ストロング
目を止めてもらってありがとうございます。よろしければ読んでいただきたいです。
ストロング
太陽が昇る前の朝だ。強い風が吹き抜け、体の奥が凛と鳴ったような気がした。俺は新聞配達用の50ccのバイク、スーパーカブに跨り新聞を配っていた。たいていの人はまだ眠りについている時間帯だ。
車道から歩道、家のポストからポストへ、右へ左へと自由に動きまわる。庭付きの金持ちが住んでいるような家から、今時、数が少なくなった文化住宅まで、新聞を配ってまわる。昨日よりも速く配りたいと思う。自らにプレッシャーをかけ、無駄なく機敏に動く。そう、これはトレーニングだ。
何かと闘っているような気になる。誰よりも強くなりたい。動けば動くほどテンションはあがる。さらに、あえて体に負荷をかけるように、力をいれる。時折、体全体を、自分自身を駒のようだと思い込み、大きめのアクションで体をひねるように動かす。
マンションはエレベーターを使わずに階段をダッシュする。
いい訓練だ。毎日成長していくのが分る。みるみるうちに新聞の数は無くなっていく。最後の一部を配り終え、俺は大きく白い息を吐いた。体の力を抜き。両手を上げ、ゆったり、大きく、上半身をいたわるように大きく左右にひねる。鳥の囀りが聞こえてくる。俺は今、翼を休めている。そんなイメージが頭の中に浮かんだ。
微かに白みはじめた空は、とても高く澄んでいた。
新聞の販売所に戻ると、腕組みをした所長が、壁に掛かってある、古びた針時計を、一瞥した。黒いジーンズに、業務用のジャンパー、缶コーヒーを右手に持ち、反対の手で、少し薄くなった頭を掻きながら、大きな目をこちらに向けた。
「相変わらず、配り終えるの、速いな」そう言って顔をほころばせた。口元から光る銀歯が見える。俺は軽く肯き、首をグルリと回した。
「今日、道場ですから、夕刊は、早めに配ります」俺は当たり前のように言う。
「そうだったな、そろそろ、黒帯じゃないのか」
「今週の日曜日、昇段テストです」
「そうか、宮本師範が見込んだだけはあるな、一年で黒帯とはたいしたものだ」所長が言った宮本師範という人物、その人の紹介で、俺はここで働くようになったのだった。高校を辞め、家の中に閉じこもり、俺の人生は終わった。そう思っていた頃、あの人に出会った。たまたま、缶ジュースを買いに、コンビニに向かった日のことだった。いかつい体と、やけに鋭い目をしたおっさんが、チラシを配っていた。俺は目をあわさないようにして、通り過ぎようとした。おっさんは、いきなり、俺に近づいてきて、左肩を掴んだ。
「いい体だ、お前なら、一ヶ月は月謝免除にしてやる。一緒に拳法をやろう」とても、強い口調だった。顔は笑っているが、すごく威圧感があった。俺は思わず体をのけ反らした。
「おお、反射神経も良さそうだ。何かを感じる力があるようだ。ますます気に入った」そう言って、右肩も掴まれた。
「あの、よく意味が分からないのですが」俺はそう言った。
「大丈夫だ、心配するな、ところで今、いくら持っている」
「え」
「財布出してみろ」俺は、そのオッサンの何か異様な迫力に負け、ジーンズのポケットから、財布を取り出した。これは恐喝ではないのか、頭の中にそんなことが浮かんだ。
「入会金は一万だが、まあ、特別だ。半額の五千円でいいぞ、ほら、早く、五千円だせ」迷ったが、断れば殴られそうな気がした。この場から、立ち去るには、金を渡した方が得策だ。そう考え、渋々、金を渡した。おっさんはポケットから領収書を出し、ボールペンで金額を記入し、俺に渡した。そこには北真道場、宮本師範と書いてあった。
「おまえはついているぞ、明日から道場にこい」そういって大きな声を出して笑ったのが宮本師範だった。
時間を持て余していた俺は、なんとなく、次の日、道場に足を運んだ。好奇心なのか、なにかわからない。その日が晴れていたからかもしれない。
駅前の雑居ビルの屋上にプレハブの建物が立っていた。どうやらこれが道場のようだった。
時代劇でしか見たことのないような,木の引き戸を開けると。畳の香りが、心地よかった。どこか重い空気感がちょうど足元をしっかりさせてくれるような感じだった。
靴を脱ぎ、畳の上に立った時、何かが急に俺の中で動いた気がした。体が熱くなった。それでいて、妙に頭の中がスッキリした。
「よく来たな」宮
本師範の声がした。
練習は厳しかったが、拳法は俺にあっていた。勉強でもなく、人間関係でもなく、この世界は強ければ、いいのだった。
朝刊の配達後には旨い飯が用意されている。炊き立ての米に、味噌汁。朝から油ののったトンカツだ。俺は飯をガツガツと食う。他の大学生のバイトや、中年で正社員の人も、新聞を配り終わり、食時をしている。米のお代りをし、味噌汁で流し込む。腹一杯になり食べ終えた後は、煙草を吹かす、こればかりは止められない。天井にゆっくり煙が昇っていく。
販売所の上が寮になっている。俺は部屋に入り、テレビのスイッチをいれた。大変な不景気で、若い人は就職がないと、コメンテーターが言っていた。だから、何だという感じだ。今、俺は拳法のことで、頭がいっぱいだ、金、そうじゃない。そんなものじゃない。世間がどう動こうと知ったことじゃない。
窓からは太陽の陽が射しこんでいた。腕立て伏せと、腹筋をする。そして、軽くシャドーをする。大きく息を吐いた後、睡魔が、とても心地よくやってくる。睡眠は大切だ。体を休めるためにだ。布団を敷き、横になる。拳法を始めてからほとんど夢を見なくなった。
ここは、どこだ。なんだか、俺の体は宙に浮いているようだった。天井が目の前にあった。左右からは僅かな光が射し込んでいるだけで、薄暗い。俺は首をひねる。はっきりとは見えないが、真下には、もう一人の俺がいるようだった。俺が俺を見ている。薄汚れた部屋の中で俺がうずくまり、頭を垂れている感じだった。ここは新聞屋の寮ではない。声を出そうにも声が出ない。これは夢だ。直観的にそう思った。もう一人の俺は、顔をあげたようだった。その顔はぼやけてはいたが、やがてはっきりと俺の目に映った。とても辛そうな顔、目は真っ赤だった。泣き腫らした目だ。何かあったのか。別の場所で、うちひしがれている自分。僅かな光はやがて、ゆっくり、暗闇の中に溶けていった。
目を覚ますと、シミのついたいつもの天井が見えた。俺は上半身を起こし、腕を伸ばして、煙草に腕を伸ばした。かなりの汗をかいている。煙草に火を付け、いつもよりたくさん煙を吸い込み吐き出した。久しぶりの夢だった。拳法に出会っていなければ、どうしていただろうか、そんなことをぼんやりと考えた。
俺は、スーパーカブに乗り、道場へと向かう、風を切り裂くようにアクセルを回しスピードを上げていく、背筋が伸び、気が引き締まる。薄紫の道路を走る。
北真拳法と書いてある大きな看板を一瞥する。靴を脱ぎ下駄箱にしまう。ここからすでに緊張感のある空気が流れている。 まだ稽古開始前だが、重厚なサンドバックを蹴る音や、気合の入った声が聞こえてくる。
「オス」道場への入り口で声を上げ、一礼する。全身に力が漲る。
道着に着替えた俺は、時計に目をやる、本格的なみんなでの稽古開始の10分前だった。
全身が映る鏡の前で、軽くシャドーをする。自分の顔に目がけて、ワン、ツーを打つ。自分の顔を的にする。心を冷静に体は熱くすることを意識する。
今日の練習生は8人ほどだった。稽古開始になると、宮本師範が前に立ち、まずストレッチから始まる。そして基本稽古へと続く。正拳突き、50本、左右の回し蹴り、30本ずつなどメニューがこなされていく。宮本師範は中年とは思えない、体力と身のこなしをしている。廻し蹴りなどは竜がとぐろを巻いたように見える。
次に二人一組の練習がはじまる。わき腹の付近にキックミットを構え、移動しながら、交互に蹴りあう。相手は俺より十歳以上上の橋口さんだ。拳法歴11年、慎重は俺と同じぐらいで、180cmはあるだろう、体重は俺より重そうだ。橋口さんの回し蹴りはキックミットを付けて受けていても、頭の芯が、痺れてくる。切れ長の目には凄味がある。
あっというまに練習時間は過ぎていく、稽古が、終わりに近づいてくると、真剣勝負ともいえる組み手だ。
「今日は、試合を想定していく」宮本師範が嬉しそうな顔をする。今日来ているメンバーで、ダントツなのは橋口さんだ。他はたいしたことはない。
「橋口と西山、いこうか」俺かよ、一瞬、本能が震えた。
10分後、俺は道場の隅でぶっ倒れた。
顔面に膝蹴りをもらい。気を失っていたのだった。ぼんやりと戻ってきた意識の中で、いい勉強になったと俺は自分に言い聞かせる。いつか、必ず橋口さんに勝つ。必ず。俺は闘志を漲らせる。ふと、宮本師範の方を見ると。相変わらず嬉しそうな笑みを浮かべていた。
