第159話
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「お会いに、なるのですか?」
どっしりと、重みのある声だった。
筋骨隆々たる巨体は、着用している簡素な法衣を、煌びやかな大司教の装束にも勝るほど厳かに見せている。
この肉体から発せられる声は、聞く者の心胆をずしりと威圧するのだ。
「怨み憎む相手と対面する、その苦に耐えよと唯一神はおっしゃいます。とは言え出来る事、出来ぬ事はありましょう。無理はならぬ、とも唯一神はおっしゃいました」
「奇妙なお話ですね、ゴステルノ司祭」
クリスト・ラウディースは、微笑んで見せた。
「常日頃、私を鍛えて下さる貴方が……その度に死にかける私を、容赦なく叩き起こし、叩きのめして下さるゴステルノ・エルディン司祭が。無理はならぬ、などと」
「それは無理ではないからですよ、クリスト・ラウディース」
司祭ゴステルノ・エルディンは、岩の如く厳めしい真顔のままである。
「私の押し付ける修行・修練ごときで、貴方は死にはしません。私には、わかるのです」
「死ぬならば死ね、この教会の墓地に埋葬してやる……という、貴方の心の声がね。私には幾度も聞こえましたよ」
ヴィスガルド王国。
とある山深い地に、ひっそりと建つ地方教会。
それなりの家格ではあるらしい旧帝国系貴族ラウディース家の御曹司が、惨めな家出の果てにここへ辿り着き、拾われたのが、およそ二年前である。
脆弱な御曹司は、教会の司祭ゴステルノによって鍛え上げられ、いくらかは強靭になったのだろうか。
「それはともかく。私に用のある客人なのでしょう? 会いますよ。このような山深くまで、足を運んでくれたのですからね」
「……わかりました。お客人を、通しましょう」
ゴステルノが言った。
その傍らに控える、一人の侍祭が、にゃー……と心配そうな声を発する。
和毛の豊かな身体に法衣を巻き付けた、獣人の少年である。
その力強い肩を、クリストは軽く叩いた。
「大丈夫ですよ、クルルグ君。私にとってラウディース家は、もはや遠い存在です」
心乱される事など、ない。
クリストは、そう思う。そのつもりでいる。
顔を見た瞬間しかし、自分の心に何が去来するものか。
それは、その時にならなければ、わからないのだ。
質素そのものの地方教会にあって、一応は来客用に整えられた部屋が一つある。
客人は、そこに通されていた。
粗末な長椅子に、いくらか苛立たしげに座り込んだまま立ち上がりもせず、その少女は言葉を投げてくる。
「誰よ、貴方。私はね、ラウディース家の御曹司に会いに来たのよ? みすぼらしい下級聖職者に用はないわ。クリスト・ラウディースを早急に呼んできなさい」
横柄な態度であっても、美しい。
それは認めるしかないままクリストは、恭しく一礼した。
「ようこそ、おいで下さいました。ラウディース家の御令嬢様」
令嬢の護衛なのであろう、武装した兵士が二人、長椅子の後ろに控えている。
他にも大勢の兵士や従者を、外に待たせてあるのだろう。
このような山奥まで、輿を担がせて来たのだろう。
大勢の人間を酷使しながら、とは言え。
深窓の令嬢たる身でありながら、ここまで来た。
それだけは、認めるべきか。
思いつつ、クリストは言った。
「ラウディース家の無能脆弱なる御曹司クリスト・ラウディースは、死にました。今ここにいるのは、みすぼらしい下級聖職者でございます。用はない、と仰せであれば立ち去りましょう。死せる御曹司を、ここでいつまでもお待ち下さいませ。それでは」
本当に部屋を出て行くつもりで、クリストはもう一度、頭を下げた。
激怒するだろう、と思われた少女が、溜め息まじりの声を発する。
「……いや待って。待ちなさいよ、お兄様」
「幾度でも申し上げます。貴女の兄は、死にました」
「そういう事を、しないで……わかった、私が悪かったわよ」
「ほう……意外なお言葉を、聞くものです」
クリストは、長椅子に腰を下ろした。
質素な卓を挟んで、妹と向かい合う形になった。
「貴女が、よもや……ご自分の非を、お認めになるとは。天変地異など起こらなければ良いのですが」
「妥協してあげているだけよ。あまり調子に乗らないようにね? お兄様」
リアンナ・ラウディースが、にこりと美貌を歪める。
「本当に……下級の聖職者にしか、見えないわ。頭まで綺麗に剃ってしまって。みすぼらしい格好、様になっているじゃないの」
「……髪を剃り落とした程度では、お前たちとは縁が切れないと見える。難儀な話さ」
「言うようになったわねえ。私の目の前で、泣きながらお漏らしをしていたお兄様が」
「そんな自分が嫌になったから、私はラウディース家を出た」
「戻っていらっしゃい」
リアンナは、真顔になった。
「お父様も、お母様も……今なら、貴方に優しく接して下さるわ」
「あの方々はな。お前の気分ひとつで、私に優しくもする。私を、汚物のように扱いもする。お前の思うようにしかならない。お前がいなければ、何も出来ない」
複数の他人を動かし、一人の人間を攻撃する。
それに関して、この妹は天性の才を持っていた。
「……お前がいれば、ラウディース家は安泰という事だ。私など必要ないだろう」
