第165話
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宰相ログレム・ゴルディアックが、特に違法な行為をしているわけでもない一介の商人エルコック・ハウンスの命を狙う理由。
それをクリスト・ラウディースは知らない。
ただ、命令に等しい依頼を受けただけである。
商人エルコック・ハウンスを、亡き者とするように、と。
それを成し遂げたならば、獄中にあるクルルグ及びリオネール・ガルファを釈放する、と。
理由など、訊いたところでログレム宰相が答えてくれるはずはなかった。
あの人物には、エルコック・ハウンスに死んでもらわねばならぬ事情があるのだ。
ならば、とクリストは思う。
自分以外の刺客を、宰相が派遣していたとしても、不思議はない。
それが、この男か。
鈍色の全身甲冑をまとう、巨漢。
首から上は、天に向かって大きく尖った兜、それに髑髏の仮面である。
虚仮威し、ではない。
この男は今、クリスト含む戦闘者三名を単身で圧倒した黒き甲冑剣士を、一撃で倒したのだ。
棺の如き鞘から現れた、巨大な剣。
その一閃で、甲冑剣士を頭蓋から両断したのである。
そして、巨漢は確かに言った。
商人エルコック・ハウンス、そなたには死んでもらう……と。
髑髏の仮面に遮られる事なく発せられた声が、聞く者の心胆をずしりと威圧した。
脅し、ではない。
それがクリストには、確信出来た。
この大男は、エルコックを殺害するために現れたのだ。
(つまり……私は役立たず、という事か……)
自嘲の笑みを、クリストは浮かべた。
宰相より賜った資金で、複数の強盗団を雇い、陽動に用いた。
そこまでしても、標的たる商人を未だ仕留められずにいる無能な刺客。
それが自分クリスト・ラウディースだ。
ログレム宰相とて、任せきりには出来ないであろう。
だから、複数の刺客を放つ。
それほどまでに命を狙われるエルコック・ハウンスとは、一体いかなる商人であるのか。
「動けるように、なったのだな」
声を、かけられた。
「ならば逃げろ、クリスト・ラウディース。悪い事は言わぬ」
「レニング卿……生きて、おられたのですね。まだ」
「そなたと違って武の心得は無いが、悪運は強い方でな」
甲冑剣士の猛撃に巻き込まれて落命、していても不思議ではなかったレニング・エルナード元伯爵が、声を潜める。
「……あの仮面の大男は、名をゼイヴァー・ロウレルという。私やそなたと同じく旧帝国貴族で、今はバルフェノム・ゴルディアック侯爵に仕えているはずだ」
「それは……つまり、バルフェノム侯爵が」
エルコック・ハウンスを、亡き者にせんとしている。
宰相ログレムのみならず、その従兄弟で、地方における旧帝国系貴族の要とも言うべき、バルフェノム・ゴルディアック侯爵も。
長老ゼビエル亡き今、ゴルディアック家そのもの、いや旧帝国系貴族そのものと言っても良い二人の大貴族に、命を狙われている商人。
レニングが、思わずといった感じに問いかける。
「一体……何を、したのだ貴殿は?」
「一体、何をしたのでしょうね私は」
まるで他人事のように、商人エルコック・ハウンスは笑っている。
「身に覚えがない。まあ誰かに恨まれる時というのは得てして、そういうもの……というわけで皆様。護衛を続行して下さるならば、追加料金をお支払い致しますよ?」
「無駄な事は、やめておけ。人死にが増えるだけだ」
ゼイヴァー・ロウレルが言った。
この場にいる、エルコック以外の者全員に対してだ。
「商人エルコック・ハウンスは今日ここで死ぬ。その運命は変わらぬ、覆らぬ」
巨大な剣を右手で休ませたまま、ゼイヴァーは左手を掲げた。
何かを、バシッ! と掴んだ。
まるで、うるさく飛び回る羽虫か何かを握り捕えるかのように。
矢、であった。
飛来した一本の矢を、ゼイヴァーは左手で掴み止めていた。
「それ以外の者が、生きられるか否かは……選択、次第である。選択を、誤ってはならぬ」
「お前は……選択を間違えたな、ゼイヴァー・ロウレル。俺の前で、してはいけない事をした」
矢を放ち終えた長弓を、その青年は、斬撃の形に構えている。
両端に刃を備えた、長弓。
「オーレン兵長の……弟か、お前は。化け物じみた弟がいるって話、聞いてはいたよ。いやはや、聞いた以上の化け物だな」
「兄と……親しく会話をする程度には、友誼を結んでいてくれたのか」
左手でゼイヴァーは、掴んだ矢を握り折った。
「感謝する。貴公を死なせたくはない、立ち去れ」
「兄弟の間、立ち入るべきじゃないんだろうな。俺なんかが、本当は……ッ!」
秀麗な顔に、憤怒の思いが漲った。
「それでも、俺は! 貴様を許さない!」
青年は踏み込み、刃ある長弓を猛回転させた。
回転する斬撃が、ゼイヴァーを襲う。
速い。
自分であれば首を刎ねられているだろう、とクリストは思う。
それほどの斬撃が、しかし叩き斬られた。
小柄な人間の背丈ほどもある剣を、ゼイヴァーは軽々と一閃させていた。
長弓は真っ二つに切断され、青年の身体からは鮮血がしぶいた。
浅い。絶命に至る傷、ではない。
だが青年は倒れ、動かなくなった。
「ほう……両断する、はずであったのだがな」
巨大な剣をゆらりと構え直しながら、ゼイヴァーは興味深げにしている。
