第137話
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痛いのは、生きている証拠。
戦闘訓練で、古参兵が新兵を虐待する際、よく用いられる世迷い言である。
された事もある、した事もある、とリーゲン・クラウズは思い返していた。
(俺は…………死ぬ、のか……? 痛くない……全く、痛みを感じない……)
血を吐くほどの、負傷をした。
体内が、何カ所も破裂した。
気絶も出来ないほどの激痛が、身体の中で暴れ回っていた。先程までは。
やはり痛みは生きている証拠なのだ、とリーゲンは思ったものだ。
その激痛が、急速に消えてゆく。
痛覚が、破壊されたのか。
やはり自分は、死ぬのか。
安らぎが、全身を包み込んでいる。
自分は今、唯一神の御下へと召されるのか。
「……大丈夫、ですか?」
声をかけられた。
リーゲンは、目を開いた。
唯一神の御使い、としか思えぬほど神々しく可憐な姿が、そこにあった。
教会の法衣を愛らしく着こなした、幼い少女。
その可愛い両手から、リーゲンの全身へと、淡く白い光が降り注いでいる。
聖なる、癒しの光。
唯一神の加護が、実際的な力として発現しているのだ。
教会関係者と思われる、この幼い少女の手によって。
「俺を……助けて、くれたのか。君が」
リーゲンは、身を起こした。
痛みは、もはやない。傷は癒えている。
自分は、治療を受けたのだ。
唯一神の御下へ召される、ためではなく。
血生臭い地上世界で、戦い続けるために。
リーゲンは見渡した。
戦場だった。
ゴスバルド地方、とある山中。
自分らの野営地が、異形の怪物たちによって踏み荒らされる光景を、リーゲンは見回し、見据えた。
ひょろ長い四肢を伸ばし翼を広げたものたちが、忙しなく羽ばたきながら降下して来る。
樹木の如く絡み合った視神経で直立する巨大な眼球が、複数体。破壊光線として視認出来る眼光を、ひっきりなしに撃ち込んでくる。
臓物の塊のようなものの群れが、牙のある腸管をあちこちに伸ばし、暴れ狂う。
露出した頭蓋骨から火を噴き続ける巨体の魔物たちが、燃え盛る棍棒を振り立て、押し寄せる。
そんな襲撃を、兵士の一団が迎え撃っていた。
かつてはボーゼル・ゴルマー侯爵に仕えていた、叛乱軍の残党部隊。
破壊光線を盾で防ぎ、食らいついて来る腸管を剣で切り払い、空飛ぶものたちを弓矢で射落とし、巨大な相手は五人六人がかりで切り刻む。
全員どうやらリーゲンと同じく、唯一神の加護を身に受け、治療と身体強化を獲得している。
受けた傷は、余程のものでない限りは即、癒えて消える。
振るう武器は、怪物たちの肉体を容易く斬り裂き、穿つ。
「……凄いな、君は」
リーゲンは言った。
「今時の教会関係者にも、本当に力を使える奴がいないわけじゃあない……が、中でも君は別格じゃないか。ミリエラ・コルベム嬢だったな、礼を言う。ありがとう」
何も応えずミリエラ・コルベムは、じっとリーゲンを見つめた。
何か言おうとした、ようではある。
だがすぐにミリエラは、言葉を呑み込んでしまった。
その言葉が何であるか、リーゲンには、すぐにわかった。
「治してやった、助けてやった。だから言う事を聞け……戦の準備をやめろ、と」
左腕の盾から、リーゲンは短剣を引き抜いて投射した。二本、三本。
破壊光線を放とうとしていた直立眼球が、三体。
瞳孔の中心を短剣に穿たれ、破裂した。
「そういう事を、はっきり言えれば……なかなかのもの、なんだがな。お嬢ちゃん」
「……言えば、戦の準備を……やめて下さいますか」
ミリエラは言った。
「戦を、しなければいけない理由が……大人の方々には、あるのでしょう?」
「子供じみた理由が、な」
リーゲンは槍を拾い、突き込んだ。