練習が終わり、皆で正座をする。正面にはこちらを向いた宮本師範も正座をしている。宮本師範が言葉を発した。
「素人には手をだすな、ヤクザ者には引くな、今日の練習これまで、黙想」
「オス」門下生が気合いの入った返事をする。黙想なので俺は目を瞑り、考えを巡らす。それにしても、ヤクザには引かないってどういう意味だ。ヤクザと喧嘩しろということか、そりゃ、あんな奴ら、のさばらすのは、いい気はしないが、相手はヤクザだぜ。まあ、とりあえず今は練習あるのみだ。それにしても今日の顔面への膝蹴り強烈だったな、鼻が折れなくてよかった。
「本日の稽古はここまで、正面、礼」目を開けた宮本師範が今日の稽古の終わりを告げる
「オス」さっきよりもさらに気合の入った声を皆が出す。もちろん、その中に俺もいる。
道場をでると風が心地良かった。俺は軽く
肩を叩かれた。振り返ると橋口さんがいた。
「一緒に帰ろうぜ」一瞬、惑ったが。俺は頷いた。
「橋口さん強いですね、あそこで、膝ですか」
「西山は、俺を超えるよ、だから、膝蹴りまでだしたんだ」橋口さんは笑顔だった。
「それって」
「おまえは抜群のセンスを持っている、今度、飲みに行こうぜ、才能のある奴に会うのは久しぶりだ」
「ありがとうございます」俺は照れて空を見上げた、大きな丸い月が出ていた。
橋口さんと別れて、俺は、スーパーカブを走らせる。火照った体が、静かになっていく。販売所に戻り、近くの自動販売機で、500ミリのビールを買う、空を見上げながら、ゴクリと飲む。体の中がとろけていきそうになる。もっと強くなる。自分に、また、言い聞かせる。
部屋に戻り、布団に横になり、今日の組み手のことを考えていた。なぜあそこで、膝を決められたのか、予想外、そう、まさか膝など、だしてこないという甘い考えがあった。気合いがたりていない。体全体に気が漲っていれば、初めての攻撃でも対処できるはずだ。立ち上がり、軽くシャドーをし、今日の組み手をイメージする。それと、迷いだ、懐にはいるか、距離を取るかで、体ではなく、頭で考えしまったことが原因だ。たぶん昇段テストで、もう一度橋口さんとやることになるだろう。西山には才能があるとい言った、橋口さんの言葉に対して俺が勝つことで喜んでもらおう。
昇段テストの日がやってきた。道場は活気に満ちている。そのなかでひときわ白い肌と、愛苦しい笑顔で、子供達の輪の中心にいる女性がいた。宮本師範の年の離れた妹、宮本 真美だった。彼女は拳法はやらない、イベントや雑用があるときに手伝いに来る。真美と目が合った。
「西山くん久しぶり、がんばっているみたいね」澄んだ瞳をしている。年は俺より少し上だ。大学で、文学の勉強をしているという真美にたいして、学のない俺は、どこか憧れを抱いていた
「体鍛えることしか、能がないからね」
「体を動かすってことは、脳を使っていることと変わりないのよ」俺は暫く沈黙したが笑みがこぼれた。子供が、駆け寄ってきて、俺の脚に甘えるように絡みついてくる。
「どうすれば、強くなれるの」子供はじっとこちらを見あげた。強くなりたい、それは俺も同じだ。俺は今、強くなろうとしている。でも、なぜか子供に問いかけれ、答えることが、出来なかった。
「強いってなんなのかしらね」真美は微笑んだ。窓からの陽の光が真美を照らしている。
子供の部の昇給テストが始まった。子供の場合は頭への攻撃は一切無しというルールが定められている。中には組み手の途中、泣きながら戦う子もいて、見学の人達を和ませた。真美は俺の隣で、そんな子供たちの様子を見ていた。
「西山君、今日ちょっと、付き合ってくれない」真美の顔が近くにあった。俺は鼓動が速くなるのを感じた。試合での緊張感とは別の何かを。
「いいけど、何」俺は言葉を発した。
「卒業論文で、わたし肉体と文学というのをテーマで出すのよ、私の周りで体を鍛えている男の人は、同世代では西山君しかいないのよね、まあ、取材ってとこね」真美は肯きながら思案げな顔になった。そんなことかと気が緩んだ時、こちらを見ている宮本師範と目が合った。いや、あの、心の中で言葉にならない弁解をした。
「おやすいご用です」俺はできるだけ、小さな声を出した。
子供の部の方が終わり、いよいよ大人の組み手が始まった。予想通り、相手は橋口さんだった。
橋口さんは首を回しながらこちらを見据えている。とても鋭い眼をしている。俺は自分の血が逆流していくのが分る。この前のようにはいかない。と言い聞かす。
宮本師範の掛け声で、組み手にはいった。
橋口さんがローキックを仕掛けてくる。俺は膝を上げ、逆に相手の脛を砕くように膝で跳ね返した後、こちらもローキックで応戦する。今度は向こうが、腹に重いストレート、レバーへのショートフックと連続して攻撃してくる。一瞬呼吸困難に落ちいりそうになる。ファイティングポーズをしたまま、相手に分からないように背中を軽く反らし、息を整える、俺は中段廻し蹴りを連続で放つ。その後、高廻し蹴りの変則蹴りをいれるが、空を切る。得体の知れない何かが、体を駆け抜ける。この前のようにはいかない、なんとしても勝つ。俺はラッシュをかける。連続の突きから、腹にめがけて、正面蹴り、わき腹めがけて、廻し蹴りの連続、一瞬、半歩、橋口さんが後ろに下がった。いける。俺は、橋口さんの懐に飛び込んだ。橋口さんが、俺の頭をつかむ。膝蹴りがくると思った。俺はさらに懐に入り込んだ、橋口さんがバランスを崩す。その瞬間、逆に、俺の膝が橋本さんの顔面に炸裂した。橋口さんがスローモーションで倒れて行った。
「それまで」宮本師範の声が響いた。
意識を失っていた橋口さんが起き上がり、「やるな」と、欠けた前歯を見せた。
俺は黒帯をはめることになった。
俺は真美と喫茶店にいた。淡いオレンジの照明が落ち着いた雰囲気を醸し出している。飾ってある風景は異国の田園風景のようだ。何か心を和ませるような気がした。店内には控えめにジャズが流れていた。ブラウンのテーブル席に座った客は俺達だけだった。
「隠れ家みたいな店だね」俺は小声を出した。
「なんだか落ち着くの、何か考えごとをする時なんかにはね」真美はセブンスターを取り出しライターで火をつけた。
「煙草吸うの」
「中学からね、兄には内緒ね」真美はいたずらをした子供みたいに笑った。俺も煙草を吸った。真美の目の中に俺が映っている。紫煙が二人の仲をどこか親密にしていた。
「どうして、格闘技が好きなの」真美は真剣な口調で言った。
「どう言っていいのかわからない、ただ、燃えるんだ。熱くなる」
「アドレナリンね」
「科学的なことは分からないけど、男は本来戦う為に生れて、きたのかも知れないと思う」俺は真美の眼を見据えた。
「兄もそんなことを時々言うわ、何に対して戦っているのかな、少し怖いわよ」俺は真美から眼をそらした。
「それは、今の俺には分からない、体を鍛えれば、どんどん鍛えたくなる。麻薬みたいなものだ」
「女の人には興味ないの」
「無くはないけど」
「兄も結婚してないし、男、男と言うわりには、モテないのよね」
「宮本師範はすごいよ」真美は微笑、アイスコーヒーを掻き混ぜた。少し溶けた氷の音が聞こえた気がした。
「文学と、拳法って、まったく違うものだと思うの、まあ、兄もたまには、読書するみたいだけど、読んでいるのは宮本武蔵の五輪書、戦うことを潔しって感じで、こう、生きることにウジウジしてないのよね、さっぱりしているといえば、そうだけど、単純ともいえるのよね」
「真美ちゃんは、生きることに後ろ向きなの」
「そうかもしれないわ、だから、どこかあなたみたいな人に興味を持つのかもしれない」真美の眼の奥の色が変ったように思えた。店の中は静かなジャズが流れ続けていた。俺は真美の白い肌に吸いつけられるような気がした。それは甘く、なにかに包みこまれるような感じだった。
「あなたを知りたい」真美はとてもクールな口調だった。テーブルの上にあった俺の手の甲を人差し指で撫でた。俺の体は沸騰したように熱くなった。
店を後にし、目立たない路地に入り、俺達はキスをした。時間が止まっているようだった。ちょうど目の前にファッションホテルがあった。真美は俺の方を見て小さく肯いた。真美の手を取り俺はホテルの中に入った。心臓が爆発しそうだった。
エレベーターの中で、俺は真美の壊れそうな肩を抱いた。地に足がついていないような感覚だ。
部屋に入ると、大きなベッドの上にあるブーケを見て、真美は「綺麗」と頬を赤らめた。
さらに続けて「はじめてなの」と下を向いた。
「俺も」と真美を抱きしめた。