「そう思っていたわ、私も」
リアンナの口調は、冷静である。
「役立たずの弱虫は放っておいて、私がラウディース家の当主に……と、思っていたけれど」
「女性の当主が、いないわけではない。前例は、いくらでもある」
「特例よ、そんなものは。貴族の当主はね、やっぱり……どんなに役立たずの無能であっても、単なる飾り物であっても、男であった方が都合が良いの。女では色々とね。ただ、女にしか出来ない事も確かにある。私がラウディース家に、さらなる栄華をもたらして見せる。私に出来る、やり方で」
リアンナの冷たい瞳が、燃え上がった。
野望の、炎だった。
「花嫁選びの祭典。私、出場するわ」
「…………私がアラム・ヴィスケーノ王子であったら、お前だけは絶対に選ばない」
「選ばせて見せる。私は優勝して、ラウディース家は王家との血縁を獲得する。ゴルディアック家よりも上に立つ」
長椅子から、しとやかにリアンナは立ち上がった。
見とれてしまうほどに優雅な挙措、ではある。
それも認めなければならない、とクリストは思う。
この妹は、美しいのだ。
「そんなラウディース家の、貴方は当主になれるのよ、お兄様。飾り物の当主だからこそ、贅沢三昧の暮らしが出来る。私が、そうさせてあげる。考え直しておきなさいな、クリスト・ラウディース」
美しい笑顔が、振り向いてくる。
「次に私がここへ来るのは……王子様の、お妃としてよ」
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二年以上も前の、話である。
あれがラウディース家の兄妹、最後の会話となった。
今生の別れと、なってしまった。
王子妃として兄を迎えに来る、事もなくリアンナ・ラウディースは死んだのだ。
「愚かな妹よ……いや、私が言えた事ではないか。ラウディース家の兄妹は、まったく……救いがない……」
クリストは、苦笑をして見せた。
「このような状況だと言うのに、つい昔話をしてしまいました。貴方がね、言葉巧みに私から情報を引き出そうとするからですよ? レニング・エルナード卿……相変わらずの、話術の冴え。お見事です」
「……私には貴公のような、身体を鍛えて強くなる根性がない。口の上手さで、世渡りをしてゆくしかないのだ」
レニング・エルナード元伯爵が、言った。
「今のところ、引き出せた情報は……ラウディース家の若君が、家出をして悪の道に入り込んだというもの。それのみだ」
「ほう……私が、悪の道に?」
「これを善の道とは言うまい、少なくとも」
確かに善の産物とは言えぬ光景を、レニングが視線で示す。
強盗の群れが、片っ端から殺戮されてゆく光景。
殺戮を行っているのは、見える範囲内では一人だけである。
商人エルコック・ハウンスの側近とおぼしき、獣人の剣士。
短めの両脚で俊敏に跳躍し、長い両腕で片刃の長剣を操作する。
さほど大柄ではない全身が繰り出す、縦横無尽の斬撃が、天幕の周囲で嵐となり吹き荒れる。
標的エルコック・ハウンスの隠れ潜む天幕。
そこへ近付こうとする強盗たちが、斬撃の嵐に触れて生首を飛ばす。鮮血や脳漿を、噴出させる。
宰相ログレム・ゴルディアック侯爵より賜った資金で、複数の強盗団を雇い集めた。
明日のない無法者たちに命を懸けさせるには、充分な金額。とは言え、宰相にして見れば端金である。
強盗たちは、それに見合う仕事をしてくれていた。
身体を張って、手強い護衛と戦ってくれているのだ。
この間クリストが天幕に押し入り、標的エルコックを仕留めるべきであった。
それが出来ないのは、クリストの眼前にも一人、手強い妨害者が立ち塞がっているからだ。
刃を備えた義手で戦う、黒衣の男。
確か、クロノドゥールと呼ばれていた。
その背中に隠れるようにして、レニングがなおも言う。
「権力者に雇われ、人殺しの仕事をする……堂々たる悪の道よ。かつての弱虫御曹司が、たくましい悪党に育ってしまったものだな」
妹のおかげだ、とはクリストは言わずにおいた。
轟音が、響き渡った。
凄まじい衝撃が、複数の人体を打ち砕く音。
月明かりの中。砕け散った強盗たちの破片が、大量に舞い上がる様が見えた。
「何だ……!」
油断なくクリストと対峙しながらも、クロノドゥールが驚愕している。
隊商を護衛する側としても、想定外の事態であるようだ。
まさか、とクリストは思った。
マローヌ・レネクが、もう肉体を再生させ、動き出したのか。もう少し念入りに、粉砕しておくべきであったか。
マローヌでは、なかった。
唯一神教の聖典に記された、海を割る聖人の如く。
強盗の群れを粉砕しながら真っ二つに割り、様々な人体の破片を波飛沫のように蹴散らしながら、こちらに歩み迫って来る姿。
それは、闇の塊だった。
暗黒そのものが、人の形をしている。
そんな事を感じながら、クリストは息を呑んだ。
「黒騎士殿……!?」
闇を鋳造したかの如き、暗黒色の全身甲冑。
それが、言葉を発していた。
「答えよ。私に、教えるのだ……死せる人間は、どうすれば……生き返る?」
どうにかすれば、リアンナも生き返るのか。
ほんの一瞬だけクリストは、そう思った。




