第162話
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ヒューゼル・ネイオンという思い付きの名前は、実は案外、本名なのではないかと思う。
記憶は無くとも、自身を識別する記号は必要である。
目覚めた際に思い浮かんだ、その名前を、だから今は使っている。
ごく自然に思い浮かんだ、という事は。
それは自分の意識に、記憶よりも深い所に、強く強く刻み込まれた名前である、という事だ。
本名である、としか思えない。
自分は、記憶を失う前からヒューゼル・ネイオンであって、アラム・エアリス・ヴィスケーノではない。
思いつつヒューゼルは、身を翻した。
全身で、武器を振るった。
両端に刃の付いた、長弓。
その左右二つの刃が、立て続けに一閃する。
黒き甲冑剣士の体表面が、血飛沫の如く火花を散らせた。
暗黒色の全身鎧が、僅かに揺らぐ。よろめく。
無傷、に等しいであろう。
甲冑の隙間を狙わせてくれるような、生易しい相手ではない。
よろめき、踏みとどまった甲冑剣士が、長剣を振り下ろして来る。
一歩、ヒューゼルは横に跳び、その斬撃をかわした。
空振りをした刃から、光が溢れ出す。
魔力の光。純粋な、破壊力の塊。
それが自分の斜め後方で地面を粉砕し、大量の土を蹴散らしている間。
ヒューゼルは、長弓に矢をつがえていた。
至近距離から、甲冑剣士に狙いを定めていた。
つがえた矢に、気力を集中させてゆく。
左右両端に刃の付いた、長弓。
こんな奇怪な武器を、自分はいつから持っているのか。どこで、どのように入手したのか。
ヒューゼルは、全く覚えていない。
目が覚めた時。川辺で、この弓を握り締めたまま倒れている自分に気付いたのだ。
何となく、身体で思い出せるものはある。
自分は、この奇怪な武器の扱いに慣れている。習熟している。
斬撃と射撃、両方の訓練を積んだ。積まされてきた。
白兵戦から、弓射への移行。その逆。
身体に叩き込まれた動きである。
とてつもなく厳格な、一人の師匠によって。
(あんたには……殺されかけたなぁ、シグルム・ライアット侯爵閣下……)
心の中で語りかけながら、弦を手放す。
引き伸ばされていた弓が、凄まじい音を立てる。
甲冑剣士の黒い全身が、激しく揺らいだ。
ほぼ零距離から撃ち込まれた矢が、胸甲に突き刺さっている。
浅い。
鎧を貫通した鏃が、内部の肉体に、果たして届いているものか。
届いたとしても、胸板を僅かに抉った程度であろう。致命傷には程遠い。
それでも。甲冑剣士は、驚愕を露わにしていた。
「この鎧を……弓矢で、撃ち抜く者がいるとは……な」
ヒューゼルは、聞いてはいなかった。
今。自分は、心の中で一体、誰に話しかけたのか。
「シグルム・ライアット……侯爵閣下……?」
突然、思い浮かんだ人名である。
記憶を無くした自分が最初、川辺で目覚めてヒューゼル・ネイオンという名を思いついた、あの時のようにだ。
(…………そうだ、シグルム侯。俺は、あんたに……死ぬほど、鍛えられて……)
「そなた」
甲冑剣士が、胸板から矢を引き抜きながら言った。
面頬の奥から、燃え盛る真紅の眼光が向けられる。
「……よもや、とは思ったが……このような場所で、生き延びていたのだな」
「さっきも言ったぞ、黙ってくれ」
ヒューゼルは、睨み返した。
「あんたはアレか、記憶を無くす前の俺を知ってるのか。今じゃなかったら話を聞いてやってもいい……今は駄目だ、黙っていてくれ。俺はな、オーレン兵長と話をしなきゃいけないんだよ」
「オーレン・ロウレルは、もはや生きてはおらぬ」
オーレンが言っている、のではない。
この黒い甲冑が言葉を発しているのだ、とヒューゼルは思った。
「我が愛弟子イルベリオ・テッド及びドーラ・ファントマの遺産たる、この鎧に身を包んだ時点で……こやつの生命は、失われておる。屍がな、この鎧によって、人ならざるものと化したのだよ。死せる者の復活、その一つの形と言えようか」
「オーレン兵長、とっとと起きろ」
「……もっと完全なる形で、復活を遂げさせてやりたいとは思わぬか」
黒い全身甲冑が、世迷い言を吐き続けた。
「それには、フェアリエ・ゴルディアックの……否。ギルファラル・ゴルディアックの力が、必要となるのだ」
「……その喋る鎧。叩き割る必要が、ありそうだなっ」
