第100話
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ルチア・バルファドールは、幼虫であった。
毒針を全身に生やした、醜悪にして凶暴な毛虫であった。
近寄る者、全てを突き刺し、抉り、毒で侵す。
そんな少女が、あのバルファドール家という環境では育ってしまったのだ。
凶悪な幼虫が今、蛹の状態を経て、美しき成虫へと羽化を遂げたのか。
「……否、まだです」
イルベリオ・テッドは、呟いた。
「ルチアお嬢様……まだ、貴女はお強くなられる……」
脳髄を揺るがすような雷鳴が、轟き渡る。
心地良かった。
ルチアの額の辺りから生えた触角が、轟音を発しながら光り輝いている。
電光だった。
横向きの落雷とも言える稲妻の嵐が、シェルミーネ・グラークを猛襲する。
そして、直撃した。
シェルミーネの眼前に生じて浮かんだ、大型の盾をだ。
それは、光で出来た大盾であった。
電光の嵐が、そこに激突し、飛散する。
その盾の陰から、シェルミーネは飛び出していた。
踏み込み、魔剣を一閃させる。
大皇妃ヴェノーラ・ゲントリウスの魔力で組成された、細身の長剣。
光の大盾が、この魔剣より発生している力の一部である事が、イルベリオにはわかった。
盾を従えた、魔法の剣。
その斬撃が、空中に閃光の弧を描きつつ、ルチアを強襲し、だが弾けて消えた。
ルチアの背中から生え広がった、光の翅。
それがマントの如く揺らめき、黒魔法令嬢のしなやかな裸身を守り包んでいる。
そこへ魔剣の斬撃が幾度も激突し、ことごとく跳ね返されていた。
光の鱗粉が、キラキラと散った。
「くっ…………!」
シェルミーネは、後方に跳びながら魔剣を振るった。
鱗粉の一粒一粒が、巨大化しながら燃え上がったのだ。
無数の、火球だった。
それらが一斉にシェルミーネを襲い、だが魔剣の一閃で薙ぎ払われ、砕け散る。
火の粉が、大量に舞う。
それを蹴散らして、冷たく輝くものが飛翔した。
「ね、シェルミーネ・グラーク……やらかして実家に引きこもってた奴が、何だか急に動き出した。どうしてかな、って思っちゃうわよ。それは」
氷だった。
黒い甲殻に包まれた繊手を、ルチアはシェルミーネに向けている。
固く鋭利な五指の周囲で、冷気が生じ、渦巻きながら固まって、巨大な氷塊と化す。
それが、射出されたのだ。
「アイリがね、あんたを頼ってドルムトへ向かった」
光の大盾が、シェルミーネの眼前にフワリと回り込んで浮かぶ。
そこに、氷塊が激突した。
「……ドルムトで一体、何があったのかって話になるワケだけど」
氷塊は、砕け散った。
無数の氷の破片が、空中に浮かんだ。
「ねえ悪役令嬢? あんた、自分がアイリを殺した……なぁんて言ってたけど。ま、それは世迷い言であるとして」
全て、固く鋭利な氷柱であった。
人体に、刺傷と凍傷を同時に負わせる、飛翔凶器。
「何があったのか、って言ったら…………アイリが、死んだのよね」
無数の氷柱が、様々な方向から、シェルミーネに向かって降り注ぐ。
「あんた……アイリを、看取ったんじゃないの?」
光の大盾が、シェルミーネの周囲を飛翔旋回した。
旋回しながら、分裂していた。
いくらか小さな光の盾が、無数。
シェルミーネを取り巻いて浮揚しつつ、氷柱の雨を防いで砕く。
その防御の中で、シェルミーネは魔剣を振るった。
斜めに宙を切り裂く、一閃。
斬撃の弧が、大きく描き出され、射出される。
三日月が、飛翔する。そんな様だった。
光の翅、による防御は間に合わなかった。
ルチアの白い細身に、飛翔する三日月が激突する。
大量の血飛沫が、空中に咲いた。
光の翅を広げた人外の裸身が、斜めに叩き斬られて美しい断面を晒す。
ほぼ、両断されている。
そう見えた時には、滑らかな断面と断面がぶつかり合い、密着し、癒合していた。
再生。
シェルミーネの斬撃など、最初から無かった事になっていた。
無傷の裸身を堂々と晒しながら、ルチアはなおも言う。
「アイリを殺した奴を、あんたは取り逃がした。だから追っている……もしくは」
触角が一瞬バチッ! と烈しい放電を起こした。
「アイリを殺した奴を……仕留めたはいいけど、背後関係を聞き出せなかった。だから今、色々と調べて回ってると。こっちじゃないかなって気がする。あんたの動き、この国のお偉い様方に出来るだけ近付こうとしてる、ようにしか見えないのよねえシェルミーネ・グラーク。要するに、黒幕を捜してるって事でしょ?」
「…………私から貴女に言える事。一つだけ、でしてよ。ルチア・バルファドール」
シェルミーネは言った。
「復讐は……最低限に、とどめておきなさい。人を大勢、殺すなど……国を、滅ぼすなど」
「一人か二人、殺すのは? いいって?」
ルチアは微笑んだ。
