第153話
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夫も、息子も、私を嫌っている。
当然である。わかりきった事である。
誰かに好かれ愛される生き方など、とうの昔に捨て去った。
だからこそ、花嫁選びの祭典を勝ち抜く事が出来たのだ。
無論、お前が嫌いだ、などとは夫も息子も言いはしない。
二人とも、いつも私に愛想笑いを見せている。
愛想笑いだけが、夫と息子の、私に対する表情だった。
私が、近くにいる。
それだけで夫は、精神をすり減らす。生命を、すり減らす。
やがて夫は、死んだ。
私が殺した、ようなものか。
息子だけでも守らなければ、と私は思った。
息子の敵となり得るものを、私はことごとく滅ぼした。殺し尽くした。
それが息子の、精神を、生命を、すり減らした。
「母上は……私を、守って下さいましたね」
今、息子は病床にある。
寝台の上で、布団の中で、弱々しく微笑んでいる。
まだ愛想笑いを浮かべるのか、と私は思う。
「もう……その必要は、ありませんよ。誰かを守るために、無理をなさる……そのような事、おやめ下さい」
違うだろう。
お前が私に言わなければならないのは、そんな事ではない。
お前は私を、恐れていた。憎んで、いたはずだ。
私に、憎しみをぶつけてみろ。
私への罵詈雑言が、お前の中では渦巻いているはずだ。
それを、吐き出してはどうなのだ。
「父上が、おっしゃいました……自分が弱いせいで母上、貴女には苦労ばかりかけていると。私も、同じ気持ちですよ」
夫と息子は、よく二人きりで話し込んでいたものだ。
私の悪口を言っていたに決まっている。
陰口だけで満足なのか。
今、この時くらい、面と向かって私に言ってみてはどうなのだ。
「私が、皇帝でありながら……何も出来ぬせいで……」
そうだ。
お前は、父親以上に何も出来ない、飾り物の皇帝だ。
そのように私が育てた。
私はお前を、自由意志を持つ人間ではなく、母の言う通りにしか出来ぬ人形として完成させた。
お前の未来、将来、輝かしき可能性、全てを私は潰したのだ。
憎かろう。憎いはずだ。
「母上……どうか……」
逃げるのか。
私に恨み言ひとつ、投げつける事もせず。
お前もまた、逃げて行くのか。私から。
「どうか……ご自分の、人生を……」
逃がさぬ。逃がしはせぬ。
死ぬだけで、私から逃げられると思うな。
私は、お前たちを呼び戻す。
どこへ逃げようと、掴んで引き戻す。
誰が決めたのだ。
死んだ人間が戻らぬ、などと一体、誰が決めたと言うのだ。
そのようなものが世界の理であると言うのなら。
私は、世界の在りようを変えてやる。
死んだ人間が生き返る世界を、造って見せる。
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小屋ほどもある、黒い金属の巨体。
ケルティア城、庭園のあちこちで、それらが片っ端から破裂してゆく。
黒い甲冑の破片が、大量に飛散し吹き荒れた。
威圧的に布陣していた巨大兵士たちを、ことごとく粉砕しているのは、目に見えぬ魔力の奔流であった。
暴走する、破壊力の嵐。
その発生源は、ジュラードである。
暗黒色のローブに包まれた、枯れ木のような身体から、抑制を失った魔力が溢れ出し、渦を巻いている。
庭園全域で荒れ狂う魔力の大渦が、庭木を引きちぎりながら地面をも粉砕し、土と石畳の破片を噴出させる。
甲冑兵士たちを打ち砕き、城壁を、楼閣を、圧し崩してゆく。
ケルティア城そのものが、崩壊してゆく光景。
その真っただ中でラウラ・ゲラールが、歩行もままならぬ身体を、よろよろと立ち上がらせている。
助け起こし、肩を貸し、共に逃げなければならない。
フェアリエ・ゲラールは、そう思った。
思っただけで、身体が動かない。
「……ジュラード殿…………あなたは…………」
ラウラが、呆然と呟く。
この母は何かを見たのだ、とフェアリエは思った。
結果。ジュラードは、魔力の抑制を失った。
暴走、に等しい状態へと陥った。
「あなたは……全てを、失った……いえ。最初から、あなたは何も持っていなかったのね……ジュラード……」
闇色のローブが、ズタズタにちぎれている。
その下で、枯れ木のような肉体が、崩壊を始めているようにフェアリエには見えた。
肉体など、最初から無かったのではないか。
いつ暴走してもおかしくない魔力そのものが、闇色のローブに包まれていた状態。
それを皆、ジュラードと呼んでいたのではないか。
「……あなたには……何も、ない……」
それが母の、最後の言葉となった。
ラウラの身体は砕け散り、跡形も残らなかった。
「…………私を……視る、事は許さぬ……」
歪み、潰れ、膨張と収縮を繰り返しながら、ジュラードは声を発している。
「私を……暴く事は、断じて許さぬ……」
