第143話
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魔法は、万能の力であるが故に魔法と呼ばれる。
ラウラ・ゲラールは、そう思っている。
魔法が使える者は、使えぬ者に対しては何でも出来る、と言って過言ではない。
灰色のローブに身を包んだ、この男たちのようにだ。
「我らの導きを受けるのだ、フェアリエ・ゲラールよ」
四人いる。
「そなたの目覚めは、まだ完全なるものではない」
「ギルファラル・ゴルディアックの完全なる転生体として、我らが仕上げてやる。共に、来るのだ」
「否、我らがここに滞在するべきであろう……利用できるものが、いくらかある」
一人が、フードの下から、じっとラウラを、倒れ動かぬオーレン・ロウレル兵士長を、見据えている。
人間を、物としか見ていない眼光。
(これが……魔法使い……)
ラウラは唇を噛み、睨み返した。
(魔法を使えぬ人々に対し、いくらでも横暴に振る舞う事の出来る者たち……私も、このようになっていた。かも知れないという事、ですよね? イルベリオ先生……)
魔法を使えたら、好きな事が出来る。
幼い頃、師イルベリオ・テッドに対し、そのような意味の事を言った記憶がラウラにはある。
特に、何かを意図しての事ではない。
物知らずの女児が、無邪気な事を言っただけだ。
偉大なる魔法使いイルベリオは、しかしそんな子供の戯言に衝撃を受けてしまったようである。
貴女の言う通りです、と彼は言った。
自分たち魔法使いは、それを忘れて久しい、と。
省みなければならない、と。
省みる心が、この男たちには無いようである。
「城壁を……」
ラウラは言った。
「……崩したのは、貴方たちね?」
ロルカ地方。
執政府ケルティア城の庭園にてラウラは、城壁の崩落事故に見舞われていた。
傍目には、事故にしか見えなかったであろう。
オーレン兵長が、ラウラを崩落から庇って負傷した。
そのように、見えるであろう。
「さあ、どうであろうなあ」
灰色の男の一人が笑い、片手をかざす。
半ば転倒したように座り込んでいたラウラは、その片手の動きに合わせ、立ち上がっていた。
いや。
この身体で、これほど素早く立ち上がる事は出来ない。
不自由な両足が、弱々しく垂れ下がっている。地面に触れていない。
ラウラの身体は、宙に浮いていた。
夫に、首を絞められた事もある。
それと似た感覚がある。
目に見えぬ巨大な手が、ラウラの細い首を掴んでいた。
直立歩行もままならぬ身体を、掴み、ぶら下げていた。
「フェアリエ・ゲラールの……母親、か? 喜べ、愛しい娘の役に立ててやる」
不可視の手でラウラを拘束したまま、灰色の男は言う。
「そなたの死は……娘に、さらなる目覚めを促すであろうかな」
「やめて…………」
フェアリエの声が、震えている。
「……やめて、ください……やめなさい……」
震えているのは、声だけではない。
ラウラは、そう感じた。
娘の、か細い身体が震えている。
繊細な心も、震えている。
それらの奥にある、禍々しいものも震えている。
震えながら、目覚めようとしている。
「駄目……」
見えざる五指に締め上げられる喉の奥から、ラウラは無理矢理に声を絞り出した。
「それを目覚めさせては駄目よ、フェアリエ……この人たちと、同じに……なってしまうわ……」
魔法。
強大にして、邪悪な力。
他者を蹂躙し、己の欲望を押し通すための力。
魔法使い。
強力にして邪悪なる者。
魔法を使えぬ人間を、物としか認識しない種族。
そうならぬよう気を付けなければ、と師イルベリオは言っていた。
自分に出来たであろうか、とラウラは思う。
彼のもとで、あのまま魔法を学び続けたとして。
