第106話
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「私は飾り物の国王だ。政治的実権など無い、欲しいとも思わぬ」
ヴィスガルド国王エリオール・シオン・ヴィスケーノは、自暴自棄で、不貞腐れて、そんな事を言っている……わけでは、ないようであった。
「何ら影響力の無い、一個人として何かを言う。その程度の権利は、認められて良いと思うのだがな。どう思う、レオゲルド・ディラン伯爵。それにシェルミーネ・グラーク嬢」
「今少し贅沢な暮らしがしたい。朝餉も昼餉も晩餐も、一品か二品は増やして欲しい……その程度のわがままでしたら、皆様にお許しいただけると思いますわ。国王陛下ですもの」
シェルミーネ・グラークは言った。
鉄格子の向こうにいる面々を、油断なく観察しながらだ。
「……こちらの方々のために、何か便宜を図って差し上げたいと。そのようにお望みならば、まあ、おやめなさいませ」
王都ガルドラント。
王宮の、地下牢である。
「この方々は……逆賊ですわ。国王陛下が政治的実権を、お持ちであろうとなかろうと、それは揺るぎ無き事実」
アドラン地方、帝国陵墓に巣喰っていた叛乱者の軍勢を、レオゲルド・ディラン伯爵が僅かな手勢を率いて討伐し、囚われの国王を救出して凱旋を果たした。
誰が見ても、そのようにしかならない。
レオゲルド当人に、しかし誇らしげな様子は欠片ほどもなかった。
捕縛してきた者たちに、ただ陰鬱な顔を向けている。
誇らしさなど持てる気分ではないだろう、というのはシェルミーネにもわかる。
一応は討伐に同行し、レオゲルド配下で戦った身である。
「私は……」
逆賊に拉致され、虜囚となり、レオゲルドに救出された……という事になっているエリオール王が、鉄格子の向こうを見つめて呻く。
「自分が、被害者ではないと……主張する事すら、許されぬと言うのか? そのようなはずが、あるまい」
「国王陛下より、この身に余る御言葉を賜りました」
牢内で、クリスト・ラウディースが恭しく跪き、頭を垂れる。
「ですが、どうかお気遣いなきよう……我らは紛れもなき叛乱者、国王陛下は純然たる被害者であらせられます。畏れ多くも我ら、陛下の御身を拉致し奉ったのでございますから」
「私は……己の意思で、そなたらと行動を共にしたのだぞ。国王自身の意思は、無いものとして扱われるのか。飾り物の王とは言え、それは酷に過ぎると思わぬか」
「酷でございますな。お察し、致しまする」
クリストは、頭を下げ続けた。
見事な禿頭が、松明の光を受けて目映く輝く。
「ですが……尊きお立場とは、そのようなもの。シェルミーネ嬢の言われる通り、我らのために何かをなさってはいけませんよ国王陛下。我々は、逆賊なのですから」
「クルルグよ……せめて、そなたを」
「おやめなさいませ、国王陛下」
シェルミーネは言い、牢内を見やった。
鉄格子の向こうで、獣人クルルグは両目を閉ざし、石畳の上に泰然と座したまま、にゃーとも鳴かない。
「お仲間を牢に残して、独り好待遇を享受するなど。クルルグさんが、肯んずるわけありませんわ」
国王が、俯いてしまう。
クリストもクルルグも、鉄格子の向こう側に押しやられているだけだ。
枷や鎖で、身体を拘束されているわけではない。
牢内は広く、寝台も布団も清潔である。
食事も、充分なものが出る。
国王の身柄を強奪し、叛乱に等しい軍事行動を企てた一党。
その構成員に対し、あり得ぬほどの好待遇ではあった。
エリオール王とレオゲルド伯爵が、王国司法を相手に、なかなかの無理を押し通したのは間違いない。
「訊こう、クリスト・ラウディース」
レオゲルドが、ようやく言葉を発した。
「そのクルルグなる獣人と、お前は会話が出来るのか?」
「出来ますよ。言葉は必要ありません。クルルグ君は、何しろ私の兄弟子ですからね。お付き合いは一番、長いんですよ」
「……その者とは、どうだ。意思の疎通は出来るか」
レオゲルドに、そう言われたものが、三つある寝台の一つに載せられてあった。
人間の原形すらとどめていない、肉塊。
巨大な臓物のようでもある。
弱々しく脈動し、辛うじて生きている事だけを、周囲の者に伝えている。
思考があるのか、思考能力と呼べるものが維持されているのかどうかは、わからない。
「意思の疎通、ですか」
クリストは立ち上がり、歩み寄り、その巨大な肉塊を痛ましげに撫でた。
「彼が今、考えている事は……わかりますよ」
「聞かせてくれぬか」
「ルチア・バルファドールの、無事な生存。彼は今、それだけを願っています。もっとも……無事とは言えないでしょうね、あのような事では」
