第139話
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「聞け、叛乱軍の残党よ!」
ヒューゼル・ネイオンの声が、響き渡る。
ゴスバルド地方、山中の野営地に。
そこに布陣する、兵士たちの心に。
「ここ王国南部の地に、旧帝国勢力を導き入れんとする貴公らの行動! 看過は出来ぬ。叛乱の準備を即、放棄すべし! 領主マレニード・ロンベル侯爵に恭順の意を示し、王国地方軍に帰属せよ! 本当に民を守りたいのであれば、そうせねばならぬ。頭で理解は、しているのであろうがッ!」
かつてボーゼル・ゴルマー侯爵に仕えていた、叛乱軍の残党部隊。
自分リーゲン・クラウズを含む、全員の心が今、雷に打たれていた。
全員、兵士である。
命令に従う。命令の内容を即、実行する。
その動きが、身体に染み付いている。
その動きをするよう、身体が出来上がってしまっている。
過酷な、戦闘訓練によってだ。
無論、誰の命令でも、というわけではない。
優れた兵士は、優れた指揮官を、皮膚で感じ取る。嗅覚で感じ取る。耳で、感じ取る。
命令を発する声を聞いただけで、その指揮官の程度を判断するのだ。
自分たちに命令を下す資格を、持っているのかどうか。それを判断してしまう。
このヒューゼル・ネイオンという若者は、数千いや数万の精兵を、一声で動かす指揮官だ。
自分たちのような、数百人規模の小部隊など、命令一つで掌握されてしまう。
リーゲンは、そう感じた。
領主マレニード・ロンベル侯爵に恭順せよ。
その命令に今、自分たちは、従ってしまいそうになっている。
恐らくは自分よりも若い、この粗末な歩兵の装いをした青年が、とてつもない歴戦の武将であるのは間違いないか。
リーゲンが思いかけた、その時。
「…………と、まあ。ね」
ヒューゼルが、頭を掻いた。
歴戦の武将が消え失せた、とリーゲンは感じた。
「……こんな感じで偉そうな命令、色々してた記憶もなぁ。無くは、ないんだよなあ俺」
口調からも、表情からも、気力が失われている。
つい今しがた、雷の如き命令を発した指揮官が、一瞬にして無気力な雑兵に変わってしまった。
リーゲンには、そうとしか思えなかった。
「ま。俺の記憶なんかは、どうでも良くて」
ゴルマー家の残党部隊を見渡し、ヒューゼルは言った。
「ともかくさ。俺が今言った通りに、してくれないかなあ」
「マレニード・ロンベルに、従え……と」
リーゲンは、冷静な口調を保つ努力をした。
「俺たちの、味方のふりをして……俺たちから、全てを奪った連中に。従えと言うんだな? ベレオヌスに膝を屈せ、と」
「それが出来ない理由って、何かな」
無気力な言葉を、ヒューゼルは返してくる。
「あんた方の事は聞いてるよ。民衆を守る戦いを、何度もやっている……見事だ、と思うよ。山賊にでもなって、弱い者から奪う生き方を、やろうと思えば出来るのにしない。ボーゼル・ゴルマー侯爵の兵隊だっていう事に、よっぽどの誇りを持ってなきゃ出来ない事だ。本当に立派だと思う。皮肉で言ってるんじゃあなしに、ね」
「お前…………」
おかしい、とリーゲンは感じた。
ヒューゼル・ネイオンの、無気力な声を聞きながら、無気力な顔を見据える。
金髪碧眼の、形だけは秀麗な顔面。
まるで人形だった。
生きた人間の気力が、全く感じられない。
この顔を、自分は知っている。
その思いを、リーゲンは即、否定した。
自分の知り合いに、こんな無気力な男はいない。
だが。自分は、この顔を見た事がある。
そんな気がする。
戦場で、ではなかったか。
「民を守る……その誇り、王弟ベレオヌス公の下じゃ持てないもの、かな?」
ヒューゼルが、言葉と共に、じっと眼差しを向けてくる。
無気力な青い瞳。
リーゲンは、睨み返した。
本当に、無気力なのか。
記憶をなくしているという、この青年は、気力も失ってしまっているのか。
靄がかかっている、だけではないのか。
とてつもなく濃密な靄が、ヒューゼル・ネイオンの何かを包み隠している。
だから、無気力に見えてしまうのだ。
その靄が無い状態を、自分は見た事がある。
恐らくは、戦場で。
「ボーゼル・ゴルマーは、もう死んだ」
靄の奥で何かが光った、ようにリーゲンには思えた。
「まずは、そこから始めてみようって気になれないか? あんた方は今、いるわけでもないボーゼル侯の亡霊を心の中に作り出して、それにしがみついている……俺には、そう見えてしまうんだよ」
ぼんやりとした青い瞳の中、その光は微かに燃えて揺らめいている。
