第133話
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「シェルミーネ・グラーク嬢」
今は明らかに人間ではない、だが以前は人間だったのであろう女が、語りかけてくる。
「ご挨拶をするのは、初めてよね。私、マローヌ・レネクと申します」
「お見かけした事は、ありますわね。お互いに」
シェルミーネ・グラークは、会話に応じた。
「アドラン地方、帝国陵墓にて」
「何だか、懐かしいです。もう」
「あの時は……貴女、もう少し人間に近いお姿をしていらしたように思いますわ。マローヌ・レネク嬢」
ヴィスガルド王国、ゴスバルド地方。
逆賊ボーゼル・ゴルマー侯爵の残党部隊が野営する、とある山中に、マローヌ・レネクは出現していた。
その姿をシェルミーネは、油断なく観察した。
白色のローブはズタズタに裂け、単なるボロ布と化している。
その下の裸身は、所々で皮膚が甲殻化しており、複数の部分鎧を貼り付けているようにも見える。
そんな身体の左半分は白いボロ布で包み隠され、左腕の形状がわからない。
右腕は、蛇、あるいは生きた鞭のようであった。
身長の倍近く伸びながら関節を増やし、禍々しくうねり、先端の鉤爪をバチバチと発光させている。
電光だった。
「……私、人間ですよ? シェルミーネ嬢」
そんな事を言いながら微笑む顔面も、歪である。
栗色の髪に囲まれた、美貌。
その中から左の眼球だけが、頭蓋骨の一部を粉砕しながら巨大化し、ぼんやりと光を孕んでいるのだ。
「黒薔薇党の連中とは違うんです。私、変なもの埋め込まれて人間やめた、わけじゃありませんから」
右手で抜き構えた細身の長剣を、シェルミーネは一閃させた。
攻撃が、来たのだ。
多関節の腕が、大蛇の如く伸びてシェルミーネを急襲する。
電光を帯びた鉤爪が、細身の刀身とぶつかり合う。
火花が散った。
激烈な手応えを、シェルミーネは剣の柄と一緒に握り締めた。
普通の剣であれば、叩き折られていたところである。
だが、この剣は。
外見こそ、細く優雅な形に鍛造された鋼の刃ではあるが、そもそも材質が金属ではない。
帝国時代の、とある強大な魔法使いが遺した、魔力なのである。
その刃を、シェルミーネは縦横に、斜めに、振るい続けた。
「貴女ね。立派に、人間をやめていらっしゃいますわ」
電光の鉤爪が、様々な方向から襲いかかって来る。
全ての襲撃が、細身の長剣に跳ね返され、空中あちこちに火花を咲かせた。
マローヌの右腕は、怒り狂った毒蛇の如く伸び暴れ、間断なくシェルミーネを強襲する。
ことごとく斬撃で迎え撃ち、だが切り落とす事は出来ず、ひたすら打ち返すしかないまま、シェルミーネは苦笑して見せた。
「このような事。人間では、出来ませんもの。ね、マローヌ嬢……私、貴女のような方々を、もう嫌になるほど見慣れておりますのよ」
「……同じに、見えるわよね。あの連中と私」
言葉に合わせ、マローヌの左眼が発光を強めた。
眼光が、迸っていた。
魔力の破壊光線。
「あいつらよりは、マシな生き物のつもり、だけどねええっ!」
シェルミーネは無言のまま、防御を念じた。
光の盾が、眼前に生じた。
シェルミーネの乏しい魔力が、盾の形を成したもの。
そこに、細身の長剣から、絶大な魔力が流し込まれてゆく。
広さと分厚さを増した光の盾に、破壊光線が激突した。
シェルミーネは、歯を食いしばった。
「このまま……吸収…………ッ!」
相殺が、爆発が、起こった。
破壊光線も、光の盾も、砕け散っていた。
シェルミーネは吹っ飛び、地面に激突しながら受け身を取り、どうにか起き上がった。
マローヌの言う通りだ、と思わざるを得なかった。
これまでシェルミーネが目にしてきた者たちと、彼女は違う。根本から異なる。
悪しき力を外から注入されて、人間ではないものに変じた……わけではないのだ。このマローヌ・レネクは。
力の源と言うべき何かを、己の体内ではない、どこかに存在させている。
その何か、何者かに、操られているのか。
否。
操り人形と化す、寸前のところで、マローヌは踏みとどまっている。
細身の長剣を、シェルミーネは握り締めた。
この武器が無ければ。自分は、マローヌ・レネクには勝てない。
帝国陵墓にて、古の大皇妃より賜った、この魔剣でなければ。
今のマローヌ・レネクと、まともに戦う事すら出来ないのだ。
自分もまた、魔剣の操り人形と化す、寸前のところで踏みとどまらなければならない。
そう思い定めたシェルミーネの近くで、上背のある人影がユラリと立ち上がっていた。
「まさか……とは思うが……」
黒衣の長身は血まみれで、その血生臭さだけでも重傷とわかる。
包帯の如く巻かれた黒覆面の隙間で、両眼がギラリと血走り、シェルミーネを睨んだ。
