第138話
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「お辛くは、ありませんか」
声を、かけられた。
穏やかな声。
それでいて、聞く者の心に重く響いてくる。
聞く者の心を、どこか深いところへ引き込もうとする。
引き込まれてしまう者は大勢いるだろう。女性にも、男性にも。
思いつつ、シェルミーネ・グラークは振り返った。
すらりと背の高い、適度に着飾った貴人の青年が、そこにいた。
顔立ちは秀麗で、金色の髪と青い瞳の色合わせは、高貴と言うより、もはや神秘的ですらある。
「皆、貴女を憎んでおります。嫌っておりますよ、シェルミーネ・グラーク嬢。王都の民も、王宮の関係者も皆、貴女一人を」
この声で、命令をされたら。頼み事を、されてしまったら。
大抵の人間は、躊躇なく聞き入れてしまうだろう。
命すら、この青年に捧げてしまいかねない。
思いつつシェルミーネは、会話に応じた。
「貴族とは、民衆に嫌われるものですわ」
「私も、それなりの身分ではあるが……民草に嫌われたら、辛いな。悲しい、と感じるだろうな」
「下々の者らに対し、せいぜい良いお顔をなさいませ。それが貴方様のお役割ですものね、アラム・エアリス・ヴィスケーノ殿下」
ヴィスガルド王国、王都ガルドラント。
花嫁選びの祭典も日程が進み、後半戦となった。
現時点まで勝ち残っている令嬢たちに対しては、王宮の一部が解放され、こうして出入りが自由となる。
庭園の一角でシェルミーネは、自身の夫となるかも知れない人物から今、声をかけられたのだ。
「この度の祭典……参加中の御令嬢方は皆々、王都の民に愛想を振り撒いていらっしゃる」
アラム・エアリス・ヴィスケーノ王子は、言った。
「シェルミーネ嬢、貴女お一人だけが……わざわざ民衆に憎まれるよう、振る舞っておられる。貴女が無様に脱落するのを、誰もが心待ちにしている」
「ふふっ、残念。御期待には沿えませんわね」
言いつつシェルミーネは、ちらりとアラム王子を観察した。
武勇の程は、どうか。
この王子、文武両道と言われてはいる。
武芸百般に秀でている、という話は伝え聞く。
適度に着飾った、このスラリとした長身が、どれほどの戦闘能力を秘めているものか。
シェルミーネには、しかし読めなかった。
まるで大した事はない、ようでもある。
読ませない何かを持っている、とも感じられなくはない。
「この度の祭典。よもや、これほどの盛況を呈するとは。誰にも読めなかったでしょうな」
アラム王子は、微笑んだ。
「大勢の人々が、祭典を愉しみながら酒を飲む。食べ物を買う。祭典を一目見ようと、王都まで旅をする。乗り合い馬車や渡し船を使う、宿屋に泊まる。護衛を雇う。信じ難いほど、お金が動いているのですよシェルミーネ嬢。貴女のおかげで」
「それは、買い被りというものですわ」
様々な所に金を落とす、その人々は、確かにシェルミーネ・グラークの惨めな敗北・脱落を見たがっている、のかも知れない。
だが、それ以上に、とシェルミーネは思う。
人々は、平民娘アイリ・カナンの勝利と幸せな結婚を、見たがっているのだ。
「過剰な、お誉めの言葉。アラム王子より、いただきましたわ」
「私は、事実を伝えたまで」
「何でも良いですけれど、ここまでに致しましょう。貴方様が、こうして祭典の参加者と密やかに立ち話など、していらっしゃる。妙な憶測や噂が広まらないとも……いえ、それも悪くはありませんわね」
「ほう」
「例えば。私が、こうして」
アラムの腕に、シェルミーネは軽く、己の腕を絡めていった。
時折ガロム・ザグを、からかうようにだ。
「……これだけで。グラーク家の悪役令嬢が、アラム王子を籠絡しようとしている、という事になってしまいますわ」
「なるほど。民衆は、ますます貴女を憎む。祭典は更に盛り上がる、と」
笑いながらアラムは、やんわりとシェルミーネの腕を振りほどいた。
「シェルミーネ嬢、私は貴女に興味があった……のだが。いやはや、思った以上に面白い人だ。お話が出来て良かった、と思う」
「私も」
思うところを正直に、シェルミーネは述べた。
「この度の祭典。グラーク家は王家との血縁を、私個人は王子妃の身分を獲得する事となりますわ。その副賞品として……アラム王子、貴方は申し分のない殿方でしてよ」
屈託なく、アラムは笑った。
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あの時。
戯れに腕を絡め合ってみた時の感触を、シェルミーネは思い返した。
アラム・ヴィスケーノ王子の、細く見える腕は、しかし思いのほか鍛え込まれていたものだ。
ヒューゼル・ネイオンと名乗った、この若い兵士のように。
簡素な歩兵の甲冑をまとう身体は、細く見えて強靭である。無駄なく、鍛錬が仕上がっている。
「………記憶が、ない……だと……」
震え、怒り狂っているのは、クロノドゥールである。
「ふざけてんのか、てめえ……」