ぎこちない二人の行為は中々、ひとつにはなれなかった。どれくらい時間がたっただろうか、真美と何かが通じあった。俺は真美を守りたい、と今まで経験したことのない思いが、胸の中をしめつけた。
「責任なんて、感じないでいいわよ」真美はセブンスターを口に咥えた。
「責任を感じたい」その言葉に嘘はなかった。
「つきあってみる」とても、やさしく真美は微笑んだ。
「もちろん」俺は真美に口づけをした。時がとまったような気がした。どれぐらい時間がたったろうか、肩を寄せ合いぼんやりとしていた。
「卒論、いいのが書けそう」真美が冗談ぽく言う。
「そのため」
「そう感じる」俺は大きく頭を左右に振った。
外には夜の帳がすっかり降りていた。いつもどこかうるさく聞こえる。町の音が、優しく聞こえ、派手なネオンの明滅さえも、穏やかな光のように感じた。強く真美の手を握る。真美も握り返してくる。真美と見つめあう。
「そろそろ、帰らなくちゃ」真美が優しく微笑む。俺は小さく肯く。俺の手が名残惜しそうに真美の手から離れる。
「連絡ちょうだいね」真美がはにかむように言う。
「もちろん」俺の声は少し大きかった。
俺は真美と別れて、スーパーカブが置いてある道場の近くに向かっていた。男になった。しかも相手は真美だ。月の明かりが神々しく、すべてに受け入れられているような気がした。とても甘美な風が吹いていた。
スーパーカブに跨り、キーを差し込む。エンジン音が響く。ライトつけると、目の前に一匹の縞猫がいることに気が付いた。こちらを何気に見ている感じだ。縞猫は暫くすると、ゆっくりとした足取りで、歩き出し狭い路地の方へ消えていった。不意に、もし真美がいなくなったら俺はどうなんのだろうか、くぐもった考えが頭の中によぎった。空を見上げると月には少し雲がかかっていた。俺はかぶりをふり、くだらない考えだと思った。
部屋に戻り、道着をだし、黒帯を眺めた。有段者になったことにも、高揚感を感じた。しばらくすると心地よい睡魔がやってきた。布団の中に潜りこみ真美のことを思い出す。歓喜の声を心の中で上げた。夢も見ず、そのまま、ぐっすり深い眠りに落ちた。
いつものように、練習を終え、道場から出て、煙草を吹かしながら外の空気を吸っていると、橋口さんから声を掛けられた。
「軽く飲みに行かないか」歯はまだ欠けたままだった。
「今からですか」
「あ、そうか、悪い、単車だったな、また今度にするか」
「いいですよ、明日は朝刊休みだし、カブは置いて、ロードワークして帰りますから」
「練習熱心だな、そうか、じゃあ一杯いこう」そう言って橋口さんは俺の前を歩き出した。その後を俺はついていく。やがてこじんまりとした商店街が見えきた。アーケードの中に入ると。焼鳥屋の、赤い提灯が目に入った。食欲をそそる香りがする。
「ここでいいか」
「いい感じですね」俺は橋口さんの後につづき、暖簾をくぐった。
「いらっしゃい」活気のある声で迎えられる。店内は、ほぼ満席に近かったが、カウンタ―の席が空いていた。アルバイトだろうか、同じ年位の男が、切れのある動きで、注文を取りに来た。飲食店で働くのも悪くない、なんとなくそんな気がした。とりあえず生ビールを注文する。
「忙しそうな店ですね、よく来るのですか」
「練習が終わった後、たまにな、ここの焼き鳥、かなりいけるぞ」橋口さんの左側の口元が少し上がり、笑みになった。
注文された生ビールが運ばれてきて、俺と橋口さんは、ほとんど一気に飲みほした。生ビールをおかわりし、焼鳥の盛り合わせを頼んだ。
「橋口さんは、仕事なにをしているのですか」
「俺は、こうみえても弁護士だ、まだ駆け出しだけどな」
「え、すごいじゃないですか」俺は意外な答えにすごく驚いた。
「歯の欠けた弁護士というのも、様にならないけどな」橋口さんは一指し指で口元を指し、また笑った。
「文武両道じゃないですか」
「持ち上げるなよ、まあ、俺のやっていることは主に、今は債務整理だ、借金を帳消しにし、時には、闇金と、一戦をまじえることもある。相手はやくざみたいな連中だ。もちろん、本物もいる。武道をやっていなかったら、今頃、崩れていたかもな」生ビールを口元に持っていきながら、橋口さんの眉間に皺がよった、
「すごいですね」
「西山は将来、何をするつもりだ」口調が優しい兄のように思えた。
「俺、その辺のことは分からないです。いまはただ、強くなりたいと思っているだけです」
「今しか見えないか、それも大事なことだ」
「拳法で、飯食えないですかね」俺は率直に聞いてみた
「宮本師範でも、建築の職人として、仕事を持ちながら道場をやっているからな、もちろん道場だけで、生活している人も中にはいるけどな、どうかな、そうとうな、覚悟がいるんじゃないかな、西山には才能があるが、強い奴はもっといるからな」俺は木目のテーブルの下に目を落とした。横から「おまちどうさま」と声がした。焼き鳥の盛り合わせが運ばれてきた。
「まあ、食えよ」そう言いながら、橋本さんは焼き鳥に腕を伸ばした。俺は肯き、焼き鳥を口元に運んだ。
「うまいですね」思わず大きめの声が出た。
「いけるだろ」橋本さんも焼き鳥を頬張った。
「ところで、橋本さん強くなるのに良い方法ないですかね」
「道場破りなんてどうだ」橋口さんの目つきが変わった。意外な意見だ。俺は生ビールをゴクリと音を立て飲んだ
「そんなことして、もし負けたら道場のメンツが」
「もちろん、こっちは白帯をはめていく、負けてもこっちの北真道場の名は傷つかない。なんといっても、真剣勝負だ。それと、まったく知らない奴とやるのは、緊張感が増し、ものすごい訓練になる。路上での喧嘩も、いい練習になるが、法を守る、俺の立場では薦められない」
「面白そうですね」
「悪くないだろ、宮本師範には内緒だぞ」
「わかりました」俺達はジョッキを手に持ち乾杯した。
俺と橋口さんは隣町に来ていた。平屋建ての建物が目に入る。古びたモルタルの壁、煤けた感じの佇まい。油の匂いが滲んでいる。加賀鉄工所という看板が掛けてある。その横にもう一つ看板がある。加賀空手と書いてある。職場兼、道場のようだ。
「昔からある道場で、結構有名だったが、最近名前を聞かない、まあ、たいした奴もいないだろう。手頃な感じだ」橋口さんが説明する。
橋口さんが木の引き戸を開けると、何台かの機械が目に映った。静かな空気感があった。その奥には北真道場と同じくらいの広さで畳が敷いてあり、外見とは違い中は意外と広かった。壁には、ヌンチャクや、サイ、棒術用の棒が掛けてあったが、どこか戦いが終わった廃墟のようだった。奥の方に、一人の男の後姿があった。胡坐をかき、一升瓶を抱えている。アルコールの香りがする。どうやら、酒を飲んでいるようだった。男は振り向き、ぎょろりとした目をこちらに向けた。
「なんだ」小柄な中年の男は、無精鬚を生やし、赤い顔をしていた。大きな目と、細い眉毛が印象的だった。
「空手に興味がありまして」橋口さんは頭を掻いていた。
「ご覧の通り、今、わししかおらん、わしがここの主だが」そう言って男は立ち上がり、ふらついた足で、こちらに歩いてきた。虚ろな目で俺達を見た後、橋口さんの肩を触った。
「武道の心得はあるようだな」男は黄色い歯を見せた。
「かじった程度です」橋口さんが言葉を発する。俺は橋口さんの方に目をやった。橋口さんは小さく溜息をついた。確かにこれでは話にならない、酔っぱらいの師範が一人いるだけでは。
「すいません、また日を改めて来ます」橋口さんが軽く会釈をした。男は腕を組み、こちらを凝視した。
「本当は、道場破りに来たのだろう。どこの道場だ」俺達は見抜かれていた。男の体がスッと動いた。とても素早く俺の肩に掛けてあるボストンバックのチャックを下ろした。ボストンバッグのなかの道着を見て、ニヤリとした。かわす間がなかった。
「北真拳法です。ちょっと、まあ、他の道場がどんなものかと思って」橋口さんが珍しく緊張した口調だった。
「宮本のところか、看板か、持って行け」俺は耳を疑った。
男は右側を向き、ぼんやりと壁を見た。一瞬の出来事だった。男が壁にかかった銀色のサイを持ったと思った瞬間、その刹那、つむじ風が吹いたように男は動いた。無駄のない動きで、サイがまるで射るように橋口さんの喉元の前にあった。ほんの数ミリだけしか距離はあいていない。橋口さんの喉仏がピクリと動いた。
「気合いが足りてない、あまり馬鹿な考えはするな、ただ、もうわしにはその看板は必要がない。宮本のところなら良いだろう、持って帰ってくれ」男は橋口さんの喉元に突き付けたサイをゆっくりと下した。
「そんな勝負に負けているのはこちらです。そんなことはできません」橋口さんの顔は赤かった。
「頼む、持って帰ってくれ」男は、加賀師範は頭を下げた。目は酒のせいなのか赤く充血していた。