「直接アイリを殺した奴は、もうこの世にいないとして……あんた、そいつの命だけで済ませるつもりがないから、こんな所にいるのよね。で、黒幕を見つけたら、どうするの? とりあえず話でも聞く? 何か政治的な事情があって、アイリが生きてたら大勢の国民の安全が脅かされる、だから殺さなきゃいけなかった……そんな理由を語られたら、そいつを許しちゃうわけ?」
「今……そんな事が、わかるはずありませんわ」
シェルミーネの口調は、重く暗い。
「……貴女は、許さないのでしょうね」
「当然。そいつはもちろん、アイリが生きてるだけで脅かされる国民、なんて連中も……生かしておく、つもりはないわ」
「……最終的に、だから国を滅ぼすと?」
「さっきからねえ、そういうお話してるんだけど」
「…………そのような事、アイリさんが喜ぶはずありませんわ。私はね、そういうお話をしておりますのよ」
「何、当たり前の事を言っちゃってんのかしらねぇ。この悪役令嬢気取りな脳足りん田舎娘ときた日には」
ルチアが、白銀色の髪をさらりと掻き上げながら苦笑する。
「アイリが喜んでくれるワケないじゃない? あの子はねえ、もう私が何やらかしたって喜んでくれない、泣いてもくれない、怒ってもくれない。お説教だって、しちゃくれない」
ルチアは、呆れ果てているのか。
「それとも……ねえ、脳足りんのシェルミーネ。あんた、アイリが喜んでないのを見て確認でも出来るわけ? だったら私も、そこへ連れて行ってよ。私を、アイリに会わせなさいよ」
否、とイルベリオは思った。
ルチアは今、怒り狂っている。
「それが出来ないのに……何? アイリは喜んでないとか、得意げに……言っちゃう? この脳足りんは……この、ど腐れ悪役令嬢もどきは……脳足りんどころか、頭の中に脳髄じゃなくて家畜の糞でも詰まってる田舎娘は……」
一歩、ルチアはシェルミーネに向かって踏み出した。
軽やかな一歩、に見えた。
「…………死にたい、って事よねぇえ……ッッ!」
アドラン地方の山林、全体が揺れた。
地下の帝国陵墓で、またしても何か禍々しいものが覚醒したのか。
地を突き破り、現れようとしているのか。
いや。
禍々しいものは今すでに、地上で覚醒を遂げている。
ルチアの片足、甲殻のブーツに包まれた美脚が、大地を踏み砕いていた。
山林のあちこちで地面が破裂し、大量の土が噴出する。
木々を押しのけて、巨石が出現する。
地中の、構造物。
地下の帝国陵墓が一部、迫り上がって来ているのだ。
陵墓の、天井か、壁や柱か、玄室そのものか。
ともかく。巨大な石材の塊の上で、シェルミーネは身を起こしていた。
そして、見上げる。
少し離れた所では、陵墓のさらに巨大な部分が出現し、城郭の如くそびえ立っていた。
その頂上で、ルチアは光の翅を広げ、傲然と佇んでいる。
優美なる人外の裸身からは、魔力の揺らめきが立ち昇って風景を歪ませる。
白銀色の髪が、風も無いのに揺らめき続ける。
その美貌は憎悪と憤怒を漲らせ、シェルミーネを睨み据えていた。
「…………魔王……」
地中より現れた石柱の陰で、呆然と、陶然と、イルベリオは呟いた。
「そうだ、何の事はない。私は…………これを見たかった、だけなのだ……」
忌まわしきもの。
この世に、あってはならぬもの。
一度は、そう思い定めた。
だが自分は、見つけてしまったのだ。
魔王の、原材料を。
この世にあってはならぬ力を、受け継ぐにふさわしい器を。
「ルチア・バルファドール……貴女にさえ、出会わなければ……」
イルベリオは、涙を流していた。
「ヴェノーラ・ゲントリウスの、黒魔法を……私は、この世に残してしまった……受け継がせて、しまった……」
自分が、泣いているのか、笑っているのか、イルベリオはわからなくなっていた。
「帝国の滅びが、五百年後の今……再現される…………否! ルチアお嬢様。貴女の力は、まだまだヴェノーラ・ゲントリウスには遠く及びません。これからです。怒りが、憎しみが、貴女を……いずれ、ヴェノーラ陛下を超える災厄へと成長させる……」
右手に保持したものを、イルベリオは見つめた。
「……このようなもの、ルチアお嬢様には……もはや必要ない」
闇よりも暗い光の、塊。
ゲンペスト城にて入手した、怨念の塊である。
「君に、託す事にしましょう」
背後に控えた巨体に、イルベリオは語りかけていた。
「さして珍しくもなき旧帝国系貴族エンドルム家の、取るに足らぬ怨みの念……人間に植え付けたところで、出来損ないの肉塊にしかなりません。が、君ならば」
怨念の塊が、イルベリオの掌を離れて浮かび、吸い込まれてゆく。
魔像ボルグロッケンの、石造りの胸板へと。
「君に、託します」
もう一度、イルベリオは言った。
「私はもはや、ルチアお嬢様のお役には立てません……魔王を補佐するに、ふさわしい怪物へと進化して下さい」
語りかけている相手は、ボルグロッケンだけではない。
シェルミーネの足場となっている巨石。
その陰で、マローヌ・レネクに抱き上げられている、屍同然あるいは屍となる寸前の、惨めな肉塊。
「君にも……期待を、させてもらいますよ。リオネール君……」




