第107話
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妻が死んだ。
夫である自分に、全く責任がないわけではない、とクルバート・コルベムは思う事にした。
自責の念、くらいは持ってやっても良い。
それが、あの愚かで哀れな妻への手向けになるのなら。
娘ミリエラを産んでくれた。
それは、それだけは、感謝をするべきであろう。
そのミリエラが、大人の男でも命を落とすような危険な場所へ赴くのを、しかし自分は父親として止められなかったのだ。
「私は……最低の父親だ。妻の事を、あれこれ言えぬ……」
「御息女を危険な目に遭わせてしまった。それは詫びよう。すまぬ、クルバート卿」
レオゲルド・ディラン伯爵が、頭を下げた。
「我々は……ミリエラ嬢に、命を救われたのだ。彼女は、ご自身が得難き人材である事を証明してしまった。今後も何かと御協力を仰ごうと思っていたのだが、シェルミーネ嬢に連れて行かれてしまったな」
「……ミリエラの方からな、シェルミーネ嬢について行くと言い出したのだ。私は、止められなかった」
「止めなかった、と私は見たが」
レオゲルドは言った。
王宮。
王国宰相ログレム・ゴルディアックが、非公式に用いている執務室に、クルバートとレオゲルドは呼ばれていた。
「貴公。何か意図があって、御息女をこの王都より遠ざけたのではないか?」
レオゲルドの言葉に答えず、クルバートは、この執務室の主に問いかけた。
「宰相閣下、私は……今後、どのようになるのでしょうか?」
「悪いようにはせぬ、と言いたいところではあるが」
宰相ログレム・ゴルディアックは、言った。
「ゴルディアック家の不正に加担していた罪は、長老が亡くなったところで消えるわけではない。どうにかして差し上げたい、ところではあるが……私自身、今後どのようになるか、わからぬのでな」
この人物は、王国宰相であると同時に、ゴルディアック家の当主でもある。
ゴルディアック家の行っていた不正に関し、知らなかった、で済ませるのは難しいであろう。
当然、追及される。
王国宰相を追及する事の出来る人物が、この国には一人だけ、存在するのだ。
「王弟公爵殿下が、どのように動かれるか……」
ログレムは天井を見上げ、微かに苦笑したようだ。
「レオゲルド卿に、クルバート卿……私の側にいるのは、沈みかけの船に乗り続けるようなもの、であるかも知れぬ。ベレオヌス公に身を寄せるならば、今のうちであろうぞ」
「この一件で宰相閣下、貴方様が……失脚、となりましたならば。ベレオヌス殿下お一人が、ほぼ全ての実権を握られる事になりますな」
レオゲルドが言った。
「それは、甚だ危険な状態です」
「ベレオヌス公が、暴君になるとでも? 巷で言われるよりは、ずっと穏健な御仁である事。レオゲルド卿もご存じであろう」
「宰相閣下と王弟殿下。お二方で均衡を保っていただいた方が、この国は何かと上手くゆきます。そのような体制が、いつの間にやら出来上がってしまいました。出来上がり、上手く回っているものを……壊すのは危険であると、そのように申し上げております」
宰相ログレム・ゴルディアック。
王弟公爵ベレオヌス・シオン・ヴィスケーノ。
このヴィスガルドという王国の平和は、この両名の危うい均衡によって保たれている。
ログレム宰相の失脚によって、その均衡が壊れる、としたら。
吹けば飛ぶ存在である自分クルバート・コルベムなど、どのようになるかわからない。
やはりミリエラは、遠ざけておかなければならない。
シェルミーネ・グラークは、必ずや娘を守ってくれる。
特に根拠もなくクルバートは、そう思うのだった。
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町が、ひとつ滅びた。
