第103話
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ゴルディアック家は、滅びた。
令嬢エリエッタ・ゴルディアックは、そう思っている。
正確には違う。
エリエッタの大叔父、ゴルディアック家当主にして王国宰相たるログレム・ゴルディアック侯爵は、健在である。
彼の父親ゼビエル・ゴルディアック大老は、亡くなった。
旧帝国貴族ゴルディアック家の、闇と言うべき部分は、この世から消え失せたのだ。
自分は解放されたのだ、とエリエッタは思う。
ゴルディアック家という、巨大な怪物の体内に、自分たちはいた。
怪物の腹の中で、父や祖父といった年配の親族は皆、汚物と化していった。
特に祖父ウズベル・ゴルディアックのおぞましさは、筆舌に尽くし難かった。
内面のおぞましさに見合った、異形の怪物と化したウズベルが、孫娘エリエッタを襲った。
数日前の事だ。
エリエッタを助けてくれたのは、王弟ベレオヌス・シオン・ヴィスケーノ公爵の私兵部隊である。
精強な荒くれ者の集団として知られる彼らが、ゴルディアック家の主だった大人たちを皆殺しにした。
否、違う。
ゼビエル大老を筆頭とするゴルディアック家の年配者たちは皆ことごとく、人外の怪物へと変じていた。
ベレオヌス公の私兵隊は、怪物の群れを退治しただけだ。
人殺しをした、わけではない。無法を働いた、わけではないのだ。
ゴルディアック家の人々が異形の怪物へと変異してゆく様は、自分エリエッタを含め、大勢の人間が目撃している。
人々、だけではない。
あの大邸宅そのものが、まるで巨大な臓物の如き怪異と化したのだ。
やはり自分たちは、ゴルディアック家という醜悪なる怪生物の、腹の中で暮らしていたのだ。
自分もまた、汚物になってしまうところだった。
ベレオヌス公は自分たちを、そこから解放してくれたのだ、とエリエッタは思う。
あの大邸宅にいた大人たち全員が全員、ウズベルの如く救いようのない存在であった、わけではない。
汚物同然の老人たちと一緒くたに怪物と化し、殺処分されてしまった人々に関しては、本当に痛ましいと思う。
だがエリエッタはやはり、解放されたと感じてしまうのだ。
衣食住に不自由しない大貴族の生活には、別れを告げる事となってしまった。
だが、あのおぞましい祖父とは永遠に無縁でいられると思えば。
その程度の不自由には、耐えられる。
エリエッタ一人ではない。
ゴルディアック家の若年者や子供たち、その大半があの大邸宅から救い出され、今は王弟ベレオヌス公の庇護下にあった。
働ける者に対しては、王弟公爵は仕事の世話もしてくれる。
王宮の侍女として、エリエッタは今、働いていた。
祖父が、いない。
楽ではない仕事も、それだけで楽しい。
楽しい気分が、しかし凍り付いていた。
王宮。回廊の一角。
とある使い走りの帰りでエリエッタは、その人物と遭遇してしまった。
あの時の祖父と、同じような状態にある人物。
何事かを呟きながら、のろのろと回廊を歩いている。徘徊している。
直に声をかけるなど、許されない。
エリエッタは、ただ息を呑みながら呻いていた。
「国王陛下……!」
エリオール・シオン・ヴィスケーノ国王。
ここヴィスガルド王国で、最も偉大であるはずの人物。
実弟ベレオヌスと比べ、今ひとつ頼りにならぬ権力者であるのは否めないところであった。
ベレオヌス公も様々に言われる人物ではあるが、エリエッタの見たところ、祖父をはじめとするゴルディアック家の年長者たちよりは遥かに人格者である。
今や孤児に等しいゴルディアック家の年少者たちに、あの王弟公爵は色々と良くしてくれている。
比べると、この兄国王は、エリエッタに言わせれば「単に存在しているだけ」という人間ではあった。
小太りの肉体を玉座に収め、何事かを呟いている。
そんな姿しか、エリエッタは見た事がない。
玉座を離れ、このような場所を歩き回る、その様はまるで心を病んでいるかのようだ。
豪奢な衣服の下で、小太りの肉体が蠢いているのが、見てわかる。
国王の肉体が、変異し始めている。
祖父ウズベルのように。
ゴルディアック家の、大人たちのように。
「国王陛下…………」
無礼を覚悟の上で、直に声をかけてみる。
エリオール王は何も言わず、どんよりとエリエッタを見つめてくる。
豪奢な衣服が、裂けた。
肉体の変異が、可視化を遂げていた。
「きゃあああああああああああ!」
エリエッタの悲鳴が、回廊に響き渡る。
おぞましいものが複数、国王の身体から伸びてうねり、襲いかかって来る。
巨大化した寄生虫、のような触手の群れ。
牙を剥き、毒々しい粘液を飛び散らせてエリエッタを襲う。
十四歳の少女の、柔らかな細身に、食らい付かんとしている。
光が、少女を守る形に一閃した。
斬撃の、光。
牙ある触手たちが、全て切り落とされていた。
汚らしい体液が、飛び散った。
それを剣士は、身に受けた。
エリエッタを、庇ってくれたのだ。
「無事か」
汚らしい雫が、秀麗な顔をつたい流れる。
汚れを帯びて、なお美しい。
エリエッタは、呆然とした。
この青年の事は、顔と名前のみ知っている。
二年前、自分がもう少し年上であったなら、あの祭典に出場する事になっていたかも知れない。
実際に出場させられたのは再従姉妹フェアリエで、物事がゴルディアック家にとって最高に都合良く進んでいたなら、彼女がこの青年の妻となっていた。