重い気分で俺達は看板を担いでいた。
「宮本師範になんて言いましょう」
「本当のことを言うしかないだろう」曇天の空は今にも雨が降りだしそうだった。
「馬鹿野郎!いますぐ返してこい」宮本師範が、気合いを入れるためではなく。怒声をあげた。俺は身震いした。沸騰した熱い湯を掛けられたようだった。
「本人が、ですね」橋口さんは、もう一度ことの成行きを説明しようとした。宮本師範の右手が、ピクリと動いたと思った瞬間、掌ていで橋口さんは吹っ飛んだ。
「道場の看板を取るということは相手の命を取ることだ。そんなことはしてはいけない。すぐ行って頭を下げてこい」橋口さんは血まみれの顔を抑えながら肯いた。俺も大きく首を縦にした。
雨の中、俺達は看板を担ぎ、加賀道場に向かっていた。道行く人は、橋口さんの血に染まった服を見て、異様な者でも見るような目つきをしていた。
「橋口さん大丈夫ですか」
「ああ、少し鼻が曲がったみたいだけどな、歯といい、鼻といい、まあ、まいるな。でも宮本師範の言っていることは正しい、殴られて、目が覚めたよ、調子に乗ってたな俺達、まあ土下座でもして受けとってもらう」
「加賀師範は、向こうから」俺は加賀師範の赤い眼を思い出していた
「それでも受けとってはいけなかった」雨はさらに激しくなり、雷が鳴りだしていた。
加賀道場は静まり返っていた。日も暮れかけた、薄暗い道場に、落雷が響いた。
だが俺達が見たのは首を吊った加賀師範だった。
通夜の席では、俺は川底に沈む小さな石のように、沈黙いていた。軽い気持ちだった。まだ状況が上手く飲み込めていないのも事実だ。人が、一人、自ら命を絶った。その理由の一端を俺と橋口さんは荷なった。今、ここにいることすら、間違いのような気がした。警察には、ただ、見学に来ただけだと嘘をついた。自らをかばった部分もあったが、言うべきことではないと思った。奥さんだろうか、色んな人に頭を下げている。自殺。警察がいうには遺書が発見されたということだった。門下生の借金の保証人になり、もう、鉄工所のほうもどうにもならなくなっていたらしい。奥さんには申し訳ないと、綴ってあったそうだ。俺達はただ見学に来ただけなのに、トラブルに巻き込まれ、通夜まで、訪れている気のいい青年に見えているのだろうか。
緑のパイプ椅子に橋口さんと並んで座っていた時、何か得体のしれない視線を感じた。俺は座ったまま振り返った。そこには何か不気味な一人の男が立っていた。目が合った俺は軽く会釈をした。橋口さんも振り返った。男は唇を斜めに上げ、射るような目でこちらを見た。
「お前ら、道場破りに来たのだろ」男の声は冷静というより、冷酷な声だった。俺と橋口さんは眼を合わせ、下を向いた。男はそれ以上何も言わず、ただ、こちらを凝視していた。橋口さんが立ち上がり軽く一礼した。男は何も言わない。とても重い空気が流れた。
「俺たちはそろそろ行きます」橋口さが申し訳なさそうに小声で言った。男はまるで俺たちの顔を正確にインプットするようにじっとこちらを見たままだった。橋口さんが俺の袖を引っ張り、俺達はその場を離れた。
俺達はこの前の店で、ビールを飲んでいた。まだ重苦しい、空気が流れていた。
「仕方ないさ、俺達のせいじゃない」橋口さんは頬を赤く染めていた。カウンターには、サラリーマンだろうか、スーツ姿の中年の男二人が、ひそひそ話をしていた。店のスタッフは相変わらず愛想良く、機敏な動きをしている。焼鳥の焼ける香りが店内に充満している。俺はあまり食欲が無かった。一人の武道家が息を引き取った。橋口さんにサイを向けた、眼光を思い出す。とても、死ぬような人には思えなかった。
「借金なのですね」
「そうみたいだな、弁護士にでも、そう、俺にでも相談していてくれればよかったのに。破産でも、債務整理でも方法はいくらでもあったはずだ」俺は小さく頷いた。
「さっきの男、道場破りのこと知ってましたね」
「どこからか、話が漏れたのだろう。本人が死ぬ前に話したかもしれない。四十歳ぐらいの不気味な感じの男だったな」
「なにか、見ていると、息がつまるような」
「まあ、もう、会うことはないさ」そういって橋口さんは苦い小石でも飲み込むように生ビールを一気に飲み干した。
店の外に出ると、空気は、澄んでいるように思えた。夜空には丸い月が、どこかおぼろげに浮いていた。
「強さってなんですかね」
「難しいこと聞くな」空を見上げ橋口さんは、それ以上、何も言わなかった。
真美と久々に会った。公園のベンチに俺たちは腰を掛けていた。真美にはとても会いたかったが、どこか自分の芯のような部分が鉄から、プラスチックになったような気がしていた。そんな折れそうな心を見せたくなかった。真美の前では強くありたかった。
「何か元気ないね」真美の白い肌が、太陽の光を浴びて、眩しく半透明に見えた。雲一つない青い空だった。真美はトートバックからセブンスターを取り出し、ゆっくりと煙草を咥え、ピンクの小さなライターで火をつけた。小鳥の鳴き声が時折聞こえる。
「そうかな」俺は公園の中央にある噴水を見つめていた。水飛沫の中に、子供の遊ぶ声が混じっているような気がした。
「なにか、あったの」俺の肩に真美はもたれかかった。
「ちょっとね」俺の心臓の鼓動は加速していく。
「兄もそうなのよね、男は弱みを見せちゃいけないって感じで、辛い時や、悩んでいる時は、何も言わないの、そういうのが男だと思っているのね、まあ、年が離れているせいもあるのかもしれないけど」
「それ、駄目なのかな」
「そうじゃない、ただ、私には本当の自分を見せて欲しいの、瘦せ我慢なんてしなくていいの」
「そんなんじゃないよ」俺は強い口調だった。折れそうな自分を何かで支えているようだった。真美の言うことが胸に刺さる。
「だったらいいんだけどね」
「宮本師範って、無理しているのかな」
「私からすれば、もう、自分で自分を騙して訳分からなくなっているじゃない、でも、世の中の大半の大人は皆そんなものよ」俺も自分で自分を騙そうとしているのもしれない、そんな考えが頭をよぎった。
「正直、考えさせられることがあったのは確かだ」俺は空に眼をやった。
「よし、よし、素直になりかけている。子供の頃、西山君は何になりたかったの」
「俺、俺は正義のヒーローかな」何故か俺は顔を赤らめていた。
「どうして、ヒーローなの」
「そりゃやっぱりカッコイイと思って」
「カッコイイって何」
「え」俺は言葉を詰まらせた。
「西山君が、思っているのは、クールでスマートな感じかな、私が思うには、もっとどろどろして、必死なのがいい感じに思えるのだけど」真美は俺の方を見て小さく笑った、瞳の中に俺のどこか、不安げな姿が映っていた。そうかもしれない、何か俺の中で、ガラスの階段が、崩れていくような気がした。強いとは何か、そんな疑問がまた湧き上がる。
「今の俺には、なんだか難しいけど、いずれ分るような気がする」
「偉そうだったかな、何か伝えたくて」眩しい光の中、鳥の影が一瞬、真美の体を掠める。前髪をかきあげ、俺をじっと見つめる真美、俺の中で、何かが柔らかく、溶けてゆく。青い竜巻が、自然の力で静かな風になるように。真美を離したくない。俺は半ば震えている自分に気づいた。
どこからともなく、爆音がた。改造した単車に乗った若い奴らが、公園の中に単車を乗りつけてきた。俺は、ふと、真美が襲われれば、どうするだろか、と考えた。相手は5人ほど、弱い奴だったら、引きわけに持っていけるかもしれないが、奴らが鉄パイプなど、武器を使ってきたら、どうすればいいのだろうか。俺は身を引き締めた。
「どうしたの」真美が心配そうに俺の眼の奥を覗きこんだ。
「別に」俺は平静を装った。暴走族風の男たちの奇声が、聞こえる。まだ陽は昇っているというのに打ち上げ花火を上げて喜んでいる。
突然だった。真美が急に震えだした。カクカクと震えだし、息を詰まらせた。顔は蒼褪め、呼吸困難に陥った。俺はどうしていいのか、一瞬、分からなくなった。男達のグループがこちらに気がついた。一人の男がこちらに駆け寄ってきた。
「それ、癲癇の発作だよ!」男がタオルを差し出してきた。俺はそれを受け取り、真美の口に突っ込んだ。
「俺の妹と一緒だ。早く救急車呼んだほうがいいよ」
「わかった、ありがとう」俺は携帯で、救急車を呼んだ。
病院のベッドで、横になって、眠る真美を見ていた。俺はヤンキーが、渡してくれた、汚れたタオルを握りしめ、見知らぬ彼に感謝していた。
真美が目を開け、天井をじっと見上げていた。深く考え込んでいるようだった。
「私のこと嫌いになる」真美は目にうっすらと涙を浮かべていた。
「そんなわけないじゃないか」俺は真美の手を握った。
