第105話
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「花嫁選びの祭典……まったくもって、実に、楽しい茶番劇でございましたな。シェルミーネ・グラーク嬢」
形式的な挨拶の後、バルフェノム・ゴルディアック侯爵は言った。
「くだらぬ、と思いつつも引き込まれてしまう……茶番劇を、最後まで見届けずにはおられぬ自分に気付き、愕然としたものですよ私は。シェルミーネ嬢、貴女のおかげです」
「お楽しみいただけて、何よりですわ」
シェルミーネ・グラークは、微笑んで見せた。
王宮。
王国宰相ログレム・ゴルディアックの、非公式の執務室である。
来賓が二名、宰相本人と共に卓を囲み、長椅子に身を沈めている。
グルナ地方領主バルフェノム・ゴルディアック侯爵。
王太子アラム・エアリス・ヴィスケーノ。
このような非公式の会合に、自分シェルミーネ・グラークは、招かれたわけではない。
秘書官、という名の護衛として、ログレム宰相に付いているのだ。
護衛は、バルフェノム侯爵にも付いている。
黒装束の長身。
まるで、長く伸びた影である。
包帯のようでもある黒覆面の隙間から、険しく燃え盛る眼光が漏出し、シェルミーネに向けられて来る。
クロノドゥール、と呼ばれていた男。
黒装束の下に、いかなる武器を隠し持っているのかは、わからない。
戦い方が、まるで読めない。
護衛の他、暗殺もこなすのであろう、そんな男を長椅子の後ろに控えさせたまま、バルフェノムは語る。
「悪役令嬢が愚かな自滅を晒し、平民娘がめでたく王子と結ばれる……幸せな結末であった、と思います。私も貴女が、最終的な勝利者ではなくて、本当に良かったと思っておりますよ。シェルミーネ嬢」
「酷いお話ですわね、バルフェノム・ゴルディアック侯爵閣下」
シェルミーネは言った。
「貴方、お貴族様でいらっしゃるのに私の応援、して下さいませんでしたの? 平民娘に肩入れをなさいますの?」
「……そこが、あのアイリ・カナンという少女の恐るべきところ。で、ございましてな」
バルフェノムの口調は、重い。
「周りで見ている者ことごとくを、味方せずにはおれぬ気持ちにさせてしまう。我ら貴族すらも、味方に引き込んでしまう。そのような平民が……王侯貴族の地位を、獲得してしまった。恐ろしい話とは思われませんか、宰相閣下。シェルミーネ嬢」
「アイリ・カナンを……ふん、危険視でもなさっていたの? あのような、何も出来ない平民娘を」
「何も出来ない平民娘を、王族の地位にまで引き上げてしまったのは……貴女ではありませんかな、悪役令嬢殿」
バルフェノムは、にやりと笑った。
「まあしかし安心しておりますよ私は。アイリ・カナン・ヴィスケーノ王太子妃殿下も今や、煌びやかな王侯の暮らしに、すっかり染まってしまわれた。ありふれた貴婦人です。あれならば……見る者全てを味方に引き入れてしまう、などという事もありますまい。そう、あれで良いのですよ」
王侯の暮らしになど、アイリ・カナンは憧れていたわけではなかった。
ただアラム・エアリス・ヴィスケーノという一個人だけを、彼女は追い求めていたのだ。
シェルミーネは、腰の左側に右手を伸ばしてしまうところだった。
鞘ごと帯に取り付けられた、細身の長剣。
アドラン地方、帝国陵墓にて、入手した武器である。
抜き打ちの一閃で、バルフェノム侯爵を斬殺する事が出来る。
クロノドゥールが、いなければだ。
何故なのか、理論的な説明は出来ない。
ただシェルミーネは、強く思うのだ。
このバルフェノム・ゴルディアックという男を、生かしてはおけない、と。
(この男が……)
それは、特に根拠のない、思い込みに過ぎなかった。
(…………まさか、この男が……?)
