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疾風怒濤の悪役令嬢  作者: 小湊拓也


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162/196

第162話

 ヒューゼル・ネイオンという思い付きの名前は、実は案外、本名なのではないかと思う。


 記憶は無くとも、自身を識別する記号は必要である。

 目覚めた際に思い浮かんだ、その名前を、だから今は使っている。


 ごく自然に思い浮かんだ、という事は。

 それは自分の意識に、記憶よりも深い所に、強く強く刻み込まれた名前である、という事だ。


 本名である、としか思えない。

 自分は、記憶を失う前からヒューゼル・ネイオンであって、アラム・エアリス・ヴィスケーノではない。


 思いつつヒューゼルは、身を翻した。

 全身で、武器を振るった。


 両端に刃の付いた、長弓。

 その左右二つの刃が、立て続けに一閃する。


 黒き甲冑剣士の体表面が、血飛沫の如く火花を散らせた。

 暗黒色の全身鎧が、僅かに揺らぐ。よろめく。


 無傷、に等しいであろう。

 甲冑の隙間を狙わせてくれるような、生易しい相手ではない。


 よろめき、踏みとどまった甲冑剣士が、長剣を振り下ろして来る。

 一歩、ヒューゼルは横に跳び、その斬撃をかわした。


 空振りをした刃から、光が溢れ出す。

 魔力の光。純粋な、破壊力の塊。


 それが自分の斜め後方で地面を粉砕し、大量の土を蹴散らしている間。

 ヒューゼルは、長弓に矢をつがえていた。

 至近距離から、甲冑剣士に狙いを定めていた。

 つがえた矢に、気力を集中させてゆく。


 左右両端に刃の付いた、長弓。

 こんな奇怪な武器を、自分はいつから持っているのか。どこで、どのように入手したのか。


 ヒューゼルは、全く覚えていない。

 目が覚めた時。川辺で、この弓を握り締めたまま倒れている自分に気付いたのだ。


 何となく、身体で思い出せるものはある。

 自分は、この奇怪な武器の扱いに慣れている。習熟している。

 斬撃と射撃、両方の訓練を積んだ。積まされてきた。


 白兵戦から、弓射への移行。その逆。

 身体に叩き込まれた動きである。

 とてつもなく厳格な、一人の師匠によって。


(あんたには……殺されかけたなぁ、シグルム・ライアット侯爵閣下……)

 心の中で語りかけながら、弦を手放す。

 引き伸ばされていた弓が、凄まじい音を立てる。


 甲冑剣士の黒い全身が、激しく揺らいだ。

 ほぼ零距離から撃ち込まれた矢が、胸甲に突き刺さっている。


 浅い。

 鎧を貫通した鏃が、内部の肉体に、果たして届いているものか。

 届いたとしても、胸板を僅かに抉った程度であろう。致命傷には程遠い。


 それでも。甲冑剣士は、驚愕を露わにしていた。

「この鎧を……弓矢で、撃ち抜く者がいるとは……な」


 ヒューゼルは、聞いてはいなかった。

 今。自分は、心の中で一体、誰に話しかけたのか。


「シグルム・ライアット……侯爵閣下……?」


 突然、思い浮かんだ人名である。

 記憶を無くした自分が最初、川辺で目覚めてヒューゼル・ネイオンという名を思いついた、あの時のようにだ。


(…………そうだ、シグルム侯。俺は、あんたに……死ぬほど、鍛えられて……)


「そなた」

 甲冑剣士が、胸板から矢を引き抜きながら言った。

 面頬の奥から、燃え盛る真紅の眼光が向けられる。

「……よもや、とは思ったが……このような場所で、生き延びていたのだな」


「さっきも言ったぞ、黙ってくれ」

 ヒューゼルは、睨み返した。


「あんたはアレか、記憶を無くす前の俺を知ってるのか。今じゃなかったら話を聞いてやってもいい……今は駄目だ、黙っていてくれ。俺はな、オーレン兵長と話をしなきゃいけないんだよ」


「オーレン・ロウレルは、もはや生きてはおらぬ」


 オーレンが言っている、のではない。

 この黒い甲冑が言葉を発しているのだ、とヒューゼルは思った。


「我が愛弟子イルベリオ・テッド及びドーラ・ファントマの遺産たる、この鎧に身を包んだ時点で……こやつの生命は、失われておる。屍がな、この鎧によって、人ならざるものと化したのだよ。死せる者の復活、その一つの形と言えようか」

