第134話
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ずっと、見られていた。
自分がシェルミーネ・グラークと共に、今ここに現れた時から、ではない。
アドランの帝国陵墓から、ずっと。
自分は、観察されていたのだ。
『久しいね、ミリエラ・コルベム』
そんな声を発している何者かは現在、この世界には居ない。
この世界に在るのは、影である。
マローヌ・レネクの隣で、燃え盛る炎の如く揺らめく、闇の塊。
それが、その何者かの影なのだ。
『いや失敬。君と会話をするのは、初めてか』
「あなたは……」
名を訊いたところで、まともに答えてくれるわけはない、とミリエラ・コルベムは思った。
「……あなたは、この世に存在する事が出来ない御方……なのですね。私たちの、ようには」
『マローヌ・レネクのような、召喚士の力を借りなければね』
「それなのに……無理をなさってまで、こうして私にお声をかけて下さいます。何故、なのでしょう……」
『私は君に、興味がある』
この世に影を落とす何者かが、言った。
『あの陵墓に封じられていたものを、解き放つ……その最初のきっかけを作ったのは君だよ、ミリエラ・コルベム。興味も湧こうというもの』
口調が、熱を帯びたようだ。
『この世界は、滅びてしまえば良い……愛する者の失われた世界など、要らない。あの時、君は心からそう思っていたね。小さな聖女よ』
「私は…………」
母が死んだ。
両親が仲直りをしてくれる事など、もはや未来永劫あり得ない。
だから、そんな世界は滅びてしまった方が良い。
ミリエラ個人の、身勝手な思い込みである。
『わかるよ。本当に、わかる』
その身勝手な願いを、この誰かは、本当にわかってくれているのだろう、とミリエラは思った。
『我が友ギルファラル・ゴルディアックも、思ってしまったのだ。アルス・レイドックのいない世界など、滅びてしまえば良い……と』
「あなたは……大魔導師ギルファラル・ゴルディアック様の……?」
問いかけて、ミリエラは気付いた。
自分は、その問いかけを、口に出してはいない。
先程からずっと、頭の中で言葉を組み立てているだけだ。
『友、という事にしておいて欲しいな』
それだけで、この相手には通じてしまう。
会話が、成立してしまう。
『私はね……小さな聖女ミリエラよ、君とだって友達になりたいんだ』
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バルフェノム・ゴルディアックを、生かしておいてはならない。
客人として現在このゴスバルド地方に滞在中のペギル・ゲラール侯爵は、そう語っていたものだ。
バルフェノムが存命であれば、いずれ必ず、ここ王国南部の地にゴルディアック家の支配勢力が復活してしまうだろう、とも。
ペギル・ゲラールは元々、王国最南の地ザウランの領主であり、南海貿易の利権を一手に握っていた。
それをゴルディアック家に狙われ、奪われそうになり、盟友ボーゼル・ゴルマー侯爵を頼る事となったのだ。
そして、叛乱が起こった。
南方におけるゴルディアック家の支配勢力は、ボーゼル侯によって一掃された。
一掃されたものが、蘇ってしまう事を、ペギル侯は警戒している。
現在ここゴスバルド地方では、バルフェノム・ゴルディアック侯爵の派遣した者たちが暗躍中である。
彼らはボーゼル・ゴルマーの残党と結託し、あの叛乱に匹敵しうる事態を引き起こさんとしているのだ。
ゴスバルド地方領主マレニード・ロンベル侯爵は、そう見ている。
だから自分は、このクロノドゥールという男を殺さなければならない。
王国南部の安定のため、マレニード侯やペギル侯に、どこまでも協力するのであれば、だ。
「おい悪役令嬢……あんた、いらん事を考えてないか」
大型の刃を備えた義手で、どちらかと言うと防御に近い構えを取りながら、クロノドゥールが訊いてくる。
「俺が死にかけてる間に、殺しておけばよかったものを……それをしなかった理由。俺なりに考えてみたんだがな」
「後になさいませ。今はね、いくらか不本意であっても……共闘をしなければならない時、でしてよ」
細身の長剣を、シェルミーネ・グラークは微かに揺らめかせた。
クロノドゥールという剣呑なる男と、共闘しなければならないほどの敵。
シェルミーネの視界内で、左眼球のみ肥大化した美貌をニヤリと歪めている。
召喚士マローヌ・レネク。
その傍らに、彼女が召喚したのであろうものが在る。
黒い、炎の塊。
今のところ、そのようなものとして視認が出来ている。
先程はシェルミーネに対し、親しげに言葉を発していたそれは、今は無言である。
無言のまま、この場の誰かと意思を通じ合っている、ように思えてしまう。
ミリエラ、ではないのか。
どこかから影を落とす何者かが、じっとミリエラ・コルベムに眼差しを向けている、ようにシェルミーネには感じられてしまうのだ。
クロノドゥールが突然、言った。
「シェルミーネ・グラーク。あんたの目的は……俺を生かし、俺を利用し、俺を手繰って、バルフェノム侯爵閣下に近付く事。違うか?」
シェルミーネは、答えなかった。
ただ、思い返すのみである。
初対面の際にバルフェノム・ゴルディアック侯爵が、口にしていた言葉を。
まあしかし安心しておりますよ私は。アイリ・カナン・ヴィスケーノ王太子妃殿下も今や、煌びやかな王侯の暮らしに、すっかり染まってしまわれた。ありふれた貴婦人です。あれならば……見る者全てを味方に引き入れてしまう、などという事もありますまい。そう、あれで良いのですよ。
煌びやかな暮らしに染まった、ありふれた貴婦人で良い。
見る者全てを味方に引き入れてしまう王太子妃で、あってはならない。
そこまでバルフェノム侯爵は、はっきりと言ったわけではない。
だが心の中に、あったとしたら。
見る者全てを味方に引き入れてしまう危険な王太子妃アイリ・カナンを、この世から消さねばならない……という思いが。
(バルフェノム・ゴルディアック……まさか、あの男が……?)