母は、このジュラードという何者かの、触れてはならぬ部分に触れた。
結果ジュラードは今、暴走を始めている。
そして、母は死んだ。
「迷う理由は、あるまい。躊躇う理由など、あるまい。フェアリエ・ゴルディアック」
ジュラードの声が、有毒の液体のように染み入って来る。
フェアリエの、虚ろな心に。
「祖父と母が、生き返るのだぞ」
「お祖父様と、お母様が……生き返る……何故なら、死んでしまったから……」
現実を、認識しなければならない。
それだけを、フェアリエは思った。
「…………私の……せいで……」
「お前のせいで失われた命を、お前が取り戻す。その手段を知る者は、ギルファラル・ゴルディアックのみ」
自分は誰なのだ、とフェアリエは思った。
ペギル・ゲラールの孫にして、ラウラ・ゲラールの娘。フェアリエ・ゲラール、であったのか。自分は。
だとしたら、その存在は失われた。
フェアリエ・ゲラールは、もういない。
ペギルとラウラが、いなくなってしまったからだ。
ならば、自分は。
「…………ギルファラル・ゴルディアック……」
名を、フェアリエは呟いた。
それに合わせて、何かが湧き上がって来る。
身体の奥から、心の奥から。
数体。破壊をまぬがれ生き残っている巨大兵士がいて、押し寄せて来る。
攻城兵器そのものの槌が、斧が、フェアリエに襲いかかる。
全て、砕け散った。
巨大な武器も、それらを振るう黒金の豪腕も、甲冑も中身も。
忠実な城兵であったものたちが、跡形もなく消し飛んでいた。
フェアリエの細い全身から溢れ出し、迸ったものに触れただけでだ。
「見事……それで良い」
ジュラードが言った。
「それこそが、世界の理を変える力の……片鱗の、片鱗よ」
「変える……世界の、理を……死せる人々を、生き返らせるために……」
フェアリエは唱えた。
力が、言葉が、意思が、無限に溢れ出して来る。
「私は、ギルファラル・ゴルディアック……世界の在りようを、変える者……」
「お出来に、なりませぬ……フェアリエお嬢様、そのような事! 貴女には!」
声がした。
歪み、潰れ、収縮と膨張を繰り返していたジュラードの身体が、ほぼ真っ二つに裂けた。
黒金の巨大兵士。
その最後の一体が、斬撃を食らわせていた。
いや。巨大、ではない。
さほど大柄ではなかったオーレン・ロウレル兵長の身体は、巨大化を遂げる事なく、ただ闇色の全身甲冑に包まれている。
変異を、オーレンは自力で抑え込んでいる。
そして長剣を振るい、ジュラードにさらなる斬撃を見舞ってゆく。
「貴女は今、ご自身を見失っておられる! ご自分を、見つめまいとしておられる! 自分はギルファラル・ゴルディアックである、などと思い込もうとしていらっしゃる。駄目なのですよ、それでは!」
叩き斬られたジュラードが、オーレンの剣に、腕に、身体に、ぐにゃりと絡み付いてゆく。
もはや人の体形を失い、不定形の禍々しい力に変わりながら、言葉を発している。
「良い仕上がりだ……いや、まだ行ける。オーレン・ロウレルと言ったな。そなたは最強の魔人と成れるであろう……イルベリオ・テッドの作り上げた、かの黒騎士にも劣らぬものに」
自身に絡み付く、闇そのものの如き物体を、オーレンはなおも切り裂きにかかる。
その様を見つめ、フェアリエは呆然と言った。
「…………受け入れろ、と言うの? お祖父様、お母様を、守れず死なせてしまった私を……まっすぐ、見つめろと言うの? オーレン兵長……」
「お辛いでしょう。ですが! 貴女は、そうしなければならないのです!」
オーレンが叫ぶ。
「フェアリエ様を……頼む!」
その叫びに応じた男が、後ろからフェアリエの腕を掴んだ。
「……逃げるぞ、お嬢様。オーレン兵長は……もう、保たねえ」
血まみれの、若い男。
火傷、裂傷、擦過傷……様々な傷を負い、血生臭さを立ち昇らせている。
この青年こそ、長くは保たない。
そう思いながらもフェアリエは、よろめき、歩き出し、走り出した。
負傷者である若い兵士に、引きずられていた。
「……兄貴たちが、俺を……庇ってくれた。守ってくれた。死にてえのに、生きなきゃならねえ……そいつは俺も、あんたも同じだ」
「お祖父様と、お母様が……死んでしまった世界を……作り変える事は、許されないの……?」
「のぼせてんじゃねえぞガキが!」
怒鳴りつつドメル・オーグニッドは、フェアリエを引きずり、走り続ける。
ジュラードの声が、遠くなってゆく。
「お前の兄たちも……生き返るかも、知れんのだぞ……」
「…………俺も兄貴たちもな、人を殺した。死んだら生き返らねえ人間を、なあ……いくらでも、殺してきたんだよ!」
重傷者とも思えぬ力強い足取りを、いささかも弱める事なく、振り返りもせず、フェアリエを放す事もなく、ドメルは言った。
「……命ってのは……そうでなきゃあ、いけねえ……」