事情を知らぬ者が見れば、そう錯覚するであろう。
ゴルディアック家の、大邸宅。
ひとつの町ほどに巨大な楼閣が、今は廃屋、と言うより廃墟だった。
かつての広壮なる大邸宅の、面影のみ辛うじてとどめた、石材の残骸の集合体である。
思うところが、バルフェノム・ゴルディアックには全く無いわけではなかった。
この大邸宅で幼少期を過ごし、叔父ゼビエルには大いに可愛がられた。
英邁な人物では、あったのだ。
長老、大老などと呼ばれ始める前の、ゼビエル・ゴルディアックは。
「あのように……ならずに、おれるか? なあ、ログレムよ」
この場にはいない従兄弟に、バルフェノムは語りかけていた。
「ここに住んでいた者どもの腐敗に……お前は、果たして染まらずにおれたのか」
懐かしい大邸宅であった廃墟を、見渡してみる。
数日前。ここで、惨劇が繰り広げられたという。
異形の怪物たちが突然、邸内に出現し、ゴルディアック家の人々を殺傷し始めた。
その混乱を鎮圧したのは、王弟公爵ベレオヌス・シオン・ヴィスケーノの派遣した私兵部隊であるという。
長老ゼビエルをはじめ一族の主だった者たちは、怪物の群れに喰い殺された。
ベレオヌス公爵が、その仇を討った。
怪物たちが大邸宅より溢れ出し、王都の民を襲う……前に、ベレオヌス公は事態を終息させてくれた。
人々に言わせれば、そういう事になってしまう。
怪物の群れは実際、邸内で生き残った者らのほぼ全員に目撃されている。
この大邸宅そのものが、巨大生物の臓物のような何かに変異を遂げた様。
それを、大勢の王都民が目の当たりにしているのだ。
真相がどうであるかは問題ではない、とバルフェノムは思う。
ベレオヌス公の声望は増した。
王都におけるゴルディアック家の勢力は、ほぼ失われた。
それが、全てなのである。
「雑兵の血筋などと侮り続けた結果が、これよ。我ら帝国貴族、ヴィスガルド王家に……いいように、されるがままではないか」
呻きつつバルフェノムは、ちらりと見やった。
特に巨大な、石材の残骸。
その陰で、何かが動いたのだ。
「……されるが、まま……であると……」
動くものが、声を発しながら隆起する。
石材の残骸が、圧されて崩壊した。
「聞き捨てならぬ……我ら、栄光ある帝国貴族が……雑兵の家系の者どもに、何であると?」
巨体であった。熊ほど、はあろうか。
大型肉食動物の、腐乱死体。そう見えた。
蠢く腐肉を掻き分けて、白く鋭利な骨が露出している。臓物らしきものが溢れ出し、揺らめいている。
死体ではない、屍よりもおぞましい生き物。
それが、巨体のどこからか声を発しているのだ。
「…………貴様……よもや…………バルフェノム、では……ないのか……?」
「貴公のごとき者に知り合いはおらぬ、と言いたいが」
バルフェノムは、嘆息した。
「その声、物言い……我が兄、ガルバルト卿ではないか?」
「ゴルディアック家を追われた者が! 私を兄などと呼ぶな!」
ガルバルト・ゴルディアックの全身から、臓物らしきものが触手状に伸び現れて牙を剥く。
「ゼビエル老のお許しを求め、王都へ戻って来るとは恥知らずな!」
「邸内に怪物が現れた、と聞いた。つまりは……やはり、こういう事か」
暗く呟くバルフェノムに、牙ある触手の群れが、あらゆる方向から食らいつく。
いや。
バルフェノムの身体に牙が触れる寸前で、触手たちは痙攣し、動きを止めた。
それらの発生源である、ガルバルト・ゴルディアックの巨体が、ぐしゃりと大きく凹んでいる。
鉄の塊が、叩き込まれ、めり込んでいた。
黒い、長身の人影が、いつの間にかガルバルトの背後にいた。
細長い、黒装束の男。
鉄の塊は、彼の右腕だった。
肘から先が、五指のない鋼鉄の鈍器なのである。
「程々にな、クロノドゥールよ」
バルフェノムは言った。
