第142話
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父を許そう、という気分になれたのは、父が死んだからだ。
つまり、とフェアリエ・ゲラールは思う。
それまで自分は、父を許せていなかったのだ。
王都ガルドラントで、何かが起こったらしい。
フェアリエの生まれ育ったゴルディアック家の大邸宅が、完全に崩壊してしまったのだという。
長老ゼビエルをはじめ、ゴルディアック家の年長者はことごとく死亡。
そう、伝わって来た。
死亡者の中に、父も含まれていたようである。
邸内に異形の怪物たちが出現し、殺戮を行った、などという話も聞こえてくる。
その真偽は、フェアリエにとって問題ではなかった。
あの大邸宅で実際に何が起こったのか、まるで興味がないと言えば嘘になるが、真相を突き止めたいとは思わない。
父カルネード・ゴルディアックが、間違いなく死亡してくれた事。
フェアリエにとっては、それが全てであった。
母ラウラが、どう思っているのか。
それは娘として、気にならぬ事もなかった。
ヴィスガルド王国南部、と一括りに扱われてしまいがちな地方群の一角、ロルカ地方。
執政府ケルティア城の中庭にてラウラ・ゲラールは今、別れた夫の生き死にに思い煩っている場合ではない様子である。
杖をついて、庭を歩く。
この母にとって、それは決死の大遠征にも等しいのだ。
無理をしてでも歩かなければ一生、歩けなくなる。
それが、母の口癖であった。
「こう申し上げては、無礼でありましょうが……」
兵士長オーレン・ロウレルが言った。
杖にすがりつき、懸命に歩き続けるラウラの姿を、やや遠くから見守りながらだ。
「……お止めした方が良いのではないかと、思えてしまいます」
「好きにさせてあげて下さい。あれでも、かなり歩けるようになったんです」
フェアリエは苦笑した。
「無理をしてでも歩かなければ一生、歩けなくなる……母の、その根性論を認めなければいけないのかしら」
本日、母は、庭園の一周をすでに成し遂げている。今、二周目の最中である。
少し前までは、庭園の一周どころか横断すら覚束なかった。
そのような身体になってしまったのは、夫カルネードの暴力から、娘フェアリエを庇っての事である。
罵詈雑言を吐きながら棒を振るい、母を殴打し続ける父の姿。
目の当たりにして、フェアリエは思ったものだ。
これがゴルディアック家なのだ、と。
これが旧帝国系貴族なのだ、と。
その血が、自分の身体にも流れているのだ、と。
「オーレン兵長殿は……」
フェアリエは訊いた。いささか言葉を選んだ。
「その、確か……帝国貴族の血筋で、いらっしゃる?」
「はい、旧帝国系貴族でございます。フェアリエお嬢様」
四十歳、であるという。
父カルネードの享年と、さほど違わぬ年齢だ。
あの父とは比べ物にならぬほど、物腰柔らかく品格のある人物である。
数週間前この人物は、フェアリエの祖父である領主ペギル・ゲラール侯爵が行った募兵に応じ、この城を訪れた。
それまでは、流れ者であったらしい。
ペギル侯爵は、このオーレン・ロウレルを引見し、すぐに兵士長の地位を与えた。
元いた兵士たちからも、不満は出なかったようである。
最初、オーレンは固辞した。
自身の武勇が、ヒューゼル・ネイオンに遠く及ばぬ事を理由にだ。
そのヒューゼルに推挙され、あるいは押し付けられる格好で、オーレン・ロウレルはめでたく兵士長に就任したのであった。
「バルフェノム・ゴルディアック侯爵閣下に、かつて私は騎士として、お仕えしておりました」
「バルフェノム……侯爵に」
父方の祖父ログレムの、従兄弟であるという人物。フェアリエと面識はない。
「祖父ペギル・ゲラールは、ここロルカ地方で……目立たぬ一介の地方領主として一生を終える事を、肯んじていました」
フェアリエは言った。
「それが、ある時……ここ王国南部の騒乱に、バルフェノム侯爵が関わっている事を知った途端、躍起になってしまって……バルフェノム・ゴルディアックだけは生かしておけぬと。この世から、消さねばならぬと」
「バルフェノム侯は、才覚と野心を併せ持つ御方……」
オーレンは、そこで一瞬の沈思を挟んだ。
「つかぬ事ですが……フェアリエお嬢様は、我ら旧帝国系貴族という者たちを、どのようにお考えですか?」
「どのように、とは……」
「虐げられている、とお思いになられた事はありませんか。旧帝国系勢力に連なる者であれば、罵倒して構わぬと。石を投げても構わぬと……何なれば、殺し、滅ぼしても構わぬと。そのような風潮が出来上がりつつある、とお思いには」
