第109話
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凄まじい力で、胸ぐらを掴まれた。
やはり熊のような男だ、とガロム・ザグは思うしかなかった。
「このクソガキがぁ……」
牙を剥くように、ゼノフェッド・ゲーベルが呻く。
間近から、睨み据えてくる。
凶暴性そのもののような眼光を、ガロムは正面から受け止めるしかなかった。
目を逸らせてはならない。
睨み返しても、ならない。
怯えてはならず、敵対的になってもいけない。
息を呑んだまま、ただ正面から眼差しを返す。
するべき事は、それだけだ。
王弟ベレオヌス・シオン・ヴィスケーノ公爵の私邸。
その庭園に、王弟公爵の私兵部隊は集合していた。
副隊長ゼノフェッド・ゲーベルが、新兵ガロム・ザグに対し、何らかの懲罰を執行せんとしている……ように見える光景を、他の兵士たちが見守っている。
一人が、進み出て来た。
「まあまあ、副隊長」
ジェキム・バートンだった。
「こいつ頑張りましたよ、本当に。ゲトルとドクは確かに死んじまいましたけど、別にガロムのせいでもなし」
「んな話をな、してるワケじゃあねえ……」
ゼノフェッドは言った。
至近距離からガロムを見据える両眼が、さらに獰猛な輝きを放つ。
「ゲトルとドクは……何で、死んだ? おいガキてめえ、説明してみろ」
副隊長。
新兵にしてみれば、専制君主にも等しい上官に、問いかけられたのだ。
答えなければならない。
嘘も、偽りも、忖度もなく。
それで懲罰を受けるのであれば、仕方がない。
思い定め、ガロムは言った。
「……運が、悪かったから……だと思います。お二人とも、不運でした……」
「…………ま、そういう事ったな」
ゼノフェッドは、ガロムの胸ぐらを解放してくれた。
新兵である自分が、足を引っ張ったから。
自分が、至らなかったから。
二人の先輩を、守れなかった。助けられなかった。
自分のせいで。
そんな答えを口にした瞬間、間違いなく自分は、殴り飛ばされていただろう。
思いつつガロムは、よろめき、踏みとどまった。
「ゲトルとドクの穴埋めは……てめえがやれ、ガロム・ザグ」
ゼノフェッドは言った。
「そのくれえ出来る奴だってのは、まあ認めてやる」
「……ありがとう、ございます」
ガロムは、頭を下げた。
それなりの働きを示した、という事には、なるのだろうか。
ゴルディアック家の大邸宅において、いくらか過酷な任務を遂行した。
成功か失敗かを言うならば、失敗であろう。
身柄確保の対象であったカルネード・ゴルディアックを、死なせてしまったのだから。
長老ゼビエルをはじめ、ゴルディアック家の主だった人間は、ほとんどが死亡した。
少年少女に幼子といった若年の者たちは助かったので、ゴルディアック家が、まあ滅びたわけではない。
ともかく。今この場にいる全員、主君ベレオヌス公より報奨金を賜ったところである。
「よっし。繰り出すぞ」
ゼノフェッドの巨大な手が、ガロムの背中を叩く。
「ベレオヌス公が、お褒めの金をくれたって事はな。パァーッと遊べって事よ」
「なあ、ガロム君」
ジェキムが反対側から、肩を叩いてくる。
「笑わないから正直に言いな? お前……女、まだだろう」
「……は、はい」
「俺らの行きつけの店になあ、面倒見のいい姉ちゃんが何人もいる。今夜はな、貸し切りだ」
ゼノフェッドが言った。
「……男に、なれ。してもらえ」
「あ、あの……」
「心配すんな。全部、俺が払ってやる。新人に金出せなんて言わねえよ」
「そうでは、なくて……」
覚悟を決める、しかなかった。
自分は、またしても、この男に殴られる。
ガロムは、深々と頭を下げた。
「……すみません副隊長。俺、行けません」
「あ?」
「行くわけには、いかないんです」
胸ぐらは掴まれなかった。
拳も、来ない。
ただ静かに、ゼノフェッドは言った。
「……あの悪役令嬢、か」
その口調に。
信じ難い事だが、優しさが滲んでいる、ようにガロムは感じた。
「ひとつ、これだけは言っとく……女にな、あんまり幻想持ってやるなよ」
言葉を残し、ゼノフェッドは背を向けて歩き出す。
ジェキムが、それに続いた。
擦れ違いざまに、ガロムの肩を軽く叩く。