その疑念は、ずっとシェルミーネの心の奥底で渦を巻き、くすぶっている。
「クロノドゥール殿……」
問いかけを、シェルミーネは口にしていた。
「ザーベック・ガルファという……貴方と同じく、殺し屋さんをしていらっしゃる方を、ご存じありませんかしら?」
「知っている。ザーベック・ガルファに、リオネール・ガルファ……俺たちの業界じゃ、有名な兄弟だよ」
当たり障りのない事を、クロノドゥールは教えてくれた。
あのザーベック・ガルファが、クロノドゥールと同じ主に仕える暗殺者であったなら。
シェルミーネはそう思ったのだが、仮にそうであったとしても果たしてクロノドゥールが、教えてくれるものであろうか。
ザーベック・ガルファが、自分と同じく、バルフェノム・ゴルディアックに仕えていた……などと。
バルフェノム侯の命令で、アイリ・カナンの命を狙った……などと。
ザーベック・ガルファの名前を出してしまったのは時期尚早であった、かも知れないとシェルミーネが思いかけた、その時。
「意外な奴の名前を……こんな所で、聞くものねえ」
マローヌ・レネクが、言った。
「うちのバカ猿……そう、リオネール・ガルファをね、私ったら優しいから助けてあげたいわけよ。ええと、まだ生きてるわよね? あいつら。もう死刑にされちゃったわけじゃあ」
「……貴女のお仲間はね、考え得る限り最良の待遇を受けておられますのよ」
王宮の地下牢で、とりあえず衣食住は保証されている者たちの有り様を、シェルミーネは思い返した。
「リオネール・ガルファ殿は……マローヌ嬢、貴女と同じようなものに成りかけていらっしゃいますわ」
「……そうね。ヴェノーラ・ゲントリウス陛下の魔力を、ちょっとだけ吸っちゃったのよね。あのバカ、魔法の素養も無いくせに」
マローヌが、鼻で嘲笑う。
「ねえ、シェルミーネ嬢? 貴女みたく、器用にやれたら良かったのにね……あのバカ猿じゃ無理かしらね」
帝国陵墓より溢れ出したヴェノーラ・ゲントリウスの魔力を、ルチア・バルファドールはその身で吸収し、人外のものと化した。
シェルミーネは、こうして細身の長剣として実体化させ、辛うじて制御下に置いた。
リオネール・ガルファには、そのような事は出来なかった。
彼は今、人間ではないものに変わりかけた状態で力尽き、力蘇る事もなく地下牢の中で、物言わぬ肉塊と成り果てている。
「ま、いいわ。あの猿は、生きてたら助けてあげるとして……他の二人、クルルグ君とクリスト司祭だけはね、何としても助けてあげたいの」
マローヌが、じっとシェルミーネを見つめてくる。
「そこでシェルミーネ嬢? ちょっと、取引のお話がしたいわ。貴女、王様とか宰相様とか、その辺りの人たちに顔が利くのよね? クルルグ君たちの釈放とか、何とかならないかしら」
「なるわけが、ありませんわ」
シェルミーネは、即答した。
「あの方々は……いえ、貴女もそうですのねマローヌ嬢。畏れ多くも、国王陛下の御身を拉致強奪なさいましたのよ? 裁きも行わずに釈放など、叶うわけがありませんわね」
溜め息が、溢れ出した。
「そう……ルチア・バルファドールの一味をここで発見してしまった以上。私と致しましてはね、貴女を捕縛しなければいけませんのよマローヌ・レネク。まったく、お仕事を増やさないでいただきたいものですわ」




