきたがな。その度に、この男に生きていられると困る、これこれこういう事情があると、そういう話をバルフェノム様はして下さった。だから俺も、納得して仕事をやれた。何だ、おい。俺みたいな下っ端を納得させる必要はないってか?」
「落ち着いて、クロノドゥール殿」
命を狙われている張本人が、堂々と進み出た。
「ゼイヴァー・ロウレル殿、でしたね。エルコック・ハウンスと申します。貴方ほどの豪傑に命を狙われるとは光栄の極み、しがない商人の死に様としては最上のものと言えましょう。そうならぬよう、こちらの面々が頑張ってくれてはいますが、何しろ貴方はお強いですからねえ」
「おい馬鹿、引っ込んでろ!」
クロノドゥールが慌て、獣人の剣士が無言で前に出る。
両名を制するように、エルコック・ハウンスは語る。
「命を狙われる理由など、心当たりがあり過ぎてもう何が何やらというのが正直なところ。私は商人として、そこそこは儲かっておりますからねえ。人様に知られたくない事、大いにやらかして参りましたとも。いやはやゼイヴァー卿、まさしく貴方のおっしゃる通り。民衆に希望や自由を与え、好き勝手を許したならば、私のような悪賢い人間ばかりが得をする世の中になってしまいます。だから貴様は生かしておけぬ、というお話では……しかし、なさそうですね。このエルコック・ハウンスが生きていては不都合である事情、やはり教えていただけませんか? 私の努力次第で、その不都合が解消出来るなら」
「……解消出来る程度の不都合なら。お命を狙われる事など、ありませんわ最初からっ」
言葉と共に、閃光が、疾風が、ゼイヴァーを急襲した。
シェルミーネの、踏み込みだった。
残月の切っ先が、閃光となってゼイヴァーの巨体を幾度も打ち据える。
鈍色の全身甲冑のあちこちで、火花が散った。
金属の粉塵が微量、舞い散った。
甲冑が、僅かずつ削り取られている。
一度の踏み込みで、巨大剣の間合いの内側へと達したシェルミーネによる、斬撃と刺突でだ。
「もはや言葉は無意味! この男から対話で情報を引き出す事など、不可能でしてよ!」
無表情の下で燃やし続けていたものを、シェルミーネは露わにしていた。
「戦って打ち負かし、喋らせる! 今や、その段階ですわ。さあ命乞いをなさいゼイヴァー・ロウレル! 私の質問に答えるなら助けて差し上げますわよ!」
残月の一閃が、ゼイヴァーの顔面を直撃する。
髑髏の仮面が、真っ二つに割れていた。