ミリエラを狙って伸びて来た腸管の群れ、その発生源である怪物の肉体が、刺し貫かれて絶命する。
「俺たちは……ベレオヌスを、許しておくわけにはいかないんだよ聖女殿」
干からび崩れゆく屍を粉砕しながら、リーゲンは槍を引き抜いた。
「奴は、ボーゼル侯から全てを奪った。味方のふりをして、な……結果この王国南部の地が今、上手く治まっている。にしても、だ」
その槍を、リーゲンは投擲した。
「俺は、ベレオヌスを許せん。マレニード・ロンベル、ゲーベル父子にオーグニッド兄弟……どいつもこいつも、許しておけん」
空中から襲いかかって来た怪物が、二体。
まとめて一本の槍に刺し貫かれ、墜落し、ひょろ長い四肢をじたばた暴れさせながら力尽き、干からびて砕けた。
その間。
巨体がひとつ、こちらに突っ込んで来て、炎の棍棒を振り下ろす。
リーゲンもミリエラも、まとめて叩き潰すであろう一撃。
それを見据えながら、リーゲンは鎖を振るった。
「ここ王国南部は実質、ベレオヌスの支配下にある。乗っ取られた。それを……認めるわけには、いかないんだよ俺たちはっ!」
鎖の先端の鉄球が、炎の棍棒を打ち砕いた。
火の粉を蹴散らすように、リーゲンはなおも鎖を振るう。
「ベレオヌス・ヴィスケーノ! 奴がボーゼル侯から奪ったものを、俺たちは必ず取り戻す! そのためなら戦だって起こしてやる、旧帝国の連中だって利用してやる!」
炎を吐こうとする怪物の頭蓋骨を、鉄球が粉砕した。
頭部を失った巨体が、崩れ落ちてゆく。
「わかるか、ミリエラ嬢」
リーゲンは振り向き、言った。
「君はな、そういう事をしようって連中を助けてしまったんだぞ。自分の善意が、何を引き起こすのか……その歳で、考えられるものでもなかろうが」
「もしも貴方が、人を殺したら」
ミリエラが、じっと見つめてくる。
「……私、人殺しになってしまうんですね」
リーゲンを、責めようとしているわけではない。
ミリエラは、ただ見つめ、問いかけ、確認をしているだけだ。
その眼差しに、リーゲンは圧された。
そうだ、と答える事が、何故か出来なかった。
「おいおい。出来るのか? リーゲン殿」
破壊光線を刃で跳ね返しながら、笑いかけてくる者がいる。
「こんな小さな聖女殿を、人殺しにする事が……お前さん、出来るのか? もちろん出来てもらわないと困るわけだが」
「バルフェノム・ゴルディアック侯爵が、俺たちの後ろ盾になってくれる……という事は、そういう事なんだろうな」
「そういう事だ。なあ聖女殿、博愛主義も結構だが!」
クロノドゥールだった。
かなりの痛手を負っていたようだが、リーゲンと同じく、ミリエラに癒してもらったのだろう。
「いくら治してもらっても、殺し合いしか出来ないような大人どもは! もう放っておいた方がいい!」
義手は、すでに付け替えられている。
今は錨の発射装置ではなく、大型の刃である。
その一閃が、直立眼球たちを叩き斬ってゆく。
いくら斬っても倒しても、しかし怪物たちは一向に減らない。数を減らしたように見えない。
地上・空中に複数、描かれた魔法陣から、際限なく出現し続けている。
際限のない召喚が、今のマローヌ・レネクには可能なのだ。
それほど力あるものに今、彼女は肉体を乗っ取られている。
異形の肉体。
多関節の右腕が、蛇の動きで宙を泳ぎ、大気を切り裂き、毒牙の如き鉤爪でシェルミーネ・グラークを強襲し続ける。
バチバチと電光を帯びた鉤爪を、シェルミーネは舞うように回避する。
回避出来ぬものは、細身の長剣で防ぎ弾く。
容易にへし折られてしまいそうな刀身が、柔らかくしなって閃き、いくつもの斬撃の弧を空中に描き出す。
それら弧形の閃光が、帯電する鉤爪を、ことごとく打ち返しているのだ。
「貴方が、いずこのどなた様でいらっしゃるものか……全く、想像もつきませんけれどもっ」
