第136話
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ある意味、自分は幸運なのかも知れない。
テスラー・ゴルディアックは、そう思う。
「皆、大切な誰かを失ったのか。それは気の毒に思うよ」
ひしゃげたまま倒れているマローヌ・レネクを、一瞥する。
今にも座り込んでしまいそうなシェルミーネ・グラークと、支えるが如く彼女に寄り添っているミリエラ・コルベムにも、一瞬だけ視線を向ける。
「僕は……誰も、失っていない。仇を討ちたい人間も、生き返って欲しい人間も、いないんだよ一人もね」
「そいつはおかしいな、若君様」
テスラーを背後に庇ったまま、クロノドゥールが言った。
「あんたは幼い頃、目の前でお父上を殺されているはずだが? 仇を、討ちたくはないのかね」
「あれは、ただ君が僕を助けてくれただけだよ」
テスラーは苦笑した。
「父に関しては……気の毒な事をした、とは思う。安らかに眠っていて欲しい。生き返って来られても困る」
『クランディア王妃が生き返っても、アイリ・カナン王太子妃が生き返ったとしても。困る人間は大勢いるだろうなあ』
そんな言葉を発しているのは、黒い炎の如く揺らめく、闇の塊である。
『テスラーよ。君にとって父親は、まあ……その程度の存在でしかないと。そういう事だな?』
「不孝と言えば、自分ほど親不孝な人間もいないだろうとは思うよ」
『人それぞれさ。生き返って欲しい相手など、いない方が良い。心穏やかでいられる。それは事実であろうし、な』
黒い炎が、いくらか不穏な揺れ方をした。
『だが私は……心穏やかでは、いられなくなってしまった』
「ギルファラル・ゴルディアックを……そこまでして、生き返らせたいのか」
『ギルファラルにとっては、アルス・レイドックが、そうであった。友の命を取り戻すため、彼は……まあ色々と、やらかしたようだ』
「その色々の一環が、僕であると。話を聞いていると、そういう事であるようだな」
『ギルファラルはな、魂の転生を試したのだ。まずは己自身で』
「僕が……大ギルファラルの、転生した姿であると?」
『己と同じ血を引く者……子孫の肉体でなければ、己の魂を宿す事は出来ない。大魔導師の血族ゴルディアック家には、魔力ある人間が久しく生まれてはいなかった。だがテスラーよ、君には』
「確かに、僕には魔力がある。ささやかなものだ。何百年も前の大魔導師と比べられるのは、何度も言うが迷惑極まる」
『迷惑かね』
「大迷惑だ。あの世にいる者に会いたいならば、あの世へ行ってくれ」
『ふふ……出来れば良いな、そのような事』
「僕はテスラー・ゴルディアックであって、ギルファラル・ゴルディアックではない」
『……そっくりだよテスラー。君は、ギルファラルに』
影なのだろう、とテスラーは思った。
この黒い炎は、何者かがこの場に落としている、影でしかない。
どこかにいる、その何者かが、じっと自分を見つめている。
それを、テスラーは感じた。
『私は、知らなければならない』
黒い炎が、燃え上がった。
『死せる者を蘇らせるために……ギルファラルが一体、いかなる手段を構築し、遺したのか。テスラーよ、君がその証であるならば、鍵であるならば』
闇が、影が、蛇の如く伸びて来た。
テスラーを、絡め取ろうとしている。
轟音が、響き渡った。
小さな筒が、宙を舞った。
クロノドゥールの右腕、鋼の義手から排出されたものである。
錨が、射出されていた。
黒い炎が、まるで実体あるもののように、錨を受け止めていた。
テスラーに向かい伸びかけていた蛇状の闇が、巨大な錨に絡み付いているのだ。
黒い炎のような影の塊が、錨を抱き締めている。
そのように、見えてしまう。
クロノドゥールが、息を呑んだ。
「こいつ……!」
『ふむ、なかなかの一撃だ』
その言葉に合わせ、影の一部がまたしても伸びた。
蛇、いや今度は鞭か。
『単なる質量に……隻腕の勇士よ、君の気力がしっかりと宿っている。これならば、我ら魔界の種族、そこそこ上位にある者たちにも、充分な痛手を与え得るだろう』
闇で組成された鞭が、クロノドゥールを直撃していた。
鎖が、ちぎれた。
赤い血飛沫と、白い光の飛沫が散った。
ミリエラ・コルベムのもたらした、唯一神の聖なる加護。
それに包まれているクロノドゥールの肉体は、闇の鞭に打ちのめされ吹っ飛びながらも、形を保っている。
だが生死は不明である。
地面に激突したまま、クロノドゥールは動かない。
テスラーの、声がかすれた。
「クロノドゥール…………!」