ルチア・バルファドールは、アドランの地の底へ……帝国陵墓の内部深くヘと、消えて行った。
人間ではなくなった、身体でだ。
ヴェノーラ・ゲントリウスの魔力を身に受け、吸収し、彼女は人外のものと化した。
今、牢内にある肉塊は、そんなルチアに、いくらかは近付いた状態にあると言える。
「私はな、あの黒騎士の正体が……シグルム・ライアット侯爵ではないか、と疑っていた」
レオゲルドは言った。
「だが、その者……リオネール・ガルファは、確かに言ったのだ。シグルム・ライアットを殺したのは自分たちであると。自分の兄が、確かに仕留めたのだと」
「言っていましたね。リオネール君、確かに」
「その事に関し、もう少し詳しい話を聞いてみたかったのだがな……まあ良い。国王陛下、この者たちの扱いに関しましては、これが精一杯でございます。これ以上、甘くは出来ませぬ」
「…………シグルム・ライアットは何故、死んだのであろうな」
エリオールは問いかけた、のであろうか。
「レオゲルド伯爵。そなたは、知っているのではないのか」
「何も存じ上げませぬ。高貴なる方々は度々、亡くなられては蘇っておいでになります」
「我が息子、アラム・ヴィスケーノのように……か」
国王の言葉に対しレオゲルドは、聞こえぬふりをしたようだ。
王太子アラム・エアリス・ヴィスケーノは、王宮にて健在である。
それは疑ってはならない事実であり、国王は今、いささか悪質な冗談を口にしているのだ。
聞こえぬふりをするしか、ないであろう。
「そなたは……南方ヘ行かれるのだな、シェルミーネ嬢。我が息子アラムを、捜し出し連れ戻して下さるのだな。嬉し涙の出る話ではある」
「国王陛下。アラム王子は今、王宮にいらっしゃいますわ」
シェルミーネは言った。
「あまり世迷い言を、お口になさいませんように」
「ふふ、世迷い言か」
「ええ。聞くだけならば、とっても楽しい世迷い言。もう少し事が落ち着いたら、大いに聞かせていただきますわ」
「そのためには……生きて、帰って来る事だ。シェルミーネ嬢」
やはり、この国王は全てを知っている。
焦る事はない、とシェルミーネは思った。
全てを知る人間と、接触する。
その目的は、果たしたのだ。
全てを聞き出すのは、時間をかけながらでも構わない。
ならば、もう一つの目的を果たすまでだ。
(南へ叛乱討伐に行かれたまま、お戻りになられない……すなわち。まだ何もご存じではない、かも知れないという事ですわね。アラム王子)
求婚予定であった人物に、シェルミーネは心の中で語りかけた。
(……ならば、お伝えいたしますわ。アイリさんの事)
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彼は今、生まれたての赤ん坊であると同時に、百歳を遥かに超えた老人でもあった。
石造りの巨体で、山林を彷徨っているところである。
石像、としか呼べぬ身体が、のろのろと遅く、だが滑らかに動いて歩行し、重い足音を響かせている。
アドラン地方、かつては帝国陵墓であった山林。
その地面に深々と足跡を刻印しながら、彼はやがて、足音ではないものを発した。
『…………私は……』
声。
発声器官など持たないはずの石像が、石の唇を微動だにさせず、巨体のどこかから音声を発しているのだ。
『…………私は……誰……だ……?』
記憶は、全く無い、わけでもなかった。
脳髄を持たぬ身体の奥深くで、渦巻いているものがある。
それは、死の記憶であった。
数多の死を、自分は記憶している。
皆、殺された。
『そうだ…………私が、グラーク家に……敗れた、せいで……』
彼は立ち止まり、石の顔面で天を仰いだ。
『…………すまぬ、一族の者らよ……だが、まあ……そのような時代であったのだと、思ってくれ……それよりも』
自分には、使命があった。
それを、彼は思い出した。
『戻らねばならぬ、ヴェルジアへ……ゲンペスト城へ……』
ゆらり、と方向を変えて歩き出す。
歩きながら、己の有り様を確認する。
滑らかに歩行する、石造りの巨体。
それが、今の自分だ。
『魔像……か』
肉の身体は、もはや手に入らない。
それは仕方がない。自分は一度、死んだのだ。
『何者かが、私を……我が一族を、魔像ヘと封じ込めた……』
微笑んだ、つもりであったが、石像の顔面は動かない。
『死せる我らが、動く身体を獲得した。か…………これもまた、死者の復活……その一つの形と、言えるか……』
復活を遂げた。
ならば、為すべき事は一つ。
『……グラーク家の者どもに、任せてはおけぬ。帝国の名にかけて……』
己が何者であるのかを、彼は思い出していた。
『我が名は……帝国貴族、グスター・エンドルム。大いなる帝国の残光を、守護する者……』