「だったら嬉しいけど」俺にとって癲癇という病気はよくわからなかったが、逆に真美が病気のせいで、もっと、近い存在に思えた。真美の手は汗ばんでいた。強く握ると、強く握り返してきた。傍にずっといたい、俺はそう思った。
「ふと、思ったのだけど、西山君のお父さん何やっているの」真美に少しいつもの笑顔が戻っていた。
「俺の親父、まあ、勤め人っていうのか、工場で働いているよ、朝から晩まで流れ作業ってやつじゃないのかな」
「ずっと、同じことするなんてすごいじゃない」
「そうかな、俺は、親父みたいには、なりたくはないけどね」
「どうして」
「男に生まれたからには何かでかいことやりたい。日々変わらない生活なんてごめんだ」俺は自分で今言ったセリフが、不思議なものに感じた。一年前の俺からは想像も出来ないことを口にしていた。
「男のロマンなの」真美は俯き、両指を絡めた自分の手を見ていた。
「難しいことは分からないけど、今はそんな気がする」
「私は、昔から、病気があったからだと思うけど、普通っていうのにすごく憧れていたの、親もいなかったし、兄と二人きりだったじゃない、だから、家族があって、健康な体があって、なんていうのかな、平凡っていうのが好きなの」俺は暫く沈黙した。病室の窓からは淡い陽が射し込んでいた。いつもより真美が小さく見えた。真美の肩をそっと抱いた。普通という言葉を反芻しながら。
夕刊を配る為に、俺はスーパーカブに乗り、病院を後にしていた。信号待ちで、幼い子を連れた家族連れに目がいった。俺も、あんな時があったのだ。親父や、お袋に連れられて頃、胸の奥がジンと熱くなった。どこか遠い懐かしい夢を思い出しているようだった。真美には、そんな時期がなかったのか、これからは俺が真美を守っていく、否、守りたい。後ろから、クラクションが鳴らされ、俺は発進した。今までになかったどこか、温かい、気持ちになっていた。それは束の間の幸せだったのかもしれない。
新聞屋に戻ると、沢山の人がいた。焼け焦げた匂い、消防車、俺は人垣をかきわけ、店の中に入った。警察に事情を聞かれている所長の姿がそこにはあった。所長は何度も頭を下げていた。
「どうしたんですか」俺は所長を見た。
「ボヤでよかったが、たぶん放火だよ、まったく火の気のないところから、突然な、まあ、この程度ですんだから、不幸中の幸いだ」疲れた顔だった。
「大変でしたね」
「西山君、少し話がある」所長は翳りのある顔で力なく笑った。
向かいの喫茶店で、俺達は向かい合って座った。二人ともアイスコーヒーを頼んだ。
「話っていうのはなんですか」
「いや、この前、久しぶりに飲みに行ったんだ、すると若いチンピラヤクザみたいなのが俺の後から入ってきて、これは独り言だけどなって、話をしだした。俺達は武道をやっている奴が嫌いだ。虫唾が走る。特に、若い奴の面倒を見ちゃいけない。そんなことしていたら、家が燃えちゃったりするよと言ったんだ」俺は唾を飲み込んだ。
「それで」
「最近、後をつけられていうようなことがあったような気もするし、ちょっと、知り合いに聞いてみたが、西山くん、加賀とかいう大物のヤクザと、揉めたらしいじゃないか」所長はアイスコーヒーをストローでかき混ぜた。加賀、あの時の男、もしかしたら、加賀師範の弟なのかもしれない。俺は通夜のことを思い出していた。鋭い眼をした不気味な男のことを。さらに所長は言葉を続けた。
「加島の名前を出せば、誰でも、怖がる。人なんて何人殺しているかわからない。こればっかりは困ったものだ。それに、奴らは直接本人には手を出さず。周りの弱い人間から狙っていく」所長は大きな溜息をついた。
「警察に相談すれば」俺は強い口調になった。
「証拠がなければ警察は動かないよ、ことが起こってからでは遅いし、それでも、ただ、誰かが、行方不明になっただけで終わる場合もある。言いにくいのだが、西山君、辞めてもらえないかな、悪いとは思っている。家にはまだ小さい娘がいる。こいうことは避けたい。悪い」俺は頭を下げられた。俺は迷惑をかけているのか。
「そうですか、わかりました。今日にでも寮を出ます」
「助かるよ、本当にすまない」所長は深く頭を下げた。
別に、部屋にあるもので、持っていきたいものは無かった。ボストンバックに服を詰め込み、煙草を吸った。どこへいこうか、実家、所長の話だと、まじめな両親に迷惑がかかるかもしれない。どこへいくべきか、どこか遠くへ行くべきか、真美の顔が頭に浮かぶ、逃げたくはない。例え相手がヤクザであろうと。俺は宮本師範の言ったことを思い出した。相手がヤクザでも引いてはいけない。そうだ、俺は売られた喧嘩は買う。まあ、とりあえず、この場所とは、おさらばだ。何故だが分からないが自分の血が沸騰してきているような気がした。やってくれるじゃないか、ヤクザさんよ、面白いかもしれない。俺は引かない。そう思った。
社長がスーパーカブを退職金代わりにくれた。俺はボストンバックを肩にかけ、夜の街を走った。雨が降りだした。信号が、滲んで見えた。
気がつけば、俺は道場の前にいた。降りだした雨は激しく俺を叩きつけていた。道場の中から、サンドバックを叩く音が聞こえる。誰だろうと思い、道場に入ると、そこには宮本師範が、鬼のような形相で、ひたすら、回し蹴りをしていた。こちらに気づき、表情を緩ませた。
「しばらく、道場で生活しろ」俺は宮本師範の言葉に驚いた。
「実は、ヤクザに」
「加賀の名前は俺も聞いたことがある、新聞屋のおっさんから、連絡があった」
「そうなんですか」
「変な気をまわすなよ、俺自身も建築の仕事を干されている。要は圧力だな、引くに引けない戦いになるな」戦いという言葉に俺の胸は、一瞬踊った。血が騒ぐ。そうだ男とは戦うものだ。俺は間違ってはいない。以前、真美に言ったことを思い出す。なんのため、そんなこと、分かりはしない、ただ腹の底から力が湧いてくる。
「じゃあ、宮本師範も」
「当たり前だろ、俺たちは男だ。まあ、すぐに行動に移すわけにはいかないが、とりあえず、今は耐える時だ。それと西山には強烈な稽古をつけてやる」
「ありがとうございます」俺は深く頭を下げた。
夜の道場は静まりかえっていた。電気が消え、仄暗い闇の中で、俺は毛布一枚に包まり、キックミットを枕代わりにした。月の光が僅かに差し込んでいた。俺は立ち上がり、窓を開けた。夏だというのにひんやりとした風が、吹き抜ける。強くなる。また、自らに言い聞かせる。大きく深呼吸をして、軽く柔軟をした。凛とした気持ちになる。やがて睡魔が体を巡ってき、意識は、ゆっくりと氷解し、深い眠りに落ちていった。
小鳥のさえずりで目が覚めた。道場の中には朝の光が差し込み、空気は澄んでいた。無性に腹が減った。そういえば昨日の晩から、何も食っていなかった。近くに、コンビニがあったはずだ。俺は立ち上がり、首をぐるりと回し、大きく背伸びをした。
「えらく、早起きね」聞き慣れた声が、背後から聞こえた。振り返ると、真美が立っていた。
「どうして、真美が」俺の鼓動は速くなった。
「お前の男が、腹空かせて待っているぞって、兄が」俺は自分の顔が赤くなるのを感じた。
保温式の弁当の中には、味噌汁や、温かい玄米、ホウレン草、キャベツ、焼き鮭が入っていた。かなりのボリュームだった。
「朝からこんなに食べるのかよ」
「西山君は武道家になりたいのでしょ、朝食は大事よ」俺は肯き、弁当に箸を持っていった。玄米は初めてだったが、意外に美味く、腹が減っていたせいもあって、自然に笑みがこぼれた。
「それから、煙草はやめることね」腕を組みながら、真美は微笑む。
「きついな」
「兄からの伝言でもあります。今は若いからいいけど、この先、武道を続けていくには、かならず、マイナスになると、それと、お酒もね」飯は腹の中にどんどんはいっていき、空腹感は満たされていくが、朝からいきなりのお咎めだった。
「急には、ちょっと」
「道場は禁煙ですよ」真美の声は厳しい天使のようだった。暫く考え込み、俺は今から煙草と酒はやめることを、宣言した。真美は誓約書まで、用意していた。さらに真美は、宮本師範からの伝言をさらに続ける。起床は6時、まずは、道場の掃除を徹底的にやること、それから、走りこみ。10キロ、ストレッチは一時間かけること、腕立て300回、腹筋、背筋、500回、これを、午前中にやり、昼と晩は基本的に自炊、玄米を主食にし、インスタントは、避けること。午後からひたすら基本稽古、常に、相手をイメージすること。夜はいつも通り、道場にでること。綺麗な真美の顔が鬼のように思えた。