この男たちのようには、ならなかった……と今、言うだけならば容易い。
(大ギルファラル・ゴルディアックよ。貴方は……とてつもなく偉大な御方、であられたのでしょうね……)
震え、泣き叫ぼうとしている娘を見据え、ラウラは心中で語りかけた。
娘の体内を流れる、あの暴力的な夫の血筋。
その中に潜む、血の中を浮き沈みして姿を垣間見せる、一人の人物にだ。
(ですが、私にとっては……貴方様の存在は、呪いでしかありません。娘に、フェアリエに……どうか、付きまとわないで……死んだ人は、もう、この世に出て来ないで)
「さあ! さあさあ、フェアリエ嬢よ。大魔導師の偉大なる転生体よ! その血を、力を、魂を、目覚めさせるのだ。目覚めし力で私を殺し、母親を救って見せよ!」
片手をかざし、見えざる手でラウラの首を締め上げながら、灰色の男は笑い喚く。
「殺せぬか! 私一人、殺す事も出来ないか! それでは何一つ守れはせんなあ、母親を死なせるしかあるまいなああ!」
「…………何故……どうして……」
フェアリエが、懸命に自制を保とうとしている。
何を自制せねばならないのか。
何が今、自分の中で目覚めようとしているのか。
それをフェアリエは、明確には把握していないのだろう。
「どうして貴方は、私の母を…………死なせようと、するのですか……? 私に、何を……させたいんですか……貴方たちは一体…………」
「そなたを導いてやろうと言うのだ。そのためであれば、我が命! いくらでも捨てようぞ。我らが偉大なる目的に、この命! 捧げようぞ! さあ、私を殺す力を目覚めさせ」
世迷い言が、そこで止まった。
ラウラは、その場に倒れ込んだ。
解放、されていた。
喉を締め付ける不可視の拘束が、消え失せている。
灰色の男が、悲鳴を上げていた。
偉そうに掲げられて魔力を発し、ラウラの身体を吊り上げていた片腕が、肘の辺りで切断されている。
「ぐぎゃあぁああああああ! きっ貴様ッ、きさまああああああああああ!」
「これは私の経験になるが」
血まみれのオーレン・ロウレル兵長が、いつの間にか立ち上がっていた。
流血は、確かにしている。
だが、それほどの深傷ではないのか。
「殺せ、殺せと喚く者ほど……死ぬ覚悟など、固まっていない場合が多いのだな。まあ恥じる事ではない、命は惜しめ」
その右手では、抜き身の長剣が、うっすらと白い光を発している。
本当に目を凝らさなければ認識出来ない、淡い輝き。
気の光、であった。
鍛え上げられた戦士が放つ、魔力と似て非なるもの。
その微かな光を帯びた刃が、
「無論……今更、命を惜しんだところでな」
「ひっ、ま、待て……」
一閃した。
灰色の男が、片腕に続いて、首から上を失った。
フードに包まれた生首が、宙を舞い、落下する。
「…………オーレン兵長……」
フェアリエが、何かを言おうとしている。
「わ、私……わたし、貴方を……」
「よろしいですか、お嬢様。貴女は今、何もなさいませんでした」
オーレンは言った。
灰色の男たち、残る三名を、油断なく見据えながら。
「城壁の崩落事故が起こり、私が軽傷を負いました。被害と呼べるものは、それのみでございます……ラウラ様が、転倒なされたようですな。お怪我はございませんか」
「……ええ。私は大丈夫」
ラウラは応え、フェアリエは叫ぶ。
「オーレン殿! 貴方のお怪我は、私のせいで……」
「ふふ。貴女のようなか弱い御方が、身に寸鉄も帯びず、どう他人を傷付けられると言うのですか」
笑いながらオーレンは、ラウラを背後に庇った。
そして、灰色の男たちに剣を向ける。
「貴様たち魔法使いの欠点を指摘してやろう。魔法を万能と思い込み、過信する。魔法で、何でも出来ると思い上がる。思い上がりの果てにあるのが、この死に様よ」