シェルミーネの声に合わせ、ひときわ大きな閃光の弧が、描き出される。
細身の刃の、一閃。
電光の鉤爪を生やした右手は、滑らかに切断されていた。
「人ならざる方々は! 人の世のあれやこれやに、興味本位で御介入なさいます事……どうか、お控え下さいませ」
斬撃の弧は、そのまま消える事なく、シェルミーネの念を受けて発射されていた。
三日月の形をした、閃光の刃。
それをマローヌは、左腕……片方だけの巨大な翼で、防ぎ受けた。
白い羽根と、どす黒い血飛沫が散った。
翼は、切り裂かれていた。
閃光の三日月も、そこで力尽き、薄れて消える。
さらなる攻撃のため、シェルミーネは踏み込もうとする。
その動きをマローヌは、左眼で見据えた。
「その剣の、名前……」
頭蓋骨を圧し破り、巨大化を遂げた左眼球。
眼差しが、シェルミーネを襲う。
「殺戮の三日月を、白昼であろうと描き出す刃……」
物理的な力を有する、眼光。
極太の破壊光線が、シェルミーネを直撃していた。
「……残月、というのは如何か? シェルミーネ・グラーク嬢」
否、直撃ではない。
シェルミーネの眼前に、大型で分厚い光の盾が生じ、破壊光線を受け止めている。
鋭利な美貌を青ざめさせ、綺麗な歯を食いしばりながらシェルミーネは、眼前の盾に己の魔力を注ぎ込んでいる。
その盾が、ひび割れてゆく。
「くっ…………!」
「盾で、相手の魔力を吸収する。それが君の戦い方であったな? 私は、面白いと思う」
多関節の右腕が、左側だけの白い翼が、瞬時に再生を遂げていた。
バチッと帯電する鉤爪が、シェルミーネに向けられる。
「……さあ、吸収してみたまえ。出来るものならば、な」
「シェルミーネ様……!」
ミリエラが血相を変え、動こうとする。
その前に、クロノドゥールが動いていた。
「俺に任せろ、あの悪役令嬢を死なせはしない。グラーク家と、繋がりを作れるかも知れんからな」
立ち塞がった怪物の巨体を、炎の棍棒もろとも叩き斬る。
そこで、しかしクロノドゥールの動きは止まった。
黒い包帯のような覆面の隙間で、両眼が大きく見開かれている。
その眼差しの先では、マローヌの頭部が胴体からちぎれ、宙を舞っていた。
左眼球から迸っていた極太の破壊光線が、細く衰えて薄まり、消えてゆく。
眼光の残滓を涙のように引きずりながら、マローヌの生首は地面に落下した。
側頭部に、一本の矢が深々と突き刺っている。
これは、何を意味するのか。
人外のものと化した女の頸部を、弓勢だけで引きちぎった。
そんな射手が、存在するのか。
光の盾が、ぼろぼろと空中で崩れ消える。
シェルミーネは、呆然と立ち尽くしていた。
クロノドゥールと同じような眼差しを、向けている。
ゆっくりと歩み寄って来る、一人の若い男に。
「すいません、ええと……そいつ、どう見てもバケモノだし。撃ち殺しちゃって良かった、んですよね?」
気力が、全く感じられない声。
秀麗な顔立ちも、無気力そのものである。
金色の髪は、気品を感じさせなくもない。
歩兵の装いをした身体は一見、細く非力そうである。
その実、極限に近いほど無駄なく鍛え込まれているのが、リーゲンにはわかる。
「てめ…………ぇ…………」
クロノドゥールの声は、かすれていた。
「てめえは…………テメエはぁ……てめーはぁああああ……」
「え……と、どっかで会いました? すいません。俺、今ちょっと記憶なくて」
無気力な声を発しながら、その青年は右手で頭を掻いている。
左手に、奇怪な武器を携えている。
長弓。
両端に、小型の刃が取り付けられていた。
だからと言って、弓を白兵戦で用いる事など出来るのか。
「ペギル・ゲラール侯爵閣下に、連れられて来ました」
奇怪な弓を持つ金髪の青年が、頭を下げた。
「ヒューゼル・ネイオンと言います、けど……これ多分、本名じゃないです」