「身体が、とっさに致命傷を避けてしまうか。見事な動きである。心して、狙いを定めねばなるまい」
倒れた青年に、しっかりと狙いを定めて大剣を振り下ろす……事が、ゼイヴァーは出来ずにいた。
二人、眼前に入り込んで来たからだ。
一人は、黒装束の長身で青年を庇い、ゼイヴァーと睨み合っている。
「説明を……してもらいたいんだがな、ゼイヴァー卿」
クロノドゥールであった。
「俺たちの仕事が、あまり上手くいっていないのは認めよう。だがな、あんたに邪魔をされる筋合いはないぞ」
「お前たちの仕事とは、商人エルコックの護衛をする事か」
ゼイヴァーが言った。
髑髏の仮面から溢れ出す眼光が、クロノドゥールを迂回し、倒れた青年へと向けられる。
その負傷した肉体の傍らに、もう一人はいた。
可憐な両手を握り合わせて祈りを捧げ、癒しの力を降らせている。
アドラン地方、帝国陵墓にてクリストが出会った、小さな少女。幼い聖女。
ミリエラ・コルベムであった。
負傷した青年、癒す聖女。
両名を背後に庇い、クロノドゥールはなおも言う。
「エルコック・ハウンスは、この辺りでも特に大きな力を持った商人だ。いい関係を保っておけば……バルフェノム様が王国南部を支配なさる時、大いに役立つ。あんたが、それを台無しにして、どうするんだよ」
「バルフェノム侯爵閣下による支配の下地を、作り上げておく。それが、お前たちの任務であったな。重々承知している」
迂回させた眼光を、ゼイヴァーはクロノドゥールに戻した。
「だがクロノドゥールよ。私には貴様が今、エルコックではなく、そやつを守っているように見えるが」
「……アラム・ヴィスケーノは、俺が殺す。あんたに譲るわけにはいかん」
クリストは、耳を疑った。
何だ。
クロノドゥールは今、誰の名を口にしたのだ。
いや、そんな事よりも。
「……ご主人。逃げる覚悟、決められるか?」
獣人の剣士ウージェンが、エルコックの前に出て抜刀の構えを取る。
「我ら、隊商、顧客、何もかも捨てて逃げる……ご主人、一人、怯えながら生きる。その覚悟」
「持てるわけがないだろう、そんなもの」
考える事もなく、エルコックは答えた。
「そんな事をしたら、私は商人としては死んだも同然だ。私が生き残る道、それはこの場で君たちに、ゼイヴァー・ロウレル殿を退けてもらう。ただそれのみさ。しっかり頼むよ」
ウージェンは、微かに苦笑したようである。
そうしながら、いつでもゼイヴァーに斬りかかる事の出来る姿勢を崩さない。
ウージェンは今、ゼイヴァー・ロウレルという危険極まる襲撃者一名のみに、意識を集中させている。
(ここにも一人……襲撃者が、いると言うのに……)
クリストは、連結棍を握り込んだ。
エルコック・ハウンスを殺害するのは、自分でなければならない。
そうでなければ、ログレム宰相は、クルルグとリオネールを釈放してはくれない。
エルコックに向かって踏み込もうとした、クリストの首筋に、その時。
細身の刃が、ぴたりと当てられた。
「お久しぶり、ですわね? クリスト・ラウディース元司祭」
光そのもので出来たかのように目映い、細身の長剣。
その煌めく刃で、彼女はいつでもクリストの首を斬り落とす事が出来るだろう。
「シェルミーネ嬢……よもや、このような場所で」
「事情は、お話しいただかなくとも結構。大体わかりますわ」
シェルミーネ・グラークは、微かに溜め息をついた。
「か弱い令嬢である私では、とても出来ないような汚れお仕事を……宰相閣下より、賜ったのでしょう? 獄中のお仲間を、助けるために」
「……貴女には、関わりなき事」
「関わり、大いにありますわよ? 貴方がたを獄中に放り込むお手伝いを私いたしましたもの。そのせいで貴方は、こちらの商人殿を亡き者にせんという……人殺しのお仕事を」
シェルミーネが、エルコックに視線を向ける。
「どこかで、お見かけした事がある……そう思っておりましたよ、お美しい方」
エルコックが、嬉しそうにしている。
「やはり、シェルミーネ・グラーク嬢! 花嫁選びの祭典、愉しませていただきましたよ悪役令嬢殿。私、エルコック・ハウンスと申します」
「シェルミーネ・グラーク、ですわ……はて。私も貴方を、どこかでお見かけしたような」
初対面の商人を、シェルミーネはまじまじと見つめた。
「お会いするのは初めて、なれど。エルコック殿と、よく似ていらっしゃる御方。私、どこかで……まあ、そのような事はともかく」
シェルミーネは一度、咳払いをした。
そして、細身の長剣をゼイヴァーに向ける。
「バルフェノム・ゴルディアック侯爵閣下が、様々に暗躍をなさっている……結局のところ全ては、そこに行き着くような気がいたしますわ。その辺り、お話を聞かせていただきますわよゼイヴァー・ロウレル卿」
「悪役令嬢……シェルミーネ・グラーク」
ゼイヴァーは言った。
「花嫁選びの祭典……私も、見ていた」
「お楽しみいただけたなら、幸いですわ」
「最高の、催し物であった」
髑髏の仮面の下で、ゼイヴァーは微かに、だが確かに、笑っていた。
「シェルミーネ嬢。貴女が、愚民の小娘をいたぶり虐げる様……私は、大いに元気付けられた。貴族たる者かくあるべしと、心の底から私は思ったぞ」




