第123話
●
「悪役令嬢シェルミーネ・グラーク。こんな場所に、あんたがいる事……俺は、バルフェノム様に報告しなければならん」
言葉に合わせ、クロノドゥールの長身が揺らめいた。
風に吹かれた、草のように。
破裂音を発する風。
空気を打ち裂く、鞭の一撃だった。
「結果、どういう事になるのか……あんたの行動に対し、何かしら働きかけをなさるのかどうかは、バルフェノム様がお決めになる事」
蛇の如く宙を泳ぐ鞭の嵐を、クロノドゥールは次々とかわす。
黒装束の長身が、敏捷に幻惑的に揺らめき続ける。
その周囲で、荒れ狂う鞭は空気を切り裂き、破裂音を轟かせる。
「この場で、あんたに危害を加えるつもりは無いと。そういう話だよ悪役令嬢殿」
言いつつクロノドゥールは突然、回避から攻撃へと転じていた。
黒い長身が超高速で躍動し、いくつもの残像を生む。
大蛇の如き鞭が、それら残像を全て薙ぎ払う。
その時には。
クロノドゥールは、鞭を振るう大男の眼前にいた。
鞭の間合いは、失われていた。
「だから、邪魔をしないでもらいたい!」
クロノドゥールの右腕が、一閃した。
鋼の義手。そこから伸びた、大型の刃。
その斬撃にマレニード・ロンベル侯爵は、もう一つの得物で応戦した。
右手で鞭を休ませたまま、左手の剣を振るう。
短めだが厚みのある刀身が、義手の刃を受け流す。
「出来れば、このまま! 見て見ぬふりをして立ち去ってはくれないか!」
受け流された刃を、クロノドゥールは別角度から一閃させる。
その斬撃が、しかし光の盾にぶつかり、止まった。
マレニードが、左手の剣を振るう。
短く分厚い刃が、同じく光の盾に激突し、クロノドゥールには届かなかった。
光の盾が、二枚。
殺し合う男二人の間に生じて浮遊し、各々の刃を止めていた。
男二人が、こちらを睨む。
「見て見ぬふりを……してはくれないのか?」
クロノドゥールが、まずは言う。
「男同士の、くだらん殺し合いに……やんごとなき御令嬢が、介入をしてしまうのか」
「くだらない殺し合い、とは思っておりませんわ」
細身の長剣を構え、光の盾を制御操作しながら、シェルミーネ・グラークは言い放った。
ゴスバルド地方、木立の多い原野である。
木陰に身を潜めている者たちを、シェルミーネは見やった。
「そのような方々を伴ってまで……クロノドゥール殿。貴方は、マレニード卿のお命を狙わねばならない。それが、お仕事なのでしょう?」
兵隊、ではない。
クロノドゥールの義手を整備する、技術者の一団。
まずは、この者たちを皆殺しにする必要があるだろう。
クロノドゥールという剣呑極まる男の力を、少しでも削ごうとするのであれば。
思いつつ、シェルミーネは言った。
「殿方のお仕事、蔑ろにする気はありませんわ」
「……アナタも、お仕事の最中なんじゃないの?」
マレニードが、牙を剥くように呻く。
「あたしを助けてくれた、つもり? ねえ悪役令嬢……アンタが宰相閣下から賜ったお仕事には、こんな余計な手出しまで、含まれちゃうのかしら」
「貴方とクロノドゥール殿。お腕前は、ほぼ互角と見受けましたわ」
判断した事を、正直に、シェルミーネは述べた。
「マレニード卿が見事、クロノドゥール殿をお討ちになるか。その逆となるものか……不確かである以上、私も介入いたしますわよ? この地をしっかりと治めていらっしゃる御領主様に、死んでいただくわけには参りませんもの。民の暮らしを守るための介入。宰相閣下にいただいたお仕事の一環ですわ、もちろん」
語りつつ、細身の長剣を眼前に立て、攻撃を念ずる。
光の盾が、二つとも砕け散った。
破片が、無数の細かな光の矢となって、クロノドゥールに降り注ぐ。
鮮血の霧が、散った。
黒衣の長身が、ズタズタに穿たれて吹っ飛び、倒れ、血飛沫をぶちまける。
「クロノドゥール……!」
技術者の一人が、木陰から飛び出そうとする。
「若君様、来るな!」
細かい光の矢が全身あちこちに突き刺さった状態で、クロノドゥールはしかし生きており、血を吐きながら叫んでいる。
致命傷、ではない。今のところは。
噴出する血の量は多く、早急な手当てが必要ではある。
シェルミーネが、そう見立てた瞬間。
クロノドゥールの全身で、突き刺さった光の矢が、全て消え失せた。
ズタズタに刻み込まれた傷も、拭い去ったように癒えて消滅した。
一人の幼い聖女が、シェルミーネの傍らで小さな片手をかざし、神聖なる力をクロノドゥールに投げかけたところである。
「唯一神の……癒しの御業、か……」
若君様、と呼ばれた人物が言った。
「……礼を、言うべきなのだろうな」
「要りません。それより、もうやめて下さい」
ミリエラ・コルベムが、この場の男たち全員に訴えかける。
「くだらない殺し合い、ではないにしても……殺し合いは、駄目だと思います」