「ふざけちゃいないよ。あんたが誰なのかは知らない……思い出せないが、どうやら俺と何かしら因縁があるみたいだな。そんな人を相手に、ふざけたりはしない」
言いながらヒューゼルは、腰の矢筒から矢を取り出し、つがえた。
両端から小型の刀身を生やした、奇怪な長弓。
それがギリギリッ……と引き伸ばされる。
強弓だ、とシェルミーネは思った。
自分では到底、引く事は出来ない。
ヒューゼルが、弦を手放した。
空気の裂ける、凄まじい音が轟いた。
空を飛ぶものが複数、空中で串刺しとなった。
ひょろ長い手足の先端に鉤爪を備え、背中から皮膜の翼を広げた、人型の怪物。
それが三体、一本の矢に射抜かれ束ねられ、ひとかたまりの屍となって落下する。
その時には、巨体がひとつ、ヒューゼルの背後に迫っていた。
今、射抜かれたものたちと、体型は同じだが巨大である。
広い翼を背負ってはいるが、それで空を飛べるかどうかはわからぬ巨体。
筋骨隆々たる手足の先端は、城壁を破壊出来そうな鉤爪である。
そんな怪物が一体、ヒューゼルの背後で豪腕を振り上げている。
攻城兵器のような鉤爪に、叩き潰される……寸前で、ヒューゼルは軽やかに振り返った。
刃を備えた長弓が、一閃した。
鉤爪を生やした豪腕が、肘の辺りで滑らかに切断され、落下する。
それが見えた時には、怪物の巨大な生首が、ヒューゼルの傍らに転げ落ちていた。
シェルミーネは、慄然とした。
一閃で、この若き兵士は、縦横二度の斬撃を繰り出したのだ。
怪物の巨体が、頸部の断面を晒しながら揺らぎ、干涸らび、ひび割れて崩壊する。
その様を背景にヒューゼルは、こちらを振り向き、ぼんやりと状況を確認している。
マローヌ・レネクによって召喚された怪物の群れは、殺し尽くされていた。一体も残ってはいない。
残っているのは、この場所で野営をしていた兵士たち。
かつてボーゼル・ゴルマーに仕えていた、叛乱軍の残党部隊である。
精兵である彼らが呆然とするほどの手並みを、このヒューゼル・ネイオンという若者は今、披露して見せたのだ。
あの時。
アラム・ヴィスケーノ王子の武勇の程を、シェルミーネは読み取る事が出来なかった。
ヒューゼル・ネイオンの武勇は今、目の当たりにした。
彼をアラム王子と結び付ける事は、出来ない。
顔は、どうか。
金髪と青い瞳の、色合い。
アラム王子のそれは、神秘性すら感じさせた。
ヒューゼルは、しかし髪の金色も瞳の青も、くすんでいる。
血の汚れを帯びている、とシェルミーネは感じた。
そして、秀麗な顔立ち。
アラム王子と瓜二つ、ではある。
少なくとも。今、王宮でアラム・ヴィスケーノ王太子として振る舞っている、あの青年と比べれば。
シェルミーネの知るアラム王子に、ずっと近い。
だが、ともシェルミーネは思う。
アイリ・カナンが、このヒューゼル・ネイオンという若者に心惹かれる事は、絶対にあり得ない、とも。
記憶を無くしている、というのが本当であるならば。
それによって、記憶以外のものも失っている、のであろうか。
だとすれば。
それを取り戻す事で、この無気力な青年とアラム王子を、結び付ける事も出来るのか。
ともかく。
ようやくと言うべきか、早くも、と言えるのか。
シェルミーネは、出会えたのだ。
「…………そう、ですのね。貴方が……」
ペギル・ゲラール侯爵に従い、この地へ来た。
ヒューゼルは先程、確かに、そう言った。
自分とミリエラが、宰相ログレム・ゴルディアックより与えられた任務。
その対象である人物が、目の前にいる。
「ヒューゼル・ネイオン殿……でしたわね」
シェルミーネは、言葉を選んだ。
自分とは一度、会話をしたきりだが、思い出せるか。
アイリ・カナンという名を、知っているか。
貴方はアラム・エアリス・ヴィスケーノ王子ではないのか、と訊いてしまうべきなのか。
ヒューゼルは、しかしシェルミーネに、何も言わせてはくれなかった。
「まあ待って下さい、お嬢さん。差し当たり、俺の事なんかはどうでもいい……本題に、入らないとね。俺が何で、こんな所へ来たのか」
無気力な声。
聞く者の心に響く重みも、聞く者の心を深いところへ誘う吸引力も、欠片ほども感じられない。
ただ、アラム王子と声が似ているだけだ。
この声では、人を引き込んでしまう事など出来はしない。
そうシェルミーネが思った、その時。
「聞け、叛乱軍の残党よ!」
ヒューゼルは告げた。
その声に、何かが宿った。あるいは、甦ったのか。
それは彼が、記憶と共に失ってしまったものの片鱗、であるのかも知れなかった。
「ここ王国南部の地に、旧帝国勢力を導き入れんとする貴公らの行動! 看過は出来ぬ。叛乱の準備を即、放棄すべし! 領主マレニード・ロンベル侯爵に恭順の意を示し、王国地方軍に帰属せよ! 本当に民を守りたいのであれば、そうせねばならぬ。頭で理解は、しているのであろうがッ!」
それは、しかし、すぐに消えた。
ヒューゼルは、頭を掻いた。
「…………と、まあ。ね……こんな感じで偉そうな命令、色々してた記憶もなぁ。無くは、ないんだよなあ俺……」