「……ある程度は仕方のない事、と思います」
母が、転倒しかけた。
オーレンが駆け寄ろうとした時には、しかし自力で杖にしがみ付き、立ち直っていた。
その様を見つめ、フェアリエは語る。
「私たち旧帝国系貴族は、これまで……あまりにも傲慢に、傍若無人に、自分勝手に、振る舞い過ぎました。反発を受けるのは、当たり前ではないでしょうか」
旧帝国系貴族と呼ばれる人々の中に、父カルネードのような人間は、いくらでもいるに違いなかった。
人を棒で滅多打ちするような者が。
打たれた側にしてみれば、それが旧帝国貴族の全て、という事になってしまう。
「まさしく、その通り……」
オーレンの口調は、暗い。
「旧帝国系貴族は、これまで民に様々な暴虐を働き、それを許されてきました。その反動、揺り戻しとも言える事態が今、王国各地で起こっております。何しろ……旧帝国貴族による暴虐を許さなくとも良い、という事に、民が気付いてしまいましたからね」
「それは……ボーゼル・ゴルマー侯爵が?」
「まさしく。旧帝国貴族を、力で打ち倒せるものなら、しても別に構わない。それをボーゼル侯が証明してしまったのです」
オーレンは言った。
「力で打ち倒される、ところまではゆかぬにせよ。今、王国各地で、旧帝国関係者が様々な苦境に陥っておりますよ。何しろ旧帝国貴族、権威の要たる大老ゼビエル・ゴルディアックが、この世を去ってしまいましたからね」
苦境に陥った旧帝国貴族に救いの手を差し伸べる事など、絶対になかったであろう。
曾祖父ゼビエルをはじめ、あの大邸宅にいた人々が、仮に存命であったとしても。
フェアリエは、そう思う。
「そのような苦境にある旧帝国系貴族たちを、庇護する……という形で次々と取り込み、勢力を拡大しつつあるのが、かつての我が主バルフェノム・ゴルディアック侯爵なのですよ。確かに、危険な御方ではあるのですが」
オーレンはひとつ、息をついた。
「……バルフェノム侯には、御本人よりもずっと危険な男が一人、仕えております。私の、弟です」
「オーレン殿の……」
「私は、弟を止める事が出来ず……」
話は、そこまでだった。
オーレンは、駆け出していた。
ラウラが、よろめいて城壁にもたれかかったところである。
その城壁の一部が、崩れ始めていた。
大小の瓦礫が、母に降り注ぐ。
呆然とフェアリエは、その様を見つめた。
このケルティア城は、かつて一度ボーゼル・ゴルマーに攻められ、城壁も破壊された。
修理は、しかし済んでいるはずである。
不充分で、あったのか。
いや、そんな事を考えている場合ではない。
オーレン兵長が、覆い被さる格好でラウラを庇う。
そこへ、城壁の破片が大量に降り注いでゆく。
「お母様……」
自身の音声としてフェアリエが認識出来たのは、そこまでである。
自分でもよくわからぬ絶叫が、身体の奥から迸っていた。
声、だけではない。
目に見えぬ、形のない何かが、フェアリエの細い全身から溢れ出し、押し寄せて行く。
母とオーレンの方へ。
降り注ぐ大小の瓦礫が、全て砕け散った。
無害な小石となって、パラパラと散乱する。
その様の中央で、ラウラは半ば転倒した格好で座り込んだまま、娘と同じく呆然としていた。
無傷、ではある。
その傍らに、オーレン兵長は倒れ伏していた。
こちらは、血まみれである。
「オーレン殿……!」
フェアリエの呼びかけに、オーレンは応えない。
ラウラは、ただ青ざめている。
ひとつ、フェアリエは気付いた。
今、自分の全身から溢れ出し、放たれ、瓦礫を粉砕したもの。
もしもオーレンがいなければ、それは母を直撃していた。
自分は今、母を殺そうとした、のではないか。
実際には、オーレン兵長を殺してしまった、のではないか。
「違う……」
母の声だった。
「それは違うわ、フェアリエ……」
「素晴らしい。よもや、これほどとは」
母を黙らせるように、何者かが言った。
複数の、灰色の人影。
中庭に、ふわりと出現していた。
「テスラー・ゴルディアックなどとは比較にならぬ。まさに! これは、まさしく」
「うむ、間違いなかろう」
灰色のローブをまとい、フードを目深に被って正体を隠した男たち。
四人いる。
うち一人が、フェアリエを見据えた。
邪悪そのもの眼光と言葉が、向けられてきた。
「フェアリエ・ゲラール……そなたは今、目覚めさせたのだ。大魔導師ギルファラル・ゴルディアックの、力と魂をな」