「私の、兄なのだ。弟を虐めるしか能のない人物ではあるが、今更その仕返しをしようとは思わぬ。丁重に扱ってやってくれ、出来る限りで構わぬから」
「私を……兄と、呼ぶな……恥知らずめ……」
凹み潰れたガルバルトの巨体が、再び隆起しながら、腐肉の飛沫を飛ばす。
骨が、暴れ出していた。
鋭利な骨が、いくつもの刃となって伸び閃き、クロノドゥールを急襲する。
全て、かわされていた。
揺らめくように後退したクロノドゥールに、間髪入れず、牙ある触手の群れが襲いかかる。
黒装束の長身が、風に吹かれた草木のように揺らぐ。
それだけの動きでクロノドゥールは、牙触手を全て回避していた。
この男の最大の武器は、鋼鉄の義手ではない。
あらゆる攻撃をかわす、全身の動きそのものだ。
丁重に扱え、などとバルフェノムが命じたから、クロノドゥールは回避に徹している。
回避しながら、ガルバルトの攻撃を自身に引き付け、主バルフェノムから遠ざけているのだ。
おかげでバルフェノムは、冷静に思考する事が出来た。
否。冷静に考えるまでもなく、明らかな事であった。
「……貴様の、仕業か。ジュラード……」
あの男にとっては、ゴルディアック家そのものが、巨大な実験の場であったのだ。
王宮よりも歴史の古い大邸宅の、この有り様は、その実験の結果でしかない。
そして、この兄も。
「……良いぞ、クロノドゥール。兄を、楽にしてやってくれ」
骨の刃を、牙の触手を、揺らめいて回避しながら、クロノドゥールは右腕を動かした。
鉄の鈍器そのものの義手から、ギラリと光が発生した、ように見えた。
その時には、ガルバルトは真っ二つに両断されていた。
骨の刃と牙触手を生やした異形の巨体が、滑らかな断面を晒しながら左右に倒れる。
クロノドゥールが、いつ踏み込んだのか、バルフェノムの目では確認が出来なかった。
振り下ろされた右腕……前腕部を占める鋼鉄の義手からは、ほぼ同じ長さの刃が出現している。
普段は、折り畳まれ収納されているものだ。
「……い……卑しき、者め……ゴルディアック家に、刃向かうか……」
真っ二つとなった肉塊。
その断面の片方で、何かが光を発した。
宝石だった。ガルバルトの体内に、埋め込まれていたようである。
「大魔導師……ギルファラル・ゴルディアックの、偉大なる血を引く私に……刃向かうかぁああああ」
宝石の放つ光が、クロノドゥールを襲う。
人体を殺傷する、破壊光線なのであろう。
クロノドゥールは、鋼鉄の義手を無雑作に一閃させた。
気力を帯びた刃が、破壊光線を跳ね返し、打ち砕く。光の飛沫が散る。
それでガルバルトは、力尽きた。
「私は……大魔導師……ギルファラルの、末裔……」
真っ二つの肉塊が、最後の言葉を漏らしながら干涸らび、ひび割れ、崩壊してゆく。
握り込める大きさの宝石が、その場に残された。
「ギルファラル・ゴルディアックの遺産……か」
かの大魔導師の遺したものが、この大邸宅のどこかに秘蔵されている、という話はバルフェノムも聞いた事はあった。
「過去の栄光あればこそ、今がある。それは否定せぬ、が……そこに、しがみついてしまうようではな」
ふと、ある事にバルフェノムは思い至った。
「クロノドゥールよ、そなたも過去は忘れられぬか? 過去の……栄光ではなく屈辱か、そなたの場合」
「…………アラム……ヴィスケーノ……」
黒覆面の内側で、クロノドゥールは呻いた。
己の右腕を奪った男の、名を。
「…………殺す……殺させて、下さい……御主人様……」
「まあまあ、落ち着くが良い……ふむ、やはり許せぬようだな」
「許せません。何故、どうして……なんですか、御主人様……」
包帯のような覆面の隙間で、眼光が燃え上がる。
「どうして、あんな……出来損ないの偽物が…………アラム……王子は、どこへ行ったんですかぁああ……」