「ああ見えて……女でな、色々あったんだよ」
ガロムは、何も言えなかった。
他の兵士たちも、次々とガロムの傍らを通り過ぎながら、言葉をかけてくる。
「おい、あんまり無理はするなよ青少年!」
「いやー、しかしイイねえ。こういうの」
「初めては好きな娘と……なぁんて夢見てた時期がなあ。俺にもあった」
「ちなみに俺の初体験はな、おふくろより年上の姐さんだ。色々、教えてくれたぜー」
「見習えとは言わんがガロム君、本当に無理だけはするなよ?」
「我慢出来なくなったら言えな。店に連れてってやるから」
先輩たちが、去って行く。
広壮な庭園に一人、ガロムは残された。
いや、一人ではなかった。
「ここで私は、そなたに殺されかけたのだよなあ。ガロム・ザグ」
いくらか着飾った肥満体が、肉を揺らしながら歩み寄って来る。
ガロムは、跪いた。
確かに自分は、この庭園で、この人物に剣を突き付けたのだった。
「頭を上げよ。立て。私はな、そなたと話がしたいだけなのだ」
王弟公爵ベレオヌス・シオン・ヴィスケーノは、言った。
「ゼノフェッドらと一緒に行かなかったか。ならば私と飲もうではないか。ささやかな酒宴を用意してある。女はおらぬ」
肥満した顔面が、ニヤリと歪む。
「……私から、何事かを聞き出せるかも知れんぞ?」
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「どうかな。少しは、違って見えるか」
玉座の上で、国王エリオール・シオン・ヴィスケーノは言った。
笑っている。自嘲の笑みだ。
「つい先日まで、ここには紛い物の私が座っていたのだろう? あれを紛い物と思ってくれるのは、しかし……そなただけかも知れんな、我が息子よ」
そう。
私は、この人物の息子なのだ。
息子で、あり続けなければならない。今しばらくは。
「あの紛い物は、イルベリオ・テッドという男が作り上げた代物でな」
アドラン地方の帝国陵墓に巣喰っていた、叛乱勢力。
その首魁の腹心であったという人物の名を、エリオール王は口にした。
「なかなか良く出来ていたと思わぬか。なあ息子よ……あれが今も、今後も、この玉座に在り続けたとて、誰も困りはせん。そうは思わぬか? 息子よ」
「思いませぬ、陛下……父上」
私は答えた。
あの紛い物を殺処分したのは、私である。
「あれを……あのようなものを、この国に住まう全ての人々が王に戴くなど……あっては、ならぬ事です」
「私ならば、良いのか?」
エリオール王は言った。
「私ごとき者を、民が王に戴く。それは、あって良い事であるのか? 民にしてみれば、あの紛い物と大して違いはせぬと思うのだが」
「そうであるにしても。貴方様には、国王であり続けていただかねばなりませぬ。エリオール・シオン・ヴィスケーノ様」
まっすぐに私は、父親たる人物を見つめた。
本当の父親を、私は知らない。母親も知らない。
唯一神教会の運営する孤児院から、私は幼い頃に引き取られた。
ヴィスガルド王家の、関係者の一団にだ。
そこで私は、様々な教育を施された。
やがて、アラム・エアリス・ヴィスケーノ王子に仕える事となったのだ。
そんな日々を思い返しつつ、私は言った。
「……アラム殿下は……私に、良くして下さいました」
「で、あろうな。あれは優しい男だ」
「私は、幸運であったのだろうと思います。こうして王侯の方々の暮らしを体験し……アラム殿下がお帰りになれば、一介の兵士に戻る事が出来ます。ですがエリオール様、貴方は国王であられるしかないのです。過酷であろう、と思いますが……選べませぬ」
「選べぬか」
「はい。数多くの民が、己の生まれを、生きる道を、選べはしないのと同じように……国王陛下には、国王陛下であり続けていただかねばならないのです」
余計な一言を、私は付け加えずにはいられなかった。
「私は……貴方様こそが、国王にふさわしいと思っております」
「そなたは」
疲れたように微笑みながら、エリオール王は話題を変えた。
「アラムが必ず帰って来る、と信じているのだな?」
「必ずや」
「根拠など、特にないのであろうな。それでも……信じるしかない、か」
国王は、しばし天井を見つめた。