こちらを見据えるクロノドゥールの眼差しに、変化はない。
だがシェルミーネは、確信した。
自分が動いた瞬間、この男も動く、と。
結果どのような事になるかは、実際に動きが起こらなければ、わからない。
バルフェノムが、長椅子から立ち上がった。
「お会い出来た事、喜ばしく思いますよシェルミーネ嬢。殺人の罪に問われ、王都を追われたはずの令嬢が何故、王太子殿下ならびに宰相閣下のお側にいらっしゃるのか……それはまあ、今は考えずにおきましょう」
「そうしていただけると、助かりますわ。いえ、そんな事よりも」
シェルミーネは言った。
「……失礼。ゴルディアック家の方には、お悔やみを申し上げなければいけませんでしたわね。この度は、御一族の方々が大変、痛ましい事になってしまわれて」
「お気遣いなく。あの者たちの死を悲しむ者など、ゴルディアック家には一人もおりませんよ」
言いつつバルフェノムは、ゴルディアック家当主でもある宰相に、ちらりと目を向けた。
「長老ゼビエル・ゴルディアック及び、その取り巻きの親族どもは……我ら旧帝国貴族にとって、紛れもなく害悪でありました。汚物でしか、ありませんでした。ゴルディアック家は、ゼビエル大老から解放されたのですよ。実に喜ばしい」
そこでバルフェノムは、己の口を片手で塞いだ。
「……ふふ、ふっふふふふふ。貴女も恐ろしい方だ、シェルミーネ・グラーク嬢。貴女に何かを問われると、つい本当の事を吐いてしまいそうになる。ああ、いやいや、本当の事などではありませんぞ。喜ばしいなどと。ああ痛ましい痛ましい。大恩あるゼビエル老よ、その魂、唯一神の御手の中にて、いと安らけくあらん事を」
バルフェノムは、執務室を出た。
クロノドゥールが、影のように付き従う。
最後まで、シェルミーネへの警戒を解く事はなかった。
「……ゼビエル大老の不興を買い、地方へ飛ばされた者。ゴルディアック家には、あの男以外にも大勢いる」
ログレム宰相が、言った。
「ゴルディアック本家の腐敗に染まる事なく、地方で力を蓄えていた者たち……その中心人物と言うべきが、バルフェノム・ゴルディアックだ。私の従兄弟に当たる」
「ゴルディアック家の本質は」
シェルミーネは、長椅子に腰を下ろした。
「……今や、王都ではなく地方にありと。そういう事ですの? 宰相閣下」
「…………各地方のゴルディアック家関係者を、バルフェノムは巧みに取りまとめ、今や隠然たる大勢力を有するに至った。長老ゼビエルの死は、あの男にとっては、重石が取り除かれたようなものであろう」
「……叛乱、に近い行動を引き起こすと?」
アラム王子が、ようやく言葉を発した。
「かの、ボーゼル・ゴルマーのように……」
「王国全土の旧帝国系貴族が、こぞってバルフェノムの支配下に加わるような事になれば」
ログレムは小さく、息をついた。
「……まあ、内乱・戦乱のような事態が即座に起こる事はないだろう。ただ、起こり得る。その認識を、貴公らには共有してもらいたいと思ってな。この度、あの男に会ってもらった」
「…………気付いている、のではないのか? あのバルフェノムという男……」
アラムが呟く。
「私も、アイリも……本物ではない、という事に……」
「で、あるにしても。おぬしには、アラム殿下であり続けてもらわねばならん」
ログレムの口調と眼差しが、アラムに向かって強まった。
「アラム殿下は必ず、お戻りになられる。あの方さえ、いらっしゃるならば……旧帝国貴族どもの、つまらぬ蠢動など、ものの数ではないのだ」
「宰相閣下は」
シェルミーネは言った。
「旧帝国系貴族の方々を、本当に嫌っておられますのね。それと……アラム王子を、まるで唯一神の如く崇めていらっしゃる」
「この私もまた、旧帝国系貴族……あやつらと同じ血が流れているかと思うと、この身を引き裂きたくなる」
ログレムが、暗い情念を燃やす。
「旧帝国の古く腐った血など、この王国には必要ない。あの者どもが雑兵の血筋と蔑む、ヴィスガルド王家より出でし英傑! 建国王アルス・レイドックの再来……あの方こそが、アラム殿下こそが、腐りきった旧帝国の血を一掃し、この国に新たなる風と盤石の栄えをもたらして下さる」
「それほどまでに……この国にとって、そこまで大切な方であると、貴方がお思いならば」
シェルミーネは訊いた。
いくらか、詰問に近い口調になった。
「アラム王子が、危険な叛乱討伐の戦に駆り出される事態。宰相権限で、止める事は出来ませんでしたの?」
「……実績が、必要だったのだ。万人が、アラム殿下を英傑と認める……そのような実績が」
シェルミーネは腕組みをして口をつぐみ、さらなる詰問を噛み殺した。
ボーゼル・ゴルマーが、南方で叛乱を起こした。
それに何の手も打たず、安全な王宮の中で、愛する妻アイリとただ睦まじく過ごすだけ。
それでは確かにアラム王子が、王国民に認められる事はないだろう。
王家の弱腰を糾弾する声が、旧帝国貴族からも上がる。
力を、実績を、示す。そして黙らせる。
それもまた、権力を持つ者の責務なのである。
「…………情報が、入っている」
いくらか迷った後、ログレムは言った。
「アラム殿下、に似たる者がな。王国南部……ロルカ地方にて、目撃されている。領主ペギル・ゲラール侯爵に、兵士として仕えているらしい」
「その程度の情報で……宰相閣下が御自ら、動かれるわけには参りませんわね。確かに」
シェルミーネは、腕組みを解いた。
「……秘書のお仕事などまるで出来ない秘書官が、ここにおりますわ。御命令をいただければ」