「ふん? 致し方あるまい。実際、我らは万能なのだ。貴様らと比べ、遙かに……なあ」
残る三名の一人が片手をかざし、掌で炎を燃やす。
「油断で命を落とす愚か者は、それはいるとも。だが基本的に、根本的に」
一人が、両掌の間で電光を走らせる。
「魔法を使える者、使えぬ者の間にはなぁ、神と虫けらに等しい力の差が存在してしまうのだよ。気の毒だが仕方がない」
「受け入れよ、凡人」
一人が、ローブの袖から蛇の如く右腕を伸ばした。
右腕が、変異していた。
関節が増え、五指の先端が毒牙の如く鉤爪を伸ばす。
「我らにとって、お前たちは虫けらだ。すまぬと思うが、そういうものだ……魔法はな、人を神と虫けらに分けてしまう」
「フェアリエ・ゲラールよ、お前は神の側へ来るのだ!」
「偉大なるヴェノーラ・ゲントリウスは、神となったが故に! 虫けらどもを支配する事が出来たのだぞ!」
そんな言葉に合わせて、炎が、雷が、男たちの手から放たれ迸る。
襲い来る攻撃魔法を、オーレン兵長が斬撃で迎え撃つ。
気の白色光をまとう長剣が、炎と稲妻を打ち払い、粉砕した。
火の粉が、電光の飛沫が、飛び散った。
鮮血も、飛び散っていた。
オーレンの負傷した全身から、微量の血飛沫が飛散したのだ。
平静を装いながら、オーレンが歯を食いしばる。
長剣を振るう動きが一瞬、硬直した。
激痛の硬直。
その一瞬を逃さず、三人目の男が右腕を伸ばす。
多関節を獲得し、大蛇の如く伸長した腕が、毒牙にも似た鉤爪でオーレンを引き裂かんとする。
その鉤爪が、折れた。
五指が、捻れちぎれた。
いくつもの関節が、砕けた。
蛇の如く伸びた腕が、その発生源である男の肉体が、ねじ曲がりながら破裂していた。
大量の臓物が、散乱する。
その凄惨な光景の真っただ中に、白い姿があった。
純白の、ローブ。
ラウラは息を呑んだ。
(イルベリオ先生……!?)
違った。
白いローブに身を包んだ、その男は、外見的特徴に乏しいイルベリオ・テッドとは似ても似つかぬ、秀麗な青年であった。
フードからは、眩い白銀色の髪が溢れ出している。
怜悧な眼差しが、残り二人となった灰色の男たちに向けられる。
その眼光が一瞬、物理的な力を有した。
はっきりとラウラは、それを感じた。
男の一人が、捻れて死んだ。
灰色のローブもろとも雑巾の如く絞られ、様々なものをビチャビチャッ! と大量に滴らせる。
「貴様! 我らを……」
残る一人が、何か叫ぼうとしながら炎に包まれた。
灰色のローブが、皮膚と肉が、臓物が、全て一緒くたに焼き尽くされて灰に変わり、ザァー……ッと流れ落ちる。
黒焦げの骨格が、崩壊する。
その様を見つめ、銀髪の青年は呟く。
「同志らの腐敗を、目の当たりにするのは……悲しい。辛い。魔法とは、かくも……人を、おぞましい怪物に変えてしまうもの」
人体を破壊出来る眼差しが、ラウラに向けられる。
「貴女も、そうお思いなのでしょう? 我が姉弟子ラウラ・ゲラールよ」
「貴方は……」
「ドーラ・ファントマと申します。かつてイルベリオ・テッドと共に魔法を学んだ者……あの人は私にとって、兄弟子と言うより師匠に等しい存在ですから」
眼差しも言葉も、穏やかである。
「これなる灰色の男たちは、我が同志……魔法という力の悪しき一面に取り込まれ、溺れ、人の道を踏み外してしまった者たちです。私は……殺す、事でしか彼らを止められなかった」
その秀麗な顔には、悲痛なものが満ちている。
同志たちの死を、本気で悼み悲しんでいる、ように見える。
だが、ラウラは確信していた。
城壁を崩したのは、この男ドーラ・ファントマであると。




