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水谷健吾の短編集

思考実験短編「モノクロ人間」

作者: 水谷健吾

西条がモノクロ人間の居住区にやってきたのは18時ぴったりだった。


郊外の住宅街にあるマンホールから下水道へと降りると、蒸し蒸しとした熱気が体にまとわりつく。カッターシャツの内側で汗が吹き出すのを感じながら、西条はスマホを取り出した。南南東の方角を確認しながら、薄暗くなっている奥地へと歩みを進める。時折、生ゴミのような異臭が西条の鼻を刺激した。


10分ほどで、むかって右の壁に鉄製の扉が姿を見せた。額の汗をハンカチでぬぐって西条は手の甲を扉に近づける。しかし、その前に鉄製のそれはゆっくりと開いた。モノクロ人間は耳が良い。来訪者が来たこと、そしてそれが西条であることを彼の足音から把握したのだ。

「やぁ」

出迎えたのは白いTシャツを着た体格の良い男だった。顔にシワが刻まれているがその表情は若々しい。

名前は矢野。今年で40歳になるらしいのでちょうど西条のひと回り上ということになる。

「ご無沙汰しています」

西条が頭をさげる。

「久しぶりだね」と矢野は笑った。

「ちょっと痩せた?」

「そうですかね」

西条は自分の体をぐるりと見渡し、それから矢野の目を見た。上下のまぶたの間は真っ白な結膜があるだけで黒い部分が存在しない。いわゆる白目を剥いた状態のままである。それこそがモノクロ人間の特徴だった。

「早上がりだったんですか?」

「そうそう」

いつもこうだと良いんだけどね、と言いながら矢野は歩き始める。慌てて西条はその後を追いかけた。


下水道はあちこちへと枝分かれしており、そしてそれが個々のモノクロ人間たちの部屋へと繋がっていた。ここを訪れる度に西条は、平面方向に広がるアリの巣を連想してしまう。

「良雄くんはどうしてますか」

何気ない感じを装い、西条は矢野に尋ねる。

「まぁた本を読んでるよ」

わずかに顔を振り向かせ、矢野は答えた。

「西条くんはいつ来るんだってうるさくてさ」

真っ白な目はどこに焦点が当たっているかわかりづらい。ただ、矢野が自分のトートバッグを見ているのをなんとなく西条は感じた。肩にかけていた持ち手が少しばかり重くなった気がする。

「毎度毎度ありがとね」

「好きでやっていることですから。あ、矢野さんもどうですか?」

西条は話を振ってみる。

「良かったら何冊か見繕ってきますよ」

「むりむりむり」

自分の顔の前で矢野は大袈裟に右手を振った。

「前に1冊もらったでしょ?あれで心が折れちゃったよ」

「読書は慣れによる部分も大きいですから」

「いやいや、こういうのは慣れじゃないって」

矢野が卑屈な笑みを浮かべた。

「俺たちは所詮、モノクロ人間だし」

モノクロ人間。西条は頭の中でその言葉を繰り返す。世界の景色が全て白黒に見えてしまうモノクロ病にかかった人間のことだ。ただの色盲と違うのは、眼球から黒目が失われ、体の免疫力がさがり、そしてほぼ100%の確率で遺伝するということ。いま現在、はっきりとした治療法は確立されていない。

「皆さんには機会がなかっただけなんです」

既に何度か話した内容を、西条は改めて矢野に伝える。

モノクロ人間は義務教育を受けることが難しい。法律によって禁止されているわけではないが、世の中の潮流としてまだそれが受け入れられていない。他の同級生から、そしてその親から、場合によっては教師からも異端の目を向けられ、段々と学校に通うことを止めてしまうのだ。

そして、そのまま大人になった彼らの言動を見て「モノクロ人間は野蛮」「モノクロ人間の知能は低い」などという意見が飛び交う。

「順番が逆なんですよ」

そう。全ては順番の問題なのだ。ちゃんとした教育を受ければモノクロ人間だって普通の人間と変わらない。いや、視力の代わりに聴覚が発達したように、分野によっては普通の人間を超えることすらある。西条はそう信じていた。

「難しい話はわからないや」

ハハハ、と矢野は笑い、そして背中をぽりぽりと掻く。Tシャツの下から見える焼けた肌に青あざがうっすらと見えた。

「職場はどうですか?」

「…普通だよ」

矢野の声に緊張の音が乗った。

「それは『今まで通り』ということですよね?」

「大丈夫だって」

矢野の歩みが早まった。

「大丈夫なことじゃないですよ」

「もう慣れたんだ」

こういうのは慣れじゃないんです。その言葉が西条の喉元まで出かかった。しかし、

「ほら、西条くん」

その前に二人は目的地へと到着してしまった。


コンクリートの穴の先に鉄の扉が設置されている。その向こうには良雄の部屋があった。

「この話は終わりだ」

そう言って矢野は、鉄の扉を開ける。ギギギと音がして、4畳程度の窮屈な空間が姿を見せた。床のほとんどは本で埋め尽くされており、その中心でひとりの少年が分厚い専門書を読んでいる。