「奴は死なんよ。心配するな、若君殿」
言いつつ、テスラーの前に進み出て来たのは、リーゲン・クラウズである。
「あんたは逃げろ。我々がゴルディアック家の支援を受けるために、何としても……若君殿には、生きていてもらわねばならん」
「わかっている、けれど……」
そこまでしか言えないテスラーを残して、リーゲンは槍を構え、影の塊へと挑みかかる。
他の兵士たちが、それに続く。
ボーゼル・ゴルマーの残党部隊が、一斉攻撃を決行していた。
全員、ミリエラによる唯一神の護りを、身にまとった状態である。
聖なる加護を帯びた槍や長剣が、影の塊を多方向から猛襲する。
そして、弾き飛ばされた。
槍の長柄が、長剣の刀身が、黒い鞭に薙ぎ払われて折れ砕ける。
鞭のように宙を裂き、蛇の如くうねり暴れる、禍々しい黒色。
大量のそれらが、影の塊から溢れ出し、ボーゼル侯の残党部隊を叩きのめしていた。
血飛沫を、光の破片を飛散させ、兵士たちが吹っ飛んで行く。
吹っ飛ばされたリーゲンが、地面に激突しながら一転し、起き上がろうとして倒れ伏し、血を吐いた。
「やめろ……」
テスラーは、声を張り上げた。
「わかった、あなたに従おう! 僕に、大ギルファラルの生まれ変わりとして、何かをさせたいと言うのなら! やってやる、だから」
光が、一閃した。
一閃で、複数回の斬撃が繰り出されていた。
闇の鞭が、蛇たちが、鮮やかに切断されてゆく。
「難しいところ、ですわね。テスラー殿」
馬の尾の形に束ねられた金髪が、言葉に合わせるように舞い躍り、色艶を振り撒く。
それと共に、細身の長剣が動いているようであるが、テスラーの目では到底、追えない。
見えるのは、戦闘服をまとう肢体の躍動である。
所々に部分鎧の貼り付いた、肌の露出は無いに等しい戦闘服。
それでも、凹凸のくっきりとした魅惑の曲線を隠す事は出来ない。
しなやかに、獰猛に、牝豹の如く躍動する肢体。
その周囲に、斬撃の弧が幾重にも生じ、黒い炎を切り刻んでゆく。
「貴族たる者、無様であってはならない。一方……無様に地を這い、生き延びなければならない時はある。今が、そうだと思いますわ」
闇の破片が、飛び散り続けた。
「……お逃げなさいませ、テスラー・ゴルディアック殿」
ひときわ力強く、シェルミーネ・グラークは踏み込んでいた。
斬撃から刺突への、移行。
細身の魔剣が、光に変わった、ように一瞬テスラーには見えた。
その光が、影の塊を、黒い炎を、まっすぐに刺し貫く。
魔剣の切っ先が、影の中核……人体で言えば心臓の辺りを貫通したのだ、とテスラーは思った。
人体でもない影の塊に、そのような都合の良い心臓部が存在するものなのか、とも。
影の塊は、ゆっくりと消滅していった。
細身の刀身を眼前に立て、シェルミーネは言う。
「まだ終わっておりませんわよテスラー殿。早く、お逃げなさいな」
その言葉通り、と言うべきなのだろうか。
マローヌ・レネクが、よろりと立ち上がりつつあった。
クロノドゥールの錨にへし折られた肉体が、メキメキと音を立てて自己修復を遂げてゆく。
折れた骨が、潰れた臓物が、再生しつつある、異形の肉体。
その全身から、闇が、影が、黒い炎が、溢れ出した。
「ヴェノーラ・ゲントリウスより受け継いだ力……使いこなしているようだな、シェルミーネ・グラーク」
それは、マローヌの口から発せられた、マローヌの声ではあるが、マローヌの言葉ではなかった。
「君の本質は、やはり剣士なのだな。だから、その力を……剣の形に収め、安定させる事が出来た」
この場に影だけを落としていた何者かが、その影を失い、今はマローヌの口を用いて、シェルミーネに言葉を届けているのだ。
「その剣……名前が必要だと思わないか、シェルミーネ・グラークよ」
「いずれ、適当に考えますわ」
「貴女は」
自分の声が上擦ってゆくのを、テスラーは止められなかった。
心臓が、高鳴る。
この悪役令嬢と、まともに会話が出来なくなりつつある。
「……何故、逃げない? シェルミーネ・グラーク……僕を守って欲しい、とは確かに言ったが」
「今の私は、この地の治安を守らなければならない身」
油断なくマローヌと睨み合ったまま、シェルミーネは微笑んだ。
こちらを向いてはくれないのか、とテスラーは思った。
自分に微笑みかけては、くれないのか、と。
「それに、テスラー殿……貴方に恩を着せる事で、バルフェノム・ゴルディアック侯爵との御縁を作りたいという下心も。無くは、ありませんわね」
その笑顔を。
戦う姿を、もっと見たいから。
自分は、この場から逃げられないのだ、とテスラーは思った。