「オーレン兵長、とっとと起きろ」


「……もっと完全なる形で、復活を遂げさせてやりたいとは思わぬか」

 黒い全身甲冑が、世迷い言を吐き続けた。

「それには、フェアリエ・ゴルディアックの……否。ギルファラル・ゴルディアックの力が、必要となるのだ」


「……その喋る鎧。叩き割る必要が、ありそうだなっ」

 刃ある長弓を、ヒューゼルは両手で回転させた。

 唸りを立てる、斬撃の猛回転が、甲冑剣士の黒い体表面を打ち据える。


 オーレン・ロウレル兵長を内包した暗黒の鎧が、火花を散らせ、よろめいた。


 その間ヒューゼルは、長弓に矢をつがえ、引いた。


 よろめく甲冑剣士の周囲に、いくつもの太陽が生じて浮かんだ。そう見えた。

 小さな太陽のような、火球だった。

 それらが一斉に放たれ、飛翔し、押し寄せて来る。


 気力で、防御をするべきか。

 一瞬だけヒューゼルは、そう思った。


 その時にはしかし、防御に用いるべきであったかも知れない気力が、一本の矢に注ぎ込まれていた。

 弦を手放し、その矢を射出していた。


 ヒューゼルを襲う火球の群れと、甲冑剣士に向かう一本の矢が、擦れ違う。


 直後。

 小さな太陽が、ヒューゼルの眼前で、全て砕け散った。


 巨大な光の盾が、そこに出現していた。


 それは出現と同時に、火球群の直撃を受け、相殺の形でもろともに爆散した。


 火の粉が、光の破片が、無数。熱風に乗って渦を巻く。

 その熱風の渦の向こうに、甲冑剣士は佇んでいる。


 右手に長剣。左手には、一本の矢を握っていた。

 ヒューゼルの気力を宿した矢は、掴み止められていた。


「……来たのか。ここへ、そなたまでもが」

 言いつつ甲冑剣士は、矢を握り折った。


「久しいな。アイリ・カナンの仇は、見つかったのかね? 見つけたところで、復讐をし遂げたところで……死せる者は、帰っては来ない。復讐など、虚しいとは思わぬか」


「虚しいですわ、とても」

 たおやかで、しかし強靭さを感じさせる、優美な姿が一つ。

 月明かりの中、軽やかに歩み寄って来る。

「復讐。何と、お馬鹿で虚しい行為……」


 馬の尾の形に束ねられた金髪が月光を受け、ヒューゼルの目に眩しかった。


 もっと、眩しいものがある。

 それをシェルミーネ・グラークは、右手で構え、揺らめかせた。


「ですが……死んだ人を、生き返らせる。そのような事に心血を注ぐよりはね、遥かにましですわ」


 幻影の如く揺らめく、細身の刀身。

 残月、と名付けられた魔剣である。


「随分と、様変わりをなさいましたのね。ジュラード殿」

「死せる者が、生き返らない…….そのような世界はな、様変わりを遂げねばならんのだよ。死んだ人間が生き返ってくれたならば、誰も復讐などという無意味な行動を取らずに済む。この世から、憎しみの大半が消えて無くなるのだぞ」


 その世迷い言を聞いてシェルミーネは一度、小さく溜め息をついたようだ。

「ルチア・バルファドールの配下に、今の貴方と同じような剣士殿がいらっしゃいましたわ。いえ、貴方は……あの方の、なり損ないのようなもの。ですわね」


「否定はせぬ。怪物を作り上げる技量において、私はイルベリオ・テッドには及ばぬからな」

「……死んだ人を、生き返らせる。それは、怪物を作り上げる事にしかなりませんのよ」


「屍を蘇らせる方向ではな。確かに、そのようにしかならぬ。人の屍は、いくら手を加えたところで、生前の肉体には戻らず……戻そうとすればするほど、死せる人体が異形のものへと作り変えられてゆく。結果、生前とは程遠い、異形の怪物が出来上がってしまう。だからギルファラル・ゴルディアックは、屍を蘇らせる方向に見切りをつけた」


 ヒューゼルは、頭を押さえた。


 喋っているのは、オーレンではない。

 彼を包み捕える、この暗黒色の全身鎧である。

 闇そのものを鍛造したかのような甲冑が、おぞましい声を発しているのだ。


 おぞましい、この声を、自分は聞いた事がある。


 失われたはずの記憶の奥底で、この声を発する何者かが、喋っている。


 屍を生き返らせる手段を、ギルファラル・ゴルディアックは様々に模索し、探究した。

 その試行錯誤から生まれたのが、人体を作り変える秘法である。

 これを用いて、この男を作り変える。


(俺は……こいつを、知っている……?)


 記憶の中の光景に向かって、ヒューゼルは目を凝らした。

 何かが、見えた。


 人間が一人、横たわっている。

 どうやら、若い男だ。

 作り変えられようとしているのは、この青年である。


 横たわる彼を見下ろしながら、おぞましい声を発する何者かは言った。


 こやつの生死は、定かにならぬ。

 いや。死ぬ、と見てよかろう。

 そして生まれ直すのだ。

 アラム・エアリス・ヴィスケーノとして、な。

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