炎の、煌めき。
この炎が、激しく燃え盛っている状態を、自分はかつて戦場で見た。
そんな思いが、リーゲンの中で固まりつつある。
「今のままだと……あんた方は、叛乱軍の残党でしかない。討伐されるぞ。皆殺しにされるか、生き残っても牢獄暮らしだ。そうなったらな、民を守るための戦いも出来なくなる」
青い瞳の奥で炎を燃やしながら、このヒューゼルという男は、あの戦場で戦っていた。
数千数万の大軍を、雷の如き命令で動かしていた。
ボーゼル・ゴルマーの、敵として。
「……あんた方は、負けたんだよ」
ヒューゼルは言った。
否。
この男は、ヒューゼル・ネイオンなどという名前ではない。
「自分の負けを、認める……そこからじゃないと始まらないものって、あると思うんだよ俺」
「…………そうだ。俺たちは、お前に……負けた……」
リーゲンは、槍を振るい構えた。
穂先が、鋭い音を発して空気を切り裂く。
「まずは……そうだな、お前を克服しなければ! 俺たちは何も始まらないんだよ、アラム・ヴィスケーノ!」
世迷い言、としか思われぬであろう事を、リーゲンは叫んでいた。
「王都で愛想振りまいてる奴は偽物じゃないか、って噂……単なるバカ話だろうって、俺は思ってたけどなあ!」
「俺が保証する。王宮にいる奴は、偽物だ」
重く低い声を発したのは、クロノドゥールである。
「本物は、ボーゼル・ゴルマーを道連れに死んじまった……と、そんな話もあったな」
リーゲンの隣で、鋼の義手を構えている。
鉄塊そのものの前腕部から生えた大型刀身が、ギラリと輝いた。
「生きててくれて、嬉しいぜ……なあ、アラム王子。俺のこの右腕はな、あんたに撃ち落とされたんだよ。ああ、いや恨みはない。俺が弱かったってだけの話でな」
「……ごめん、やっぱり覚えてない」
ヒューゼルは言った。
「なるほど、俺は……この国の王子様と、同じ名前なのか」
「同じなのは、名前だけじゃあない。あんたの技の冴え……俺の右腕を射落とした時と、全く同じさ」
クロノドゥールは動いた。
黒装束の長身が、影の如くヒューゼルに迫る。
その黒さの中から、刃の白さが閃いた。
「恨みはない、とは言った。が……それはそれとして、あんたを生かしてはおけん! わかってくれるか、この気持ち。俺もな、あんたを克服しなきゃならんのだよ!」
「迷惑だなあ」
その一閃を、ヒューゼルはかわした。
揺らめくような回避を、クロノドゥールは正確に追う。
義手の刃が、再び一閃してヒューゼルを猛襲する。
猛襲と、ヒューゼルは擦れ違った。
長弓を、ヒュンッと回転させながらだ。
両端から刃の生えた、奇怪な弓。
その刃が、クロノドゥールの首筋に迫る。
義手の斬撃は、すでに空を切っていた。
その時には、リーゲンは踏み込んでいた。
全身で、槍を突き込む。
槍先が、疾風の如くヒューゼルを襲う。
クロノドゥールの斬首を諦め、ヒューゼルは跳躍した。
リーゲンの槍をかわしながら、腰の矢筒に手を伸ばす。矢を引き抜き、長弓につがえる。
着地しながらヒューゼルは、弓を引き、弦を手放していた。
空気の裂ける轟音が、響き渡る。
踏み込む暇も、かわす暇も、リーゲンには与えられなかった。
次の瞬間には、自分かクロノドゥール、どちらかが死ぬ。
いや。
この近距離、この男の弓勢であれば、二人とも射貫かれる。貫通する。
その矢は、しかし長弓から放たれた瞬間、弾けて散った。
真っ二つに、切断されていた。
白昼の三日月が一瞬、リーゲンには見えた。
横合いからの、斬撃の軌跡。
淡く輝く細身の刃によって、描き出されたものだ。
「……俺、記憶ないんだけど」
ヒューゼルが、後退りをする。
「矢を切り落とされたの……多分、初めてだと思う。いや凄いね、お嬢さん」
「良い武器を、持っておりますから」
細身の長剣をヒュッ……と揺らめかせながら、シェルミーネ・グラークは言った。
「とある、やんごとなき御方より賜りましたのよ。魔剣・残月……で、いいですわ。もう面倒臭い」
「…………いい武器を持ってる、だけじゃ……こいつの矢は、落とせない……」
クロノドゥールが呻く。
「俺は、今……首を、斬られていたんだな……」
「女の執念は、恐ろしい……などと、言われがちですわよね」
一見たおやかな細身で、リーゲンとクロノドゥールをまとめて背後に庇いながら、シェルミーネは優雅に苦笑した。
そして、魔剣・残月をヒューゼルに向ける。
「そんなもの……殿方の執念や意地と比べましたら、ね。可愛らしいものですわ」