「良雄」

父親に呼ばれて少年は顔を上げた。次に西条に顔を向け、パッと顔を明るくさせる。

「西条くん!」

本が置かれていない場所を器用に通り、良雄は西条の元へとやってくる。

「元気にしてた?」

「うん!あ、前に借りた本、全部読んだよ」

良雄は床に置かれた一冊の本を手に取る。かつて、西条が大学で哲学を専攻してた時に買ったものだ。

「これ!これが面白かった」

良雄は本をめくり、あるページを指さした。

「マリーの部屋か」


【マリーの部屋】

マリーの部屋とは思考実験の一つである。

生まれた時からモノクロの部屋で暮らしている少女、マリー。彼女はこれまでに白と黒以外の色を見たことがない。しかしその代わりに、色に関するありとあらゆる知識を知っている。

例えば赤色は16進表記で「#ED1A3D」ということ。RGBで(237, 26, 61)だということ。

赤色の補色は緑で、信号の「止まれ」をはじめとする禁止を意味する色であること。

人間の血液や熟したトマトの色が赤であること。赤色を見た時、人は興奮しやすくなること。


さて。そんなマリーが外の世界に出たとする。新しい世界で白と黒以外の色を初めて目にした時、彼女は新たに「なに」を知るのだろうか。



と、西条はマリーの部屋に関する情報を自らの頭の中で反芻し、そして良雄に尋ねた。

「どこが面白いと思ったんだい」

良雄は「そうだなぁ」と首をかしげ、

「なんか僕たちみたいじゃない?」

と答えた。良雄の発言に西条は後悔する。モノクロ人間にマリーの部屋を教えるなんて迂闊だったと過去の自分の行動を恥じた。しかし、良雄はそのことを気にする様子はない。

「だから僕もね、マリーみたいに他の色ってどんな感じなのか考えてみたんだよ」

良雄は別の分厚い書物を手に取り、それをペラペラとめくり始めた。

「例えば赤色って光の波の周期が一番長いんだって。逆に青とか紫は短いらしくて。この波長をもっと調べたら、それぞれの色がだいたいどんな感じか想像できるんじゃないかな。あ、でねでね。赤ちゃんも最初は白黒しか判断できないんだって。生後2週間くらいで、まず赤色が識別できるようになるみたいなんだけど」

息つく間もなく話す良雄を見て、西条は大学時代のある教授の言葉を思い出した。

「全く別の分野だと思っていた知識同士が結びつき出した時、勉強は格段に面白くなる」

どうやら良雄の頭の中には、既に彼なりの教養のネットワークが築かれており、互いに共鳴しあっているらしい。

「ところで良雄くん」

永遠と話し続けそうな良雄を止め、西条はトートバッグの中を見せた。

「新しい本!?」

「そう」

「うわぁ!ありがとう」

まるで主人を見つけた飼い犬のように良雄は飛び上がって喜ぶと、むさぼりつくようにページをめくり始めた。


「飽きないもんだねぇ」

良雄の部屋のすぐ外。矢野が呆れたように笑っている。

「才能ですよ」

お世辞ではない。西条は心の底からそう思っていた。まさしく彼は神童だ。

「良雄くんが読んでいる本、難しすぎて僕はほとんど分からないんです」

「そうなの?」

矢野が目を丸くする。

「大学院に行っている同期に確認してみたら、既に知識は博士号レベルだって」

「ほぇー」

感嘆と驚きが混ざった声を矢野は漏らす。

「すごいなぁ」

「矢野さん」

咳払いをし、西条は矢野の顔を真正面から見た。

「良雄君には素晴らしい才能があります。このままにしておくのはもったいないと思いませんか?」

矢野の顔から笑みが消える。

「なに?もしかして前の話?」

「はい」

「それは断ったはずだよ」

「今こそ良雄くんの力が必要なんです。世の中の人々は、モノクロ人間が劣った存在だと思っています。でも良雄くんを見れば、その考えが誤ったものだと気づける。モノクロ人間への偏見や差別を無くす大きなきっかけになると思うんです」