刃ある長弓を、ヒューゼルは両手で回転させた。
唸りを立てる、斬撃の猛回転が、甲冑剣士の黒い体表面を打ち据える。
オーレン・ロウレル兵長を内包した暗黒の鎧が、火花を散らせ、よろめいた。
その間ヒューゼルは、長弓に矢をつがえ、引いた。
よろめく甲冑剣士の周囲に、いくつもの太陽が生じて浮かんだ。そう見えた。
小さな太陽のような、火球だった。
それらが一斉に放たれ、飛翔し、押し寄せて来る。
気力で、防御をするべきか。
一瞬だけヒューゼルは、そう思った。
その時にはしかし、防御に用いるべきであったかも知れない気力が、一本の矢に注ぎ込まれていた。
弦を手放し、その矢を射出していた。
ヒューゼルを襲う火球の群れと、甲冑剣士に向かう一本の矢が、擦れ違う。
直後。
小さな太陽が、ヒューゼルの眼前で、全て砕け散った。
巨大な光の盾が、そこに出現していた。
それは出現と同時に、火球群の直撃を受け、相殺の形でもろともに爆散した。
火の粉が、光の破片が、無数。熱風に乗って渦を巻く。
その熱風の渦の向こうに、甲冑剣士は佇んでいる。
右手に長剣。左手には、一本の矢を握っていた。
ヒューゼルの気力を宿した矢は、掴み止められていた。
「……来たのか。ここへ、そなたまでもが」
言いつつ甲冑剣士は、矢を握り折った。
「久しいな。アイリ・カナンの仇は、見つかったのかね? 見つけたところで、復讐をし遂げたところで……死せる者は、帰っては来ない。復讐など、虚しいとは思わぬか」
「虚しいですわ、とても」
たおやかで、しかし強靭さを感じさせる、優美な姿が一つ。
月明かりの中、軽やかに歩み寄って来る。
「復讐。何と、お馬鹿で虚しい行為……」
馬の尾の形に束ねられた金髪が月光を受け、ヒューゼルの目に眩しかった。
もっと、眩しいものがある。
それをシェルミーネ・グラークは、右手で構え、揺らめかせた。
「ですが……死んだ人を、生き返らせる。そのような事に心血を注ぐよりはね、遥かにましですわ」
幻影の如く揺らめく、細身の刀身。
残月、と名付けられた魔剣である。
「随分と、様変わりをなさいましたのね。ジュラード殿」
「死せる者が、生き返らない…….そのような世界はな、様変わりを遂げねばならんのだよ。死んだ人間が生き返ってくれたならば、誰も復讐などという無意味な行動を取らずに済む。この世から、憎しみの大半が消えて無くなるのだぞ」
その世迷い言を聞いてシェルミーネは一度、小さく溜め息をついたようだ。
「ルチア・バルファドールの配下に、今の貴方と同じような剣士殿がいらっしゃいましたわ。いえ、貴方は……あの方の、なり損ないのようなもの。ですわね」
「否定はせぬ。怪物を作り上げる技量において、私はイルベリオ・テッドには及ばぬからな」
「……死んだ人を、生き返らせる。それは、怪物を作り上げる事にしかなりませんのよ」
「屍を蘇らせる方向ではな。確かに、そのようにしかならぬ。人の屍は、いくら手を加えたところで、生前の肉体には戻らず……戻そうとすればするほど、死せる人体が異形のものへと作り変えられてゆく。結果、生前とは程遠い、異形の怪物が出来上がってしまう。だからギルファラル・ゴルディアックは、屍を蘇らせる方向に見切りをつけた」
ヒューゼルは、頭を押さえた。
喋っているのは、オーレンではない。
彼を包み捕える、この暗黒色の全身鎧である。
闇そのものを鍛造したかのような甲冑が、おぞましい声を発しているのだ。
おぞましい、この声を、自分は聞いた事がある。
失われたはずの記憶の奥底で、この声を発する何者かが、喋っている。
屍を生き返らせる手段を、ギルファラル・ゴルディアックは様々に模索し、探究した。
その試行錯誤から生まれたのが、人体を作り変える秘法である。
これを用いて、この男を作り変える。
(俺は……こいつを、知っている……?)
記憶の中の光景に向かって、ヒューゼルは目を凝らした。
何かが、見えた。
人間が一人、横たわっている。
どうやら、若い男だ。
作り変えられようとしているのは、この青年である。
横たわる彼を見下ろしながら、おぞましい声を発する何者かは言った。
こやつの生死は、定かにならぬ。
いや。死ぬ、と見てよかろう。
そして生まれ直すのだ。
アラム・エアリス・ヴィスケーノとして、な。