どちらかといえば、走るのは苦手だった。新聞配達のように、短距離的にこなすのは、苦ではなかったが、長い時間をかけ、黙々と走るのは、退屈のような気がした。真美が、現れた時は、一瞬、甘い抱擁を期待したが、場所は道場だし、いたって、真美は、クールだった。言うべきことを言い、大学に行くと言い、すぐに帰ってしまった。面白い論文が、書けそうだとも言っていた。
川沿いをひたすら、走る。スピードを上げたいところだが、いかんせん10キロは長丁場だ。軽く流すようにしなければならない。水鳥達が、太陽を背にし、川面を水平に飛んでいた。自然の中に溶け込み、なにか有名な絵画を見ているようだった。
息が切れてくる。が、まだまだこれからだ。俺は、気合いをいれた。
ほとんど、倒れこむように、道場に戻ってきた。2時間は走っただろう。これから、タイムを短くしていこう。体は火照り、疲れているのだが、もっと、もっと練習がしたかった。
夕方になると、橋口さんがやってきた。電話で宮本師範から、今回のことを聞いてきたようだった。
「西山、もとはとい言えば、俺のせいだ。すまないことになった」橋口さんは深々と頭を下げた。
「橋口さんのせいじゃないですよ」
「加賀の事務所の場所は調べてきた。証拠さえあれば、なんとかなるが、今は難しい。法律家として、いらつくところだ」疲れた表情を見せていた。
「宮本師範も大変だし、僕としては」暫く沈黙があった
「殴りこみか」橋口さんの目が鋭く光った。
「宮本師範も、仕事に影響が出ているみたいだし、自分で、蒔いた種は、自分で刈り取りたいです」俺の口ぶりは、意外にも冷静だった。
「俺、弁護士だぞ」橋口さんはニヤリと笑った。
厚い雲に覆われ、今にも雨が降り出しそうだった。カラスの鳴き声が遠くで聞こえていた。俺と橋口さんは古びた雑居ビルの前にいた。おもむろに足を進める。フロアーに入りプレートに目をやると、マッサージや雀荘など、風俗らしき店が、いくつか入っているのがわかる。その中に加賀興業という名に目がとまる。足がどこか、宙に浮いている感じだった。エレベーターを使わず、一歩、一歩、階段を上っていく。
「西山、今なら、引き返せるぞ」橋口さんの声は昂ぶっていた。
「大丈夫です」
橋口さんが、いきなり、扉を勢いよく開けた。中にいた、坊主頭の男が、驚き、こちらを向いた。三人の男がいる。奥のごつい体をした男が、キツイ顔をした。間にいる男は虚ろな目をしている。
「どこのもんだ」ごつい男がでかい声を出す。その声には、凄味があった。
「悪臭がしたので、ちょと、よってみた。臭い元はおまえか」橋口さんが挑発する。
「なめてんじゃねえぞ」ごつい男は悪臭と呼ばれ、いきりたった。横にあった、木刀を手に持ち、振りかざしてくる。橋口さんは、見切ったように、体をそらし、男にワン、ツウパンチを決めた。ゴンという骨の折れた音がした。鼻から、血をだし、男は倒れこんだ。坊主頭の男は、震え、部屋の隅に駆け出した。残っている一人は、薬でもやっているのだろうか、ニヤツキながらジーンズのポケットからバタフライナイフを取り出し、俺に向けて構えた。冷たい汗が、背筋に走る。刃物を、使う奴と、喧嘩をするのは初めてだ。ギラついた、銀色が不気味に光る。男はナイフを振りかざして、突進してきた。俺は正面蹴りで、相手を、吹っ飛ばした。だが、男は、すぐに立ち上がってきた。だが怯えた目をしていた。勝てる。俺は、直観的に感じた。喧嘩とは相手を飲むことだ。男は必死で、こちらに向かってきた。目が充血している。再度振りかざされたナイフを俺はスエイバックでかわし、脇腹に、回し蹴りを、ぶち込んだ。男の顔が見る見る青ざめる。呼吸困難に陥ったようだ。俺と橋口さんは目を合わせた。
「あんまり、悪さ、ばかりしているんじゃないぞ、今日のところはこれで帰ってやるが、自分の胸に、手を当てて、日頃の行いを反省するんだな」男たちは、うなだれていた。
「おまえら、このままじゃ」橋口さんに鼻を折られたらしい男が捨て台詞を吐く。見つめていた。
「おどす元気があるみたいだな、まだ、懲りないのか」橋口さんは男を、ぐっと睨んだ。
「いや、すいません」男は、鼻から血を、ぽたぽたと流していた。
加賀本人がいないことに、正直なところ、ほっとした部分もあった。一度しか会っていないが、氷のような目が、思い出された。怖いというより加賀のことを考えると、どこか、不安になる。今、こうして、橋口さんと、一つのことを、やり遂げたのにだ。燻っている炭の熱のようなものが、胸にあった。
「加賀はいなかったな」橋口さんは興奮気味だった。道場に戻り、二人で今日のことを話していた。
「仕返しに来ますかね」
「そしたら、また、やってやるよ」大きな声だった。
「戦いというものは、そういうものですかね」俺は小さな溜息をこぼした。橋口さんも、どこか、深い色の瞳をしていた。
「確かに、虚しい繰り返しかもしれない。ただ、引いてしまうと、相手の思うがままに、なってしまうしな、男は、否、女だって、戦っているんじゃないのかな、それが資本主義だしな、今日みたいに、勝っても、不安や、虚しさが残ることもあるがな」
ほとんどの人が、何かに、向かって、追い立てられているといってもいい、俺自身、戦うことは、正しいことだとは思うが、この虚無感は、いったいなんだろう。何も、生まれない、ただ、破壊しているだけじゃないのか、不意に頭の中に、破壊という言葉が残り、染み込んでいくようだった。
不安とは、ほど遠い、平穏な日々が戻ってきた。宮本師範への仕事の圧力も、無くなり、無謀だったが、事務所への襲撃が、いい方への流れに、ことを運んだようだった。
俺は、別の新聞屋に勤めることになり道場での寝起きも今日までだった。荷物の整理をしていると、真美がやってきた。久しぶりだった。道場の空気感が変わり、何か、温かいものが、腹の底から沸いてくる。真美は、静かに微笑んだ。どこかで、鳥の鳴き声が聞こえる。俺は真美をじっと,熱く見つめた。真美の手をとり、抱きよせた。
「会いたかった」俺の体内に柔らかな温もりが伝わってくる。
「痛いよ」でも、真美は離れようとはしない。どれくらいの時間が過ぎただろうか、まるで、時が止まっているかのようだった。
「二人で住みたい」思ってもみなかった言葉が、口から出た。
「どうしたの、急に」
「真美を離したくない」俺はどこか、不安だった。今の夢のような時間が、もうすぐ終わるような、切ない気持が押し寄せていた。
「いいわよ」真美は、あっさり、真美らしく承諾した。突然、咳払いが、聞こえてきた。宮本師範だった。
「ここを、どこだと、思っている」きつめの口調だが、顔はどこか、ほころんでいた。俺は頭を掻きながら、真美と離れ、挨拶をした。真美はどこか嬉しそうだった。
「色々あるみたいだが、まあ、道場での生活は、今日までということだな」俺は肯き、何かをやり遂げたような充実感に包まれた。ヤクザとの戦い、真美の美しさや、イケイケの橋口さん、広い心の宮本師範。俺の体は、躍動する、動物のように、跳ね上がりかけていた。全てが、上手くいくように思えた。
俺は新しい、新聞屋で、好きな女と住みたいので、給料を高くしてくれるように言った。生意気かもしれないが、俺は、すぐにでも真美と暮らしたかった。新しい所長は、笑って、集金もやれば、2dkのマンションを借りてくれることと、給料も考えてやると言ってくれた。俺は真美との新しい生活を夢見ていた、さらに俺の中で、一つ、拳法に対して、ある考えが浮かんでいた。それは、これから、どんどん大会に出て、名を上げ、いずれは自分の道場を持ちたいというものだった。夏は終わりかけていた。背中に、風が吹きつけたているような気がした。
真美と公園で待ち合わせをしていた。厚い雲が空を覆っていたが、例え雨が降ろうと、今の俺にはたいしたことではないように思えていた。
焦げ茶色の所々が剥げかけている木のベンチに俺は腰を掛ける。
小さな子供達が、砂場で、遊んでいる。不意に子供の問いかけを思い出す。強さとはなんなのか。
鼻の頭に水滴が一粒落ちてきた。どうやら雨が降り出してきたようだった。俺は別に濡れてもかまわないが、真美のことが脳裏によぎる。大事な人が雨に打たれるのは、いい気分ではない。真美のことだから、きっと傘を持ってきているだろうと、自分自身を安心させる。
子供達が、雨から、逃げるように、笑い声をあげながら、走り去って行った。
約束の時間になっても、真美は現れなかった。時間は、過ぎ去っていく。カラスの鳴き声が、苦しげに聞こえ、何か、嫌な予感がした。発作でも起こしたのか、俺は携帯を取り出し、アドレス帳を開き、発信ボタンを押した。電源が切れているというメッセージが、流れてくる。雨が激しく降りだした。
激しい不安が俺を襲う。
携帯が鳴った。俺はディスプレイを凝視した。宮本師範からだった。