「……俺みたいな奴が一人、死ねば……この世から、いくらかは殺し合いが無くなる。なのに助けてしまうのか、小さなお嬢さん」
治療された身体を、クロノドゥールはゆらりと立ち上がらせた。
さりげなくシェルミーネは前に出て、ミリエラを背後に庇った。
血染めの黒覆面の下で、クロノドゥールは笑ったようである。
「傷を、治してしまう人材……真っ先に殺しておくべき、と思うが若君様はどうかな」
「……もうやめろ、クロノドゥール。君は傷を負わされ、なおかつ治療された。相手の掌の上という事だ。勝ち負けを言えば、明らかに負け。ここは退くべきだと思う」
「若君様、ですのね。貴方」
シェルミーネは問いかけた。
「バルフェノム・ゴルディアック侯爵の忠勇なる尖兵クロノドゥール殿が、若君と呼ぶ……貴方は、一体」
「僕はテスラー・ゴルディアック。バルフェノムは祖父に当たる」
年齢は、シェルミーネとそう違わない。
まだ少年と呼べる、若い男。
見ればわかる。武の心得は、無いに等しい。
が、いくらかの魔力が感じられる。
「僕たちは退却する……シェルミーネ・グラーク嬢、ここは見逃してもらいますよ」
「あらあら、それはないでしょう坊やたち。うふふ」
マレニードが、鞭を振るった。
「領主の命を狙っておきながら、逃げられると思っちゃうなんて……」
その鞭が、しかしクロノドゥールやテスラー・ゴルディアックを襲う事はなかった。
矢が、二本。三本。
マレニードに向かって飛来し、鞭に薙ぎ払われて折れ散った。
単独の射手、ではない。
武装した兵士の一団が、木陰に潜んでいる。
百名は優に超える部隊である。
練度も、かなりのものだ。
取り囲まれている事に、シェルミーネが今ようやく気付いたほどである。
「貴公の命を狙うのに……逃げられるだけの準備を、整えておかぬわけがなかろう? マレニード侯」
指揮官、と思われる人物が、進み出て来た。
三十代と思われる、特徴に乏しい男。
「レニング・エルナード伯爵……」
マレニードは呻いた。
「迂闊だったわ。誰もいない村に住み着いて、つまらない事をしているだけの集団……と思っていたのに。こんな兵力を、集めていたなんて」
「旧帝国の支持者はな、貴殿らが思うよりもずっと多いという事だ。そういった勢力を味方に引き入れるのが、今の私の役割よ」
レニング・エルナード伯爵は、言った。
シェルミーネは、聞き咎めた。
「味方、とおっしゃるの? これほど大勢の、お味方を集めて……貴方がたは一体、何をなさろうと」
「我々はな、まずはボーゼル・ゴルマーによって全てを奪われた」
レニングの言葉に合わせ、木陰の弓兵たちが一斉に、自分に狙いを合わせるのをシェルミーネは感じた。
「奪われたものが、ゴルマー家からベレオヌス公へと引き継がれた……許しておけると、思うのか」
「……なぁるほど、ね」
マレニードが、ニヤリと獰猛に笑う。
「旧帝国系の方々による、盛大な巻き返し。それがバルフェノム侯の目的なわけ」
「旧帝国貴族は、いくら虐げても許される。旧帝国貴族からは、いくらでも奪ってよい……貴公らに、その思いが微塵も無いと言えるのか」
レニングの口調が、暗く燃え盛る情念を宿した。
「我らは、奪い返す。ただ……この場は、退こう」
「おい、勝手に決めるなよ」
クロノドゥールが、激昂しかけている。
テスラーが、宥めた。
「マレニード侯を討ち漏らしたのは、君の責任ではない。グラーク家の令嬢までもが、この場にいた……完全な、想定外の事態だ。出直すしか、ないだろう」
「若君様!」
「この場でマレニードを殺すのは不可能だ。兵士の犠牲も出る」
はっきりと告げたのは、レニング伯爵である。
「……バルフェノム侯の役に立ちたいという気持ちは、わかる。だがクロノドゥールよ、貴公の役目は領主の殺害ではなかろう? 私のような者たちと接触し、バルフェノム侯に味方する大勢力を結成しておく事だ。間違っては、ならんぞ」
「……クロノドゥール。君は、こんな所で死ぬわけにはいかないだろう?」
テスラーが、クロノドゥールの右腕……鋼の義手を、そっと撫でた。
「討つのだろう? 右腕の、仇を」
「…………そうだ、俺は殺す」
叫びを、絶叫を、咆哮を、押し殺したような呻きであった。
「……必ず…………アラム・ヴィスケーノを……」
何だ、とシェルミーネは思った。
クロノドゥールは今、一体、誰の名を口にしたのだ。
「お待ちなさい……!」
動きかけたシェルミーネに、大量の矢が降り注ぐ。
細身の長剣を縦横無尽に振るい、シェルミーネは全て切り払った。ミリエラを守りながらだ。
その間。
クロノドゥールは、姿を消していた。
テスラー・ゴルディアックと、技術者たちも。
レニング・エルナード伯爵と、兵士たちも。
一人残らず、この場からは消え失せていた。