「……俺たちを……助けに来てくれた、わけでは……ないよなぁ? 悪役令嬢よ」
「当然。事と次第では私、この場で貴方がたを討たなければいけなくなりますわ。クロノドゥール殿」
負傷した長身は、自力では立てず、支えられている。
クロノドゥールに肩を貸している、見るからに非力そうな青年を、シェルミーネは見据えた。
「それに……テスラー・ゴルディアック卿」
「シェルミーネ嬢、貴女は……」
テスラーが、言葉と眼差しを返してくる。
「この地で……領主マレニード・ロンベルの手先となり、走狗となり、働いているのか。グラーク家の令嬢ともあろう人が」
「グラーク家からは私、ほとんど勘当に近い扱いを受けておりますから。働かないと、生きていけませんのよ」
前方のマローヌを油断なく見つめながら、シェルミーネは言った。
「王国南部の地において……旧帝国系の方々が、こうして暗躍にも等しい事をしておられる。放置しては、おけませんわ」
周囲では、この場を満たしていた異形の怪物たちが、兵士たちによって殲滅されつつあった。
ボーゼル・ゴルマーの残党部隊。
さすがの精強さである、とは言える。
この精兵部隊が今、テスラー及びクロノドゥールによって、旧帝国系勢力に組み入れられつつあるのだ。
殺すなら今だ、とシェルミーネは思った。
クロノドゥールが負傷している今をおいて、この両名を始末する好機はない。
シェルミーネが、そう思った時にはしかし、クロノドゥールの長身は白い光に包まれていた。
癒しの光だった。
「戦争の準備をするのは……どうか、おやめ下さい」
小さな聖女が、歩み寄って来る。
唯一神教会の法衣を可憐に着こなした、幼く小柄な肢体。
その全身から、神聖なる力が溢れ出し、兵士たちに加護をもたらしている。
その加護が、クロノドゥールにも及んだのだ。
傷が、癒えてゆく。
「……参ったな。また、俺を助けてくれるのか」
失われた右腕、以外の全身を治療する白色光の中で、クロノドゥールは呻いた。
「俺に恩を着せよう、と言うなら無駄な事だぜ。お嬢さん……俺たちはな、戦争の準備をやめるわけにはいかないんだ。やめさせたいなら、ここで俺たちを始末しておく事だ」
「それで諦めて下さるような方ですの? 貴方の主、バルフェノム・ゴルディアック侯爵閣下は」
シェルミーネは問いかけた。
「仮に私が、ここで貴方がたお二人を討ち取ったところで」
「我が祖父バルフェノムは、意に介さないだろう。クロノドゥールや僕なんかより、ずっと手強く悪質な者を、この地に送り込んで来る。王国南部における、旧帝国貴族の……ゴルディアック家の支配を、復活させるために」
テスラーは言った。
「祖父の配下には……僕たちの代わりが、いくらでもいる。それが、旧帝国系貴族というものだよ」
「……手強く悪質な方々を、片っ端から討ち取らなければならなくなる。最悪に近い事態ですけれど、想定しておくべき。ですわね」
シェルミーネは、微笑んで見せた。
「……クロノドゥール殿。ミリエラさんはね、貴方がたに恩を着せようなどとは考えていらっしゃいませんわ。ただ」
ミリエラ・コルベムを背後に庇い、シェルミーネはマローヌと対峙した。
「いくらかでも、負い目のようなものがおありなら……こちらのマローヌ嬢を無力化する、お手伝いを。していただけると助かりますわ」
『無駄だよ。君たちでは、このマローヌ・レネクには勝てない』
声がした。
それは、マローヌ・レネクの声ではなかった。
『何故なら、私がいるからだ』
「何者…………!」
シェルミーネは、息を飲みながら声を発した。
何者も、いない。
姿は見えない。
いや。
うっすらと黒い、揺らめくものが、マローヌの傍らには確かに存在している。
闇の塊。あるいは、黒い炎。
または、影。
シェルミーネには、そのように視えた。
『君……シェルミーネ・グラークと、いうのか』
どこかにいる何者かが、この場に影を落としている。
言葉を、発しながらだ。
『その剣……そうか、かわいそうに』
「…………何処の何方かわからない御方より私、哀れみを賜ってしまいましたわ」
炎の如く揺らめく影を、シェルミーネは睨み据えた。
この眼差しが、言葉が、影を通じて本体に届いているのだろうか。
「人前に姿を現せない方々の方が、私に言わせれば、ずっとかわいそう。でしてよ」
『あっははははは、耳が痛い。どうにもね、隠れてコソコソとやる生き方が身に染みてしまって。これではいけないと、思い始めているところさ』
笑い声が、耳に心地良かった。
『かわいそう、と言うのはねシェルミーネ・グラーク。君は、認められてしまったのだよ……ヴェノーラ・ゲントリウスという、この世で最も悪質でおぞましい支配者に』