少しの沈黙。

「西条くんさ」

ぽりぽりと頭を掻きながら矢野が口を開いた。

「君たちにはとっても感謝しているんだ。俺たちの生活のサポートもしてくれてるし、良雄の相手だってしてくれている」

でもね、と矢野は視線を落とした。

「そういう社会運動とか人権活動とか言われても、俺たちにはちょっと規模が大き過ぎるんだよ」

「大きくなんかありません。とっても身近な話なんです。良雄くんの力があれば皆さんの日常が変わる。新しい世界が待っているんです」

「俺たちは今の生活に満足している」

「良雄くんもですか」

矢野が一瞬、言葉に詰まる。

「もちろん」

「彼は一度もここから出たことがありません。きっと外の世界に興味を持ってます」

「そんなことはないよ」

「彼に聞いてみたんですか?」

「親子なんだから聞かなくてわかる」

「本当にそれで良いんですか。良雄くんは死ぬまで外の世界を見ずに終わるんですよ』

「それは君が心配することじゃない」

「矢野さん」と西条が言う前に、彼の視線は矢野の背後に向けられた。気づけば鉄扉が開き、そこには良雄が立っている。

「父さん」

良雄がぽつりと呟いた。

「今、西条くんと大事な話をしてるんだ。部屋に戻ってなさい」

「僕…外の世界を見てみたい」

最初、矢野は息子の言葉を理解できてないようだった。少しして「あぁ」とも「そうか」ともつかない言葉を口にし、「うん。わかるわかる」と何度か頷いた。

「そうだな。そりゃそうだ。こんな場所にずっと閉じ込められてたら窮屈だ」

矢野は腰を曲げ、「でもな」と息子の目の位置に自分の顔を合わせた。

「外の世界は楽しいことばっかじゃない。むしろ、俺たちにとっては辛いことの方が遥かに多いんだ」

モノクロ人間の扱いはひどいもんだ、と矢野は続けた。

「街を歩いているだけで指をさされたり、カメラを向けられたり、あからさまに避けられたりする。仕事だってモノクロ人間ってだけで全然、働き口はない。あったとしてもその…イジメみたいなこともある。大人でもそういう陰湿なことをする人間はいるんだ。父さんは、そんな目に何度もあってきた」

西条は、先ほど見た矢野の背中を思い出す。モノクロ人間間を化け物と揶揄し、暴力の対象にする人間は確かに存在する。

「良雄にはそんな目にあってほしくないんだ。そうならないように貯金だってしてきた。良雄は、大好きな本を読んでずっとここで暮らせば良い」

良雄は黙ったままだった。

「良雄?」

その沈黙は、彼が父親の言葉に納得できてないことを示していた。

「どうしてだ。…頭の良いお前なら分かるだろ?それこそ色々な本に書いてあるはずだ。モノクロ人間の扱いがどんなものかなんて…な?お前なら十分過ぎるくらい分かってるだろ?」

「うん。分かってる」

良雄が小さく息を吸い、「でも」と言った。

「分かってるけど…分かってない」

矢野が困惑の表情をする。

「モノクロ人間がどういう扱いをされているのか。父さんから話を聞いてたし、本で読んだこともあった。でも、僕はまだ体験していない。体験してないってことは…」

良雄が西条を見る。白目の彼の目線が、自分の目をはっきりと捉えたのを西条は感じた。

「まるでマリーの部屋だ」

「なんだって?」

「僕は外の世界を知識で知ってるだけだ。でもそれだけ。体験してないんだよ」

「体験する必要はないだろ。そうならないよう父さんが話をしてる」

「それじゃ実感がないんだ!」

「実感?」

「自分の目や耳で外の世界を知ってない」

「だから知ってるじゃないか!本の知識で!父さんの話で!」

「ダメなんだよ。マリーみたいに外に出ないと!じゃないと世界についての実感は得られないんだ」

「なんだよ、マリーって!」

「矢野さん。マリーの部屋というのはですね」

慌てて西条は補足をする。マリーの部屋という思考実験があるということ。白黒の部屋で知識を得たマリーだが、そんな彼女は外の世界に出てることで色についての実感を得たと言われているということ。つまり良雄は、知識だけじゃなく、自分の身を持って体感したいと言っているということ。それらをできる限り噛み砕いて説明しようとした。だが、

「もう良いよ」

西条の説明を途中で遮ると、矢野は良雄に背中を向ける。

「…勝手にしろ」

そのまま踵を返し、良雄の部屋とは反対の通路へと歩いていった。


「矢野さん」

自分の部屋で佇む矢野の背中に、西条は声をかける。

「思い通りいかないもんだねぇ」

振り向くことなく矢野は笑った。

「そりゃ、無理だと分かっていてもさ。子供には一切の悪意に触れずに生きて欲しいって思うじゃん」

「すいません」

西條が謝ると、矢野は振り返って西條の顔を見た。

「あいつのこと頼むよ」

「よろしいんですか」

「結局はあいつの意思が一番じゃん」

矢野はそう言うと「これで良かったんだよ」と何度か繰り返した。そして部屋に設置されている小さな机の引き出しから一冊の本を取り出す。

「返すわ」

表紙には『はじめての子育て』と書かれていた。西条はそれを受け取り、ペラぺラとめくる。

「随分と読み込まれたんですね」

ページの端はあちこちが折り曲げられ、至るところに黒のボールペンで線が引かれていた。

「頭悪いからね。一回、読んだだけじゃどうも」

矢野は鼻の頭を掻き、「そういえばそこに書いてあったことなんだけど」と続けた。

「子供は親の所有物じゃない。いつか自分の元から離れていくものだって」

西条は目当てのページを見つける。そこには何も書き込みはされてなかった。

「何を当たり前のことをって思ってたんだけどさ」

矢野は呟く。

「実際に子供が独り立ちするのってこんなに辛いもんなんだねぇ」

そして最後にこう付け加えた。

「あぁ。これが実感てやつか」


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