「西山、今、真美と一緒か」低い声が、響く。
「違います」
「そうか、実は、昨日から、あいつ帰って来てないんだ」俺は、その言葉に愕然とした。頭に浮かんだのは加賀の、寒々とした、目だった。
「今、道場にいる。こっちに来ることはできるか」
「すぐに行きます」
スーパーカブの、アクセルを全開にする。横殴りの雨が、勢いを増し、視界が、狭くなっていく。真美は、もしかすると、さらわれたのかもという疑念が、沸々と沸いてくる。どうすればいいんだ。
道路に何か、光る物があった。空き缶だ。そう思った時には、前輪が、横に滑った。俺はハンドル操作が出来なくなり、濡れた道路に弾き飛ばされた。
俺は仰向けになり、黒々とした空を眺めた。
「大丈夫か」見知らぬ人が、声を掛けてきた。俺は何も言わず、立ち上がった。単車を起き上がらせ、何度もセルを回した。まったく、エンジンはかからなかった。俺は声を掛けてくれた人に軽く頭を下げ、歩道に、スーパーカブを止めた。早く道場に行かなければならない。ジーンズは破れ、膝から、どくどくと、血が流れていた。怪我などどうでもいいと思った。俺は黙々と歩きだした。
道場には、橋口さんもいた。宮本師範は、眉間に皺を寄せ、腕を組んでいた。俺は道場にある、救急箱で、宮本師範に言われたとおり、足を消毒し、自ら包帯を巻いた。
「加賀だな」宮本師範も、俺と同じことを考えていた。
「昨日の帰り、買い物帰りの姿を見ましたけど」
橋口さんは落ち着いた口調だった。
「どこで見たんだ」宮本師範の声は静かだった。
「駅前の商店街です」
「警察に」俺は、声を荒げた。
「事件性があるかどうかわからないとか、本人の意思でとか、奴らのことだから言うだろう。あてには出来ないだろう」
「弁護士の僕が、圧力をかけます。警察を動かします」橋口さんの言葉に、宮本師範は、考え込んだような表情をした。
「わかった。とりあえず、警察に頼ってみる。だが、加賀のことだ、尻尾はださないだろう」
「最悪の場合、親父がいます。政治家です。名を橋口
憲次郎と言います」俺は自分の耳を疑った。新聞で、時々、目にする名前だった。たしか、大臣経験もあり、世の中では大物だということになるのだろう。
「橋口、おまえ」松本師範は意外にも冷静だった。
「親父の力を借りるのは嫌ですが、親父なら、裏の世界にも顔が利くし、加賀とコンタクトが取れると思います」
真美と一緒に住む予定だったマンションの部屋に戻り、俺は、缶ビールをひたすら飲み続けた。朦朧とする意識の中で、ひたすら真美のことを思った。いったい、何をされているのか、体の中からドス黒い、怒りが込み上げてくる。警察には行ったが、最初は、若い娘の気まぐれではないですか、などと言われたが、橋口さんが弁護士だと名乗ると、急に、態度を急変させ、捜索願いを受理した。後は、橋口さんが、親父さんと、どういう話をするのかだ。俺は自分の無力さを、痛感した。まるで小さなプールで、喜んで泳いでいただけの子供のようだと思い、自らに嫌悪感を抱いた。喧嘩が強くても、世の中の現実の波にぶち当たれば、ただの力自慢にしか過ぎない。
買ってきた缶ビールが無くなった。明日のことはどうでもよかった。もっと酒が飲みたい。俺は、ふらついた脚で、スニーカーを履き、玄関の扉を開けた。階段を降り、エントランスを抜け車道に出る。空を見上げると三日月が何かいびつなもののように見えた。視線を前に戻すと、居酒屋の赤提灯が目に映った。丁度いい、あそこで酒を煽ろう。もっと意識を、ふっとばしたかった。
店に入り、カウンター席に腰掛けた。店主は、見ていたテレビから、視線を逸らし、注文を聞いてきた。瓶ビールを頼んだ。
ビールをグラスに注いだ後、一気に喉に流し込む。いくら飲んでも、真美のことが、頭から離れない。事故で怪我をした足の痛みが疼く。
チンピラ風の男二人が、店に入ってきた。他にも席があるのに、まるでわざとのように俺の隣に座ってきた。体の中に虫唾が走った。男達はなにやらニヤニヤとしている。店主は、意に介さず、男たちが注文した瓶ビールをカウンターに置く。
「今日の女は良かったな、ありゃ、男をほとんどしらないな」一人の男が口を開いた。
「兄貴、そんなのが好きですからね」周りにわざと聞こえるように声を出した。
真美のことではないのか、俺は、男たちを睨みつけた。
「なんだ、兄ちゃん、俺たちに文句でもあるのか、それとも話を聞いて、あそこが、立ったか」そう言って、手前の男はでかい笑い声をあげた。体の血が逆流する。
「表にでろ」俺は言葉を発する。
「俺たち相手に、喧嘩売ろうってことか」隣の弟分らしき男がいきり立つ。
「おまえら、加賀のとこの奴らだな」俺は間違いないと思った。
「何、訳の分からないこと言ってんだよ、シャブでも食ってんじゃねえのか」二人の男は、馬鹿笑いをする。
「びびってんのか」俺は立ち上がり、男たちを表に促すように、顔を店の外のほうに向けた。その時、頭に激痛が走った。振り返ると、男が、もう一度、ビール瓶を俺の頭にめがけて、振りかざそうとしていた。咄嗟に、腕をクロスさせ、かろうじて、受けた。頭から血が出ているのだろう。目に血が染み込み、視界が滲む。
[なめてんじゃないぞ、ガキが]ビール瓶を持った兄貴分らしき男が怒声をあげる。朦朧とする意識の中、相手の腹に正拳突きを打ち込んだ。男の顔は、一瞬で、青くなった。もう一人の男が、掴みかかってきた。俺は鼻にめがけて、頭突きをいれる。鈍い音が響いた。相手の鼻が折れたようだ。俺は機械のように冷静になっていた。相手はへたりこんだ。
「くそガキ、おまえなんか、たいしたことない。俺たちはもっと、もっと、怖いものを知っている」青ざめていた男が声を張り上げる。息を吹き返したように、またビール瓶を振りかざしてきた。それをかわし、右ストレートをカウター気味に放つ、足元が、ふらつき、男は倒れこんだ。俺は男に馬乗りになり、顔を殴り続けた。
「これ以上、やったら、兄貴が死んでしまう、兄ちゃん、もう、いいじゃんか」鼻を折られた男が、俺を止めようと必死で声を上げる。こんな奴、死ねばいいんだ。腹の底からそう思った。どからともなくサイレンの音が聞こえた。口元に自分の頭からの血が流れてくる。鉄錆の味がする。俺の意識が遠のいていった
加賀 巽は、兄の墓の前にいた。供養の花も、線香も用意せず。墓石を見つめていた。兄貴、筋は通してやるよ、俺も、兄貴もガキの頃から、舐められるのが、大嫌いだったよな、でもな、兄貴、最近、思うんだ。間違っていたんじゃないかと、金、女、欲にまみれて、生きてきた。気がつけば、兄貴までいなくなっちまった。まあ、利害だけで、繋がっているえせ兄弟は、多いがな、まあ人生なんてこんなものかもしれないな。
真美っていうのはいい女だ。悪くない。他人の物を頂くのは最高だ。シャブ漬けにするには、もったいないが、どこにも逃げられなくする為には、いつも通りにするしかないさ、女の澄んだ目が、獣のように、ぎらついていくのを見るのも悪くない。人間なんて、所詮は動物だ。上手く飼ってやらないとな、ヤクザが嫌いな兄貴だったけど、俺は、ヤクザじゃないと、生きられない、どうしようもない人間だが、兄貴の敵はとってやるよ。
加賀は、白い粉を包んだ銀紙を火で炙り吸引する。全てが、自分の思い通りにいくような気がする。頭は冴え、どうすれば、人が、自らに、ひれ伏すか、そんなことばかり考える。加賀は、いつも、良質のホテルを、転々としていた。敵が多く、沢山の人に恨まれている加賀にとって、ホテルは、牙城のようなものだった。
部屋をノックする音が聞こえた。加賀は用心深く、ドアスコープに目をやる。舎弟の一人が、目に映った。チェーンを外し、重いドアを開ける。
「どうだ、上手くいったか」加賀は威圧的な声を出す。
「どうやら、花火になっちまって」
「喧嘩か、相手が手を出してきたか、面白いじゃないか」
「今、病院に運ばれたみたいです」少し躊躇いながらの口調だった。
「まあ、別に、サツのほうは、ただの喧嘩と。して処理するだろう。面会にはちゃんといってやれよ、ところで、女は」
「もうすぐ、こちらに着くと思います。だいぶとシャブが効いてきています」舎弟の男の携帯が鳴った。
「到着したみたいです。女」その言葉を聞いて、加賀は、口の端を上げ、鼻を鳴らした。舎弟は踵を返した。
「ごくろうだったな」加賀は声を掛けた。舎弟の男は振り返り、加賀の方を見た。
「実は、兄貴の兄さんの件なんですけど、ハメたのは、実際のところ、街金融のようなんです。それで裏で、その絵を描いたのが、竜崎組です」
竜崎、兄貴分だ、加賀の頭の中で、激しい怒りが込み上げてきた。頭に激しく血が昇る。