「……聞かせてくれぬか? あやつの身に、何が起こったのか」
「私は……アラム様の身代わりとして、王国正規軍の一隊を率いておりました」
忘れもしない、南方の戦場。
叛乱者ボーゼル・ゴルマー討伐の戦。
私の率いる、その一隊が、討伐軍の本陣だった。
味方全軍には、そう伝わっていたはずだ。
だが果たして、敵を騙す事は出来ていたのか。
「ある時。我々は、ボーゼル・ゴルマー本人の率いる、叛乱軍の主力部隊と激突いたしました」
「そなたがアラムであると、ボーゼル侯爵は信じていたのかな」
「それは、どうでしょうか……ともかく我らは、散々に撃ち破られました。ボーゼル・ゴルマー……あの男は、怪物でした」
今でも、身震いがする。
私は、己の左脇腹を軽く押さえた。ほぼ無意識にだ。
あの時。ボーゼルの振るう鎖鉄球が、この部分をかすめた。
直撃ではない。
それでも私は落馬し、動けなくなったのだ。
「落馬した私を、ボーゼル侯は見下ろし、そして言いました……貴様はアラム王子ではない、と。あまりの弱さ、どうやら身代わりの役も果たせてはいなかったようです」
「生きていられて、良かったではないか」
「……アラム殿下、御本人様が一隊を率いられ、そこへ駆け付けて下さったのです」
形としては、挟撃である。
私の率いる、囮の本陣部隊。
アラム王子の率いる、真の本陣部隊。
その両者で、叛乱軍の本体を挟み撃ちにした。
形としては、そうである。
「アラム殿下の一隊は見事、ボーゼル侯の背後を衝きました。あらかじめ計画されていた挟撃、であったのでしょう。ですが……私は……」
「アラムが自分を助けに来てくれた、のかも知れないと。そう思ってしまうのだな? そなたは」
「思い上がり、なのでしょう……私は、どうしようもなく自惚れております。ですが……」
私は、国王の面前で青ざめていた。
「私を、助けようとするあまり……アラム殿下は、御無理をなされたと……そう、思えてしまうのです……」
「結果として、ボーゼル侯を仕留める事は出来たのだろう。それで良しとしておく事だ。で……アラムは結局、ボーゼル侯と刺し違えたのかな?」
「戦場はメルセト地方、山間の地でございました」
見たものを、そのまま、私は語らねばならない。
「アラム殿下は、あの鉄球を……かわしながらも、鎖に捕らえられ……ボーゼル侯と共に、峡谷へと転げ落ちて行かれました。後日、ボーゼル侯の屍のみ発見されたのです」
「アラムの屍は、見つかっていない。だから生きていると、そなたは思っているのだな」
「生きて、おられます」
私は、そう信じるしかなかった。
「……アラム殿下を、お守りする事が……お救い申し上げる事が、私には出来ませんでしたが……」
「そのような事、思ってはならぬ。というのも無理であろうな」
一度、エリオール王は息をつき、目を閉じた。
「……ボーゼル侯が叛乱を起こしたのは、南方における旧帝国系貴族の暴政から民を救うため、であったと聞いている。国王が無能であるが故の、叛乱よ」
「そのような事、思ってはなりませぬ……と、いうのは」
「無理だな」
エリオール王は、笑った。
ヴィスガルド王国南部における、旧帝国系勢力。
その盟主と言うべきが、クエルダ地方領主バラリス・ゴルディアック侯爵であり、確かに民に対しては残虐な君主であったらしい。
ゴルディアック家の、南方における代表者のような顔で、バラリス侯は暴虐な振る舞いをしていた。
そして、ボーゼル・ゴルマーに討ち殺された。
民を救うための戦、であるにしても叛乱である。
王国としては、手を打たなければならない。
だからアラム・ヴィスケーノ王子が、叛乱討伐軍を率いる事になったのだ。
討伐は、成功した。
私はアラム王子として軍を率い、王都への凱旋を果たした。
輝かしい事である。
悪い事など、何も起こっていない。
そうでなければ、ならないのだ。
「……すまぬ。辛い話を、させてしまったな」
エリオール王が、目を開いた。
「詫びの代わりにも、ならぬ……が、私の方からも一つ話しておこう。そなたの妻、アイリ・カナンに関する事だ」
「陛下、それは……」
「これを私は、ルチア・バルファドールには話した。シェルミーネ・グラーク嬢には……まあ、生きて帰って来たら話しても良いかな」