そしてヴィスガルド王家に、旧帝国貴族の血が入り込んでいたところである。
「……王太子……殿下……」
今や妻子ある男性の身体に、エリエッタはすがり付いていた。
すがり付く少女の細身を、アラム・エアリス・ヴィスケーノ王子は左腕でやんわりと引き離し、遠ざける。
「離れていなさい。隙を見て、逃げるように」
右手で、抜き身の長剣を構えている。
素人のエリエッタでは、息を呑んで見入るしかない、美しい構え。
父親であるはずの人物を見据える、その横顔には、悲痛な緊迫感が漲っている。
「父上……いえ陛下、玉座にお戻り下さい。何も起こらなかった事に出来ます、今ならば。まだ」
エリオール王は、何も応えない。
意味不明な呟き声は、今や、獣じみた唸り声に変わっていた。
血色に乏しい顔面は、大きく裂けて牙を剥き、臓物のような舌を吐き出す。
寄生虫の如き触手の群れが、小太りの人体を食い破って大量に出現する。
国王が、祖父ウズベルと同じ様を晒していた。
ヴィスガルド王家においても、関係者が異形の怪物に変異してゆく。
ゴルディアック家と同じなのか、とエリエッタは思った。
「我が父エリオールの名誉のために、言っておこう」
アラム王子が自分に話しかけているのだと、エリエッタは、すぐには気付かなかった。
「君が今、見ているものは……国王陛下ではない。粗悪な作り物が、限界を迎え、擬態を保てなくなっただけなのだ」
作り物。擬態。
アラム王子は今、確かに、そう言った。
偽物、という事か。
国王の偽物を用意せねばならない事態とは、一体何なのか。
そう言えば。
アラム王子の奥方、アイリ・カナン・ヴィスケーノ王太子妃に関しても、実は偽物である、などという噂をエリエッタは聞いた事がある。
国王の粗悪な紛い物、であるらしい怪物が、牙ある触手の群れを一斉に伸ばした。
無数の寄生虫にも似た、おぞましい襲撃の嵐が、アラムとエリエッタを呑み込もうとする。
その強襲の真っただ中へと、アラムは斬り込んで行った。
斬撃の閃光が、縦横無尽に弧を描く。
無数の触手が切り落とされるが、アラムの全身からも血飛沫が迸る。
牙ある触手たちが、王太子の身体をあちこち食いちぎっていた。
肩、脇腹、太股。
それに、顔面。
「王太子様…………!」
エリエッタは、悲鳴を漏らしながら息を呑んだ。
アラムの秀麗な横顔が、血まみれになっている。
触手の牙によって、皮膚も肉も切り裂かれ、頭蓋骨の一部が剥き出しになっている。
頭蓋骨の一部が、ズタズタの肉と皮膚を押しのけ、迫り出して来た、ように見えた。
頭蓋骨と言うより、それは外骨格だった。
アラムの顔面は今、右半分が秀麗な青年の美貌、左半分が禍々しい甲殻の仮面という有り様である。
この人も、なのか。
呆然と、エリエッタは思う。
この人も、祖父と同じか。
ゴルディアック家の、汚物にも等しい人々と同じであるのか。
アラムの右手で、長剣が折れた。
触手を、切り損ねていた。
その時には、左手が、エリオール王の顔面を掴んでいた。
外骨格化を遂げた左手。
甲殻の五指が、国王の醜悪な顔面をメキメキと握り潰してゆく。
握り折られた牙が、飛散する。
「最初から、存在しなかったのだよ……お前も、私も」
アラムの言葉に合わせ、光が生じた。
外骨格の手甲をまとう左手から、白色の光が迸り、エリオール王の顔面を、頭部を、爆砕していた。
頭部を失った肉体が、触手の一本一本に至るまで、干涸らびて崩れ落ちる。
粉末状の残骸が、回廊にぶちまけられる。
その様を見下ろし、エリエッタの方を振り返らず、アラムは言った。
「……見たものは忘れなさい。ここでは、何も起こらなかった。いいね?」
沈痛な表情を浮かべているのは、秀麗な無傷の素顔である。
甲殻の仮面など、最初から無かったかのように消え失せている。
左手も、単なる人間の素手だ。
今の変異は、幻覚であったのか。
エリエッタは、頭を横に振った。
「…………いえ。貴方は、私を守って下さいました」
この人は、祖父とは違う。
そう、思い定める事にした。
「ありがとう……ございます」
「同じ事を言わせるな。ここでは、何も起こらなかった」
「何も知らないまま、ここで働けとおっしゃるんですか……」
「その通り。働くとは、そういうものだ」
言ったのは、アラム王子ではない。
いつの間にか柱の陰にいた、一人の威厳ある老人だ。
「末端の働き手に知られてはならない事が、上層部にはいくらでもある。理不尽であろう、納得がゆかぬであろう。だが受け入れてもらわねばならない。民衆は皆、そのようにして日々の仕事をしているのだよ。エリエッタ・ゴルディアック」
「…………宰相……閣下……」
エリエッタの大叔父に当たる人物が、そこにいた。
王国宰相ログレム・ゴルディアック侯爵。
アラム王子が、睨み据える。
「どうするのだ宰相閣下……私は父を、陛下を、殺してしまったぞ。貴公らの思い通りに動かぬ私を、生かしておいて良いのか」
「ほう。私は、そなたに殺されてしまったのだな」
もう一人、いた。
小太りの姿が、ログレム宰相の傍らに佇んでいる。
アラム王子が、呆然と呟いた。
「国王陛下…………」
「少しばかり家出をしておった。たった今、無様にも連れ戻されてしまったところよ」
国王エリオール・シオン・ヴィスケーノは、暗く微笑んだ。
「……見事な戦いぶりであったな。そなたは私の、自慢の息子だ」