加賀は、大きく、息を吐いた。そうさ、これがヤクザの世界だ。殺らなきゃならない奴は沢山いる。そういうもんだ。
真美は大男二人に腕を掴まれ部屋に入って来た。目は虚ろで、一言も口を聞かなかった。
「もう、今日は帰っていいぞ」加賀は、舎弟達に言った。
頭の痛みで目が覚めた。白い天井が重くのしかかってくるように思えた。
「目を覚ましたみたいね」若い女性の声が聞こえた。目で声のほうを追ってみると、看護師の姿があった。病院のようだ。
「すぐ、先生を呼んできます」看護師は、小走りで病室を後にした。体が一回り小さくなったような妙な感覚があった。相手の奴らは、どうなったのだろうか。靄がかかったような頭の中で、また怒りが込み上げてくる。それとは反対に体には力が入らない。
医者は、もうあと数センチ、傷の場所が違っていれば、危ないところだった。君はついていると、言った。少しばかり小難しそうな顔をし、傷口をみて何度か肯いた。横にいる女性の看護師は笑顔を絶やさない。
「よし、大丈夫そうだ。若いからすぐ回復するだろう。無理はしないように」そう言って、軽やかに立ち上がり、忙しそうに病室を後にした。
警察の人がやって来たのはそれから一時間ほどしてのことだった。二人組の、一瞬、ヤクザにでも見えそうな男達が、やって来た。ただあいつらとは違い目は濁っていないように感じた。スーツ姿の中年の男と若い男だった。年を食った方は、笑を浮かべていたが、若い方は、眉根に皺を寄せ、こちらを威嚇しているようにも思えた。
「元気がいいのは、良いが、暴力はよくないな」中年の男は、顎に手をやりながら話す。警察か、俺は、なんともいない虚無感に襲われた。真美のことでは、動かず、気がつけば、俺の前にいる。
「お前、黒帯持っているのか」若い男がすごむ。
「一応」俺は正直に答えた。
「法律では刃物を使ったのと一緒だな、まあ、しかし、相手はヤクザものだ、向こうは何も言ってきてないし、君の方も別に取り立てて、どうこう言うつもりはないだろう。まあ喧嘩両成敗ということかな」中年の刑事の口調はどこか事務的だった。
警察は、いったい何の為にあるのか、俺の心の中で、無力感が、鐘の音のように響く、俺は肯いた後、病室の低い天井を見つめた。
警察の人が帰った後、俺は、病室を抜け出した。歩くと目眩がしたが、真美のことを考えると、いてもたってもいられなかった。手すりにつかまりながら、ゆっくりと、階段を降りていく。思いついた行先は道場しかなかった。
道場には灯りがついていた。俺は、砂漠の中で、僅かに水のありかを見つけたような、気がした。中に入ると、橋口さんと、宮本師範がいた。
「どうした、その包帯」宮本師範が、顔を歪めた。俺は事情を簡単に説明した。宮本師範は冷静に肯いていた。
「もうすぐ、なんとかなる」橋口さんが比較的、明るい声を出した。どうやら橋口さんが父親に頼み、加賀とコンタクトが取れたようだった。さらに、警察は誘拐事件として、今、動き出しているということだった。
加賀とはいったいどういう話になったのだろうか、そのことを聞こうと思った時に橋口さんが話し出した。
「どうしますか」橋口さんが、宮本師範に尋ねる。
「わかった。その条件を飲もう」宮本師範の表情は厳しい。
「どういう意味ですか」俺は橋口さんの方に目をやった。
「たぶん、警察が動いても、真美が、帰ってくる保証はない。実行犯が挙げられても加賀の名前は出さないだろう、それで、親父いわく、裏取り引きということだ。一千万の金と、道場をたたむ事が、条件だ」橋口さんが俺を見ながら言った。気のせいか、どこか満足そうに思えた。金、裏取り引き、道場をたたむ。俺の頭の中は混乱した。でも真美が、帰ってくるかもしれない。俺は一縷の望みを持たずにいられなかった。真美さへ帰ってくればそれでいいじゃないか、俺は宮本師範に目をやった。その時、宮本師範が、フッと夕闇の影のように動いた。橋口さんの悲鳴が道場に響きわたった。宮本師範が、突然、橋口さんに目潰しをした。
「橋口、俺が何も知らないとでも思っているのか、お前が真美に言い寄っていたことは知っている。何が、買い物姿を見ただ、真美は、駅前の商店街へは行かない。小さい頃、あの商店街で何度か発作を起こしたことがあって以来、そこにはいかいようになったんだ。また発作が出る可能性があるからだ。おまえが、加賀と組んでいることは、もう分かっている」松本師範の顔はどこ悲しげだった。体は小刻みに震えていた。橋口さんは、両手で目を覆い、のたうちまわっていた。
「俺にこんなことをして、いいと思っているのか、弁護士で、親父は政治家だぞ、俺は、おまえらとは違う。なのに、真美ときたら、俺を相手にもしなかった。西山なんかと、くっつきやがった」俺は、自分の取り巻く、全てが音を立てて、崩れ破壊されていくのが分かった。意識が朦朧とする。
「橋口、死にたいのか、ここは道場だ。全て、事故ということに出来ることぐらい、わかるだろ」宮本師範の声に、橋口は、震えながら肯いた。
「加賀に電話しろ、条件は飲んだ金も受け取ったと、だから、真美を開放しろと、今すぐにだ」橋口は怯えながら、ポケットを探っていた。目が見えなくなっているようだった。俺は携帯を取り上げ、加賀で検索した。そこには、確かに加賀の名前があった。
橋口さんは、宮本師範の言った通りに行動した。
「西山、後は任せろ、病院に戻れ、おまえは、まだ若い」宮本師範の、いつもの声だった。俺には、どうすることもできないと思った。
病室で、俺は、あまり何も考えず、窓から入ってくる風を感じていた。以前子供が聞いてきた、強いとは、なんなのか、今の俺には、分からなかった。
俺は、また、煙草を吸い始めていた。病院から少し離れた喫煙所では、元気もなく、疲れている人達が、集まっているような気がした。携帯が震え、着信画面を見ると松本師範からだった。
「西山、真美が、見つかった。ただ、今は誰にも会いたくないそうだ。もし、連絡があったら頼む」宮本師範の声は、どこか、掠れていた。俺はその言葉に息が詰まった。
「今からでも、会いにいきます」俺はとてもでかい声を出した。
「頼むから、待っていてくれ、今は、そっとしてやってくれ、それから、お前には素質があるから、拳法は出来れば続けてもらいたい」まるで別れのセリフのように聞こえた。何か胸が疼いた。
「宮本師範、今どこにいるんですか」
「どこでもいいじゃないか、なあ、西山、先のことは誰に分からない。だから、まあ、だからこそかな、自分のことは自分で決めていけ」俺は声を出さず何度か肯いた。
「とりあえず、真美からの連絡待ってみます」言葉を絞り出した・
「悪いな」そう言って電話は切れた。
俺は煙草に火を付けた。紫煙がゆらりと空に上っていく。真美が帰ってきた。ただ何もできない自分がとてもはがゆかった。
病院で、夕食を取り、テレビのニュースを見ていた。
(今日の夕刻、5時に、殺人事件が発生しました。被害者と見られる男は暴力団幹部、加賀 巽、加害者は、宮本謙信、相手の腹部を鋭利な、刃物で、メッタ刺しにし、被害者は死亡。現場には、被害者の複数のボディーガードがいたため、加害者に拳銃を発泡、宮本謙信も搬送先の病院で、死亡が確認されました。警察は、事件の背後関係を捜査中です)
頭の中の空白にまるで墨汁が染みていくようだった。加賀が殺され、宮本師範がこの世からいなくなった。どこからともなく子供の声が聞こえる、強さってなに。
放心したまま、俺はベッドに横になった。言葉は何も浮かばなかった。
いつものように、俺はスーパーカブにまたがり、新聞を配る。今は、ただ、食うために、仕事を続けていた。眩しかった、季節が、過ぎ去っていったような、ただ、日々が過ぎていく。
夕刊を、配り終え、寮のマンションのポストを見ると、手紙が投函されていた。俺の手は震えた。真美からだった。
拝啓
突然、手紙をだして、ごめんなさい。私は、今、精神科に入院して、薬物治療を受けています。論文を見てもらうつもりが、こんな風にしか、言葉を紡ぎだせなくて、残念です。
あなたとの思い出は、永遠に私の中で、美しく、生き続けるはずです。あなたのことが心配なのですが、もう、会うことは出来ません。私の、お腹の中には、赤ちゃんがいるのです。そう、加賀の子供です。随分、悩みましたが、生むことを決意しました。私なりに懸命に生きていきます。
あなたの幸福を心から祈っています。さようなら、ありがとう。
敬具
俺の中で何かが、爆発した。嗚咽し、大声を出した。俺は、俺は、強くなりたい。必ず、きっと強くなってみせる。
了